内通者
文字数 3,334文字
時を少し遡り、夜、都の下町の民家の地下室で
土まみれの姿を最初に現したのは、この短すぎる夜が明けたら独身寮の前でエルーシヤと再会することになるヴァンスベール・リンセル少尉。この時点で彼はまだ、エルーシヤの無事を確認できておらず、多額の金を受け取ってもいなかった。それは今から三時間後の出来事だ。
次に床下から顔を覗かせたのは、同じく土まみれのマグダリス・ヨリス少佐。
「お疲れ様です、少佐殿。ここはもう都の内部、南部の下町ですよ」
ヨリスが膝をついて床に上がると、すぐに三人めの手が床の縁を掴んだ。その汚れた指を、地下室の床に放置された天籃石の白色光がぼんやり照らしていた。
三人めの人物は、緑髪の暗殺者、テスだった。
テスは地下室の床に立ち、汚れた服を軽く払うと、湿っぽい土を白色光にかざして観察して言った。
「今の通路は、掘られてまだ一年も経ってないな」
「ええ」ヴァンが快活に答えた。「今見てきた通り、這い進むことしかできない場所もありますし、崩れそうで頼りなく見える箇所もありますが、紛れもなく陸軍情報部が工兵を用いて造らせた通路です。情報部特務機関と、関与した工兵しか存在を知らない道です」
ヨリスは長い三つ編みの髪を背中に払った。
「その通路の存在を、士官学校を出て間もない君に教えるとは。ロアング中佐はよほど君を信用しているようだな」
「それは買いかぶりです、少佐殿。ただ人手が足りていないだけで……」
「君は私がいなくなった後の強攻大隊に配属されたと言ったな」
「はい、少佐殿」
「君を解放軍に引き込んだのは誰だ?」
「元強攻大隊のアイオラ・コティー中尉、そしてアウィン・アッシュナイト中尉です。私は解放軍との関わりを隠して強攻大隊に留まっております」
ヴァンは少しばかりの笑みを浮かべ、目を逸らした。
「いわば内通者です」
「内乱において不可欠の役割だ。私も君の働きに期待しよう。それにしても驚いた。私の出迎えに、初対面の君が
「副官のミズルカ・ディン中尉が適任かと私たちは思っておりました」
ヴァンは首を振り、もう一度ヨリスの瞳を直視した。
「ですが、『ゼフェルの後継』に対する工作でどうしても手が離せず、元強攻大隊の他の士官もここより遠くに配置されているという事情があり、私が指名されました」
「ディン中尉は何をしている?」
「ゼフェルの後継軍の行動を遅延させるために全力を尽くしておられます。後継軍は様々な思惑の集団の寄せ集めですが、そこにつけこんで、蜂起の起点にどの旗を掲げさせるかで揉め事を起こさせておられると聞きます」
「後継軍は星獣祭初日に蜂起を決行するそうだな。その意志は固いのか」
「はい。ディン中尉による遅延工作がうまくいくといいのですが……。他に懸念事項もあります。ゼフェルの後継軍の勢力が陸軍憲兵隊に食い込んでいる兆候が見られるのですが、その規模や影響力を、我々は把握できておりません」
ヨリスは頷き、質問を変えた。
「後継軍は訓練された五千の民兵を抱えていると聞くが、事実か?」
「五千は誇張です。ロアング中佐ご自身を中心とした情報士官の調査によれば、推定二千二百。十分に武装できるのは、最大でもその内の四割です」
掌を汚す土をしげしげと見つめていたテスが、それを聞いて口を開いた。
「その数で南西領の正規軍に勝てると、後継軍は思っているのか?」
「それは……」ヴァンは言葉を濁した。「私には、なんとも」
しばし沈黙があった。
思い余ったようにヴァンが口を開く。
「ヨリス少佐、もしかしたら、私の友人の行動が後継軍を急がせているのかもしれません」
「どういう意味だ?」
「私の士官学生時代からの友人で、広報部に配属されたプリシラ・ホーリーバーチという名の少尉がいます。彼女は私が解放軍に内通していることを知りません。彼女は……偶然に、ゼフェルの後継軍の武具保管庫を摘発してしまったのです。その摘発が後継軍を急がせているのではないかと……」
