甘くとも苦くとも
文字数 4,449文字
全く現実にはあり得ない事柄を己の手でなしたとき、今後何が起きても二度と驚くまいとアズは決意した。さもなくば、あらゆる常識を覆し得るこの世の全てに驚き続けることになる。
鈴が打ち鳴らされ、象牙の歌が始まった。
透き通る星獣の声が高音を長く伸ばす。五秒。六秒。
二体めの声が重なって、和音となる。
三体めは
その和声が、ある瞬間、示し合わせたように止やむ。
一斉に靴音。
そして日輪連盟軍の十もの
「あの夜を思い出すよ」
コブレン西部の岩塩道路前の城壁、血で汚れた門に近い側塔の小部屋から道路を見下ろしながら、トビィが口を開いた。二人きりの小部屋は外と同じくらい冷えており、日光が入らず、
「どの夜だ?」
「俺たちが夜警に出かけて、アエリエが最初の歌い手を務めた。でも、その頃ミスリルとテスは『月』を手に入れようといしていたんだ」
「手に入れるつもりじゃなかった」
「でもそうなったよね」
すぐに霧散する白い息を吐きながら、アズは顔を小窓に向けた。
「結果が全て、か」
あの夜を最後に日常は失われた。
今にして思えば、常識という観念が意味をなしていたことは、言い換えれば普通が普通であったことは、なんと素晴らしいことだったのだろう。今、普通でないことに、コブレン市街はこの昼ひなかから怯えたように静まりかえっていた。普通でないことに、太陽が急速に西に沈んで再び西から舞い戻ってきて以来、今が本当に昼なのかどうか知る
普通でないことに、人はそれに愛着を抱いていた。
「俺のちっちゃいチビ〜!」
星獣を護送する行軍。
呼びかける兵士の顔の横には小型の星獣が羽ばたいていた。透き通る鷲の翼と六本足の猫の体、首から上は雄鹿というそれは、抱きかかえられなくもない大きさで、敵への心理的威圧を存在意義に含む星獣兵器の中ではまだ受け入れやすい外見だった。
同僚の兵士が槍を待ち直しながら尋ねた。
「そのちっちゃいチビって呼び方なんとかなんねぇの?」
「いいじゃないか、ちっちゃいチビなんだから。かわいいぞ。ほぅら、寄ってきた」
体温のない歌う毛皮に頬ずりされ、兵士はけらけら笑う。
「言っとくけどな」
同僚は、列の前方にいる上官を気にしながら言った。
「それはお前のペットじゃないんだぞ。お前のものじゃないってだけじゃない。それには心がないんだ。そもそも命がない」
「んなわけあるかい。俺にはよぉく懐いてるぜ?」
「ただの反射だ。そいつはお前を好いてない。いいか? 星獣兵器が人間を好きになったら、それはもう兵器じゃないんだ」
普通でないことに、一行の行く手では、側塔に詰めていた七人の兵士の死体が門前で山積みにされていた。普通でないことに、アズの隣には双子の兄トビィがいた。そのことは、もはや普通ではない――。
「なに?」
一瞬の視線に勘付いたトビィが、木箱に腰掛けたまま問いかけた。その足許には弩があり、目線は小窓に注がれたまま。
いいや、別に。
というアズの気まずい答えよりも、トビィの優しい声のほうが早かった。
「ねえアズ。言っとくけど、アズはもう俺にしたこと謝っちゃ駄目だよ」
アズは恥じらうように顔を伏せた。その様子に、トビィはいつもの微笑みを消して真顔になる。
「じゃあさ、アズ。もしあの日――コブレンの戦いのあの状況で――俺とアズの立場が逆だったら、俺はどうしてたと思う?」
「わからない」
即答だった。何度も考えたからだ。だが少なくとも、トビィがアズの存在を長らえようとするならば、その理由は「失いたくないから」という甘いものではなかったはずだ。
「そうだね」
お手上げだとばかりにトビィは両手を上げた。弟の心から罪悪感を拭うのは無理らしい。
