運命
文字数 3,354文字
いよいよ滅びのときが訪れた、と迷信深いコブレン市民が思い込むのも無理からぬ話だった。急接近した月はレミの目にも恐ろしく見えた。人々は先を競うように戸口から姿を見せ、星獣祭の歌と踊りが行われていた時点よりはるかに広場は混雑した。道にも庭にも人が出てきて、子供も大人も男も女も同じ月を間近に見た。
男女が泣き叫んだ。死者の代わりに慟哭する異端の信仰者が、今もどこかで行われている戦と死者のために泣かなければならない義務を思い出したのだろう。そこからパニックが広がった。
大半の人々は、ぽかんと月を見上げるばかりだったが、泣いたり叫んだりする声が拡大するに従い、恐慌に駆られて一緒に叫んだり、家に閉じこもってクローゼットに隠れたり、家族を連れてどこかへ逃げて行こうとしはじめた。どこへ?
「殺し屋たちがいるぞ!」
日輪連盟の兵士が、騒ぎを収束させようとほうぼううで声をあげた。本当は彼らも騒ぎたかったのだ。
「殺し屋たちが市民を殺している! 全員家に戻れ!」
「殺し屋がなんだ!」
女が兵士に掴みかかった。兵士は女を殴り倒した。
「何しやがる!」
女の夫がやって来て、その兵士を二発殴った。
剣が抜かれた。
それが最初の流血だったのか、または同時多発的に流血が起きたのか、恐らく後者だろう。連盟の兵士が市民を殺したとの報が、あっという間に拡大した。
「日輪連盟消えろ!」
男が群衆の中に兵士の一人を引きずり込んで、
「日輪連盟消えろ! 日輪連盟消えろ!」
「家に戻れ!」
叫んだ兵士の頭を主婦が取っ手つきの片手鍋でぶん殴った。
「私たちのコブレンを返せ!」
その一言が正義の
「俺たちのコブレンを返せ!」
その合唱は最初、捨て子たちの聖地、鏡の広場で沸き起こった。
「コブレンを返せ! コブレンを返せ!」
陶房と倉庫が立ち並ぶ地区の広場でも叫びが合唱に変わっていた。
「日輪連盟消えろ!」
群衆は自分たちの中に日輪連盟の兵士を引きずり込んで殴ったり踏んだりし、激昂した仲間の兵士が剣を抜いた。人々は逃げたり、また集まったりして、徐々に鏡の広場に集合しつつあった。
鏡の広場では既にスクラムが組まれていた。
「コブレンを返せ! コブレンを返せ!」
「俺たちの」
「私たちの」
「コブレンを返せ!」
月は全てに無関心の様子で夜空を埋め尽くしていた。
市民たちは互いに腕を組み、市庁舎に向かって行進を始めた。図書館の屋根から様子を見下ろすレミは、絶望してかぶりを振った。
「私たちじゃ止められない」
「ならば賭けろ」
冷徹に、老練の暗殺者オーサー師は告げた。
「犠牲はやむを得ない」
「何を賭けろと言うのですか?」
「自分と市民の命だ。兵士たちに呼びかけろ。月環同盟に寝返れと」
※
「コブレンを返せ! コブレンを返せ!」
群衆は市庁舎前の広場を埋め尽くし、さらに八方の道路から押し寄せた。
「コブレンを返せ! コブレンを返せ!」
デモに加わっていない市民の口にはこんな噂が囁かれた。
「月環同盟軍が都を攻め落としたんですって」
「まさか」
「次はコブレンだぞ。都とトレブ地方の両面から月環同盟軍が来る」
噂は瞬く間に広がった。市民たちは動揺しているうえに、確信を持って噂を振り撒く人物が五人もいるのだ。
「噂は本当よ。最後に入城した隊商の商人が教えてくれたの。星獣兵器がいなくなったコブレンは月環同盟の傘下に戻るのよ!」
レミは走り回って市民たちに吹き込んだ。デモを押し留めようとする兵士たちは活力を失い、ただ人の流れを立ち竦んで見ているだけだった。
噂に耳を貸す兵士も出始めた。
「おい、その話は本当か?」
不安に駆られた兵士は市民を捕まえて尋ねるのだった。レミたちは誰も一か所に留まらなかった。噂をばら撒いて、ばら撒いて、ばら撒け。
レミの殺し屋の耳が、大通りと大通りを結ぶ路地の暗がりでこの言葉を捉えた。
「岩塩道路の東四区を
掃除
したのは誰だ?」レミは素早く近くの塀に背中をつけ、声に耳を澄ませた。別の殺し屋の声が答えた。
「オーサー一門の双子だ。死に損ないどもが暴れている!」
声の主たちはレミに気付くことなく近くの建物の連なる屋根の上を走っていった。レミの心臓は凍りついた。
オーサー一門の双子だって?