「全くの無関係と言い切ることはできないが、後継軍は象徴的な意味づけのために蜂起の日を星獣祭の当日と決めたのだろう。そのホーリーバーチ少尉とやらはどうしている?」
「陸軍憲兵隊に捕らえられています」
ヨリスの無言の凝視に促され、ヴァンは顛末を説明した。ヨリスにお払い箱にされた後の、ハルジェニクの動向も含めて。
「なるほど、事情はわかった。しかしホーリーバーチという姓は聞き覚えがあるな」
「プリシラ・ホーリーバーチ少尉は西方領スリロス神官団正位神官将の三女です」
「なるほど。それでか」
「長女はタルジェン島ヨリスタルジェニカ神官団の正位神官将夫人、次女はロアング中佐の直属の部下で、今はシルヴェリア第一公女殿下のもとについているはずです」
ほう、とヨリスは頷いた。
「その少尉を解放軍に引き込める見込みはあるか」
「はい。憲兵隊内部にいる同志から、ホーリーバーチ少尉が別の監獄に移送される日時を入手しております。その時を狙い、襲撃し、身柄を奪還します」
「日時か。そのようなものが守られるのか? この世界で?」
「わかりません、少佐殿。私たちにあるのは、正しいかどうかわからない地球人の遺物の時計のみ……私たち、解放軍と正規軍、どちらにとっても」
ヴァンは首を横に振った。
「一階にご案内します。どうぞ。替えのお召し物と水を用意しております」
こうして三人は、秘密の地下室への入り口があるクローゼットを通って一階の狭苦しい寝室に出た。窓は、鎧戸が閉ざされた上から板張りがされていた。三人は桶に用意された水と手巾で手と顔を洗い、服を替え、
「昼星を探しにいく」
テスはそう言い残して小さな家を去った。
外に出ると、軒の低い家々の向こうで、西の空が白んでいるのが見えた。今日の太陽は西から昇る気分らしい。地下通路の、城壁の外側の出入り口でヴァンと合流したときには、まだ夕暮れ時だったのだが。
夜が短すぎる。
家の中に残ったヨリスは、気分を変えてヴァンに尋ねた。
「強攻大隊の人員のうち、解放軍に加わった他の者はどうしている。息災か?」
「残念ながら、兵士と下士官の数名が落命いたしました。詳細はディン中尉が保管する名簿をご参照なさってください。ですが、士官たちはみな無事です」
「先ほどアイオラ・コティー中尉とアウィン・アッシュナイト中尉の名が出たな。彼女たちはどうしている」
「お二人はディン中尉とともに都中心部の女子修道院を拠点とし、主に正規軍からの略奪の任務を遂行しておられました。ですが、今は蜂起に備え待機中です」
「ウェン・ユン上級大尉は?」
強攻大隊の副長だった男だ。
「ユン上級大尉はコティー中尉たちを指揮しておられました。先週、リッカード中尉と共に、正規軍相手に毒酒を売りつける犯罪組織の摘発に成功したんです。急襲し、資金を丸ごと手に入れられました」
「ほう。リッカード中尉、あのお調子者がか」
「クラウス・リッカード中尉もお変わりないですよ。都解放軍の立ち上げ以来、私が知っているだけで十五の新曲を発表されました」
「変わりなし、か。ユン上級大尉の酒癖も直ってはおるまいな」
「はい。その件で既に二度イマエダ大尉と口論になっており、ミルト中佐が仲裁されました」
「ミルト……リャン・ミルトか。リャンは息災か」
「はい。今となってはロアング中佐にとって欠かすことのできない存在です」
都解放軍は、元情報部特務機関局長のロアング中佐と、素性不明の『魚』と呼ばれる人物を中心に回っている。『魚』の正体はシルヴェリアさえも知らない。
「イマエダ大尉も元気そうだな。アルネーブ中尉はどうだ」
「市の北部寄りの地区に拠点を構えておられます。アルネーブ中尉の部下の兵士たちが酒を飲みすぎると、
中尉がつられて吐いてしまわれるので、その地区では飲酒が禁止になりました」
「そうか。ではユン上級大尉にも禁酒を言い渡してやろう」
部下たちの動向を聞き終えたヨリスは薄く笑みを浮かべた。
そこへ、音もなく屋内に戻ってきていたテスが部屋の戸を開いた。
「リンセル少尉、急いで陸軍宿舎に戻ったほうがいい」
感情のない声でテスは告げた。
「もうすぐ夜が明ける」