まさか――
そのとき、市庁舎の裏口から密かに脱出しようとしていた日輪連盟軍の将軍は、配下の兵士に捕らえられていた。
もうコブレンに日輪連盟軍は存在しなかった。
※
まさかもなにも、オーサー一門の双子といえばアズとトビィ以外にいるだろうか? 二人はタターリスの暗殺者連中をけしかけられていた。
アズの半月刀の一閃が、十三人めの殺し屋の首の付け根に振り下ろされた。はっ、と疲労の息をついたばかりに、背後への警戒が薄れた。
槍の一突きが鎖帷子を貫通し、アズの背中に届いた。それでもアズは身をよじって致命傷を避けた。槍を手にした十四人めは、トビィの戦斧に頭を割られた。
背中から血が流れる。
アズは息を切らし、血溜まりの中に片膝をついた。
「コブレンを返せ! コブレンを返せ!」
その言葉は今や一つの旋律を得ていた。歌だ。肌の侵食が進み、アズは苦痛にうめいた。変色は首から顎に達し、今アズの頬をちりちりと焼きながら進行していた。
目下の敵集団は片付けた。トビィがアズの二の腕を取り、優しく、だが手厳しく囁いた。
「まだやれるよね?」
トビィの力を借りながら、アズは重い腰を上げた。膝を伸ばして立ち上がる。
両手の半月刀を頭上にかざし、振り下ろして血飛沫を散らした。
「まだ戦える……!」
近すぎる月の光の中、トビィの顔はまだらだった。返り血と、肌の侵蝕、両方のせいだ。
二人は十四人の殺し屋の骸の中で向かい合い、立った。
もう長くは
「トビィ」
二人の周りだけは奇妙に静かだった。ここは先の戦禍に見舞われた街区で、周囲の建物は焼けこげ、歌う者はいなかった。叫ぶ者も、逃げ込んでくる者もいなかった。
いるのは殺し屋だけ。それも、ひとまずは片付けた。
アズは覚悟を込めて兄弟に言った。
「一緒に生まれてきてよかった」
トビィはまだらの顔の中で両目をきらめかせ、頷くと、同じく覚悟を込めた声でこう返した。
「一緒に生きてきてよかった」
今度はアズが頷いた。
「ねえアズ」
「なんだ?」
「今度は俺のほうが少しだけ君より長く生きてあげる」
さらに強く頷いた。
「ありがとう」
悲しくはない。戦闘あるのみ。降伏はしない。撤退もしない。守るべき市民がいるうちは、一秒でも長く踏みとどまってみせる。それが使命。
ちょうどそこへ、見てはいけない殺し屋の顔を見てしまった不運な市民が一人、転がり込んできた。女だった。アズは走り出して左手の半月刀を右肩の上に構えると、飛びかかるように追っ手の首を切り裂いた。見たことのない殺し屋だ。タターリスの中の有象無象か、日輪連盟の殺し屋のどちらかだろう。
トビィが息を切らす女性の手を取った。
「コブレン自警団です。あなたを保護します」
殺し屋は一人ではなかった。
アズは曲がり角に背中をつけて待ち受けた。背中からの出血は勢いを落としていない。やがて角に現れた殺し屋の腕を掴んで自分の手許に引き寄せると、首に半月刀を突き立てて、その死骸をお仲間の殺し屋に投げつけた。よろめく殺し屋の喉目掛けて半月刀を投げる。
命中。
ひどい眩暈がした。屈んで半月刀を抜くと、アズはその姿勢のまましばらく動けなくなった。
「ココブレンを返せ! コブレンを返せ!」
声が響くほうへ、トビィは女性の手を取って走った。
大通りが見えた。
と、大通りからこの路地へ、黄色い髪をした、トビィのよく知っている顔の暗殺者が姿を現した。
レミ。
トビィ。
二人は再会する。
言葉もない。
「行ってください」
トビィは女性の背を押した。女性は大通りへと走り去った。
レミが一歩、また一歩、トビィに歩み寄る。
言葉のないままに。