「人の心はわからないね。兄弟の間柄でも」
鈴打ち鳴らす象牙の歌が響いてくる。
飴色に揺らめく泥土の歌が響いてくる。
梢をわたる翼あるものの歌が響いてくる。
徐々に迫りくる。
「さあ」トビィが弩を取った。「動くよ」
※
ちっちゃいチビにじゃれついていた兵士は、いきなり前の兵士の肩当てに顔面を強打した。彼は背が低かったのである。
遅れて号令が飛んだ。
「止まれ!」
ちっちゃいチビの警護を担当する兵士の後ろにいた兵は、彼の頭に軽鎧の胸の部分をぶつけて止まった。どこかの家で夫婦喧嘩が行われていた。といっても、聞こえるのは女の声だけだったが。
「何寝ぼけたこと言ってんのよさ! 星獣祭は来るの、来るのよ!」
星獣兵器は三体いた。緑色の菱形の頭部に、目のある触手を無数に生やした粘液の袋のようなもの。濁った魚の目をした黄色い肉塊が、尾鰭と胸鰭を振りながらコオロギの脚で歩いているようなもの。最後は他の二体より小型の、翼ある鹿頭の六本脚の猫だった。それぞれが歌い、歌声は調和していた。
誰かがその造形を考えたのだ。想像力の中で遊ばせておけばいいものを、わざわざ現実世界に連れ出さなければ気が済まなかった邪悪な人間が。
そいつはきっと、どうすれば地獄の悪魔を喜ばせてやれるかいつも考えているような奴だ、とアズは想像した。彼は行軍の最後尾にほど近い民家の陰で息を潜めていた。寒くて耳がちぎれそうだし、風が容赦ない。両手には既に半月刀が抜かれている。
そいつは――アズは想像する――北ルナリアもしくはリジェクにいるであろうそいつは、北ルナリア副市長ジェレナク・トアンと同等かそれ以下、見方によってはそれ以上の人物だ。
トアンは美しいものを破壊して喜ぶ。
星獣兵器のデザイナーは、美しいものを冒涜して喜ぶ。
星獣兵器を護送する兵士は十二名いた。半日かけて行軍し、岩塩道路の最初の中継地点で別の部隊に引き継ぐのだ。
門前に積まれた死体の山を目にした彼らの指揮官が、十一名の部下を振り向いた。彼は指揮官の仕事をしようとした。何らかの命令を発そうとしたのだ。だが、側塔から最初の矢が放たれるほうが早かった。
矢は指揮官の後頭部を撃ち抜いた。その
重歩兵の装甲をも射抜く威力をもつ、巻き上げ機つきの弩だ。指揮官はひとたまりもなくその場に突っ伏した。人が倒れる音と、星獣兵器の歌に混じって、鼻から突き出た鏃が舗道を削るカチリという音がした。
指揮官を失った兵士たちが烏合の衆と化す直前、伍長の腕章をつけた男が、側塔の窓の一つを指差した。
「あそこだ!」
ご名答。今度は伍長の額に二度目の矢が放たれて、鏃が後頭部から突き出た。
列の前部にいた三人め、続いて四人めが剣を抜いて側塔に押し寄せ、中ほどの四人が混乱して星獣兵器に身を寄せた。
最後尾の二人は逃げようとした。後で言い訳をするつもりだろう。『まさか! 反撃の前にひとまず身を隠したまでです』
言い訳は永遠に無用だった。一人めの喉をアズの左手の半月刀が、二人めの喉を右手の半月刀が順に切り裂いたからである。
道に躍り出たアズは、頭上で半月刀を交差させ、振り下ろした。
「コブレンの岩塩道路はこの先、認可を受けた運搬業者しか通行を許されていない」
語りかけるアズに対して、やっと、兵士たちはめいめい剣を抜いた。星獣兵器の逆立った鱗に切り裂かれ、キルティングの袖を赤く濡らしている者もいた。
アズは左手の半月刀を兵士たちに突きつけた。
「お前たちは何者だ」
修辞疑問に本物の疑問が返ってきた。
「お前が何者だよ!」
「我が名はコブレン自警団がアザ――」
質問した兵士の喉仏を見事貫通し、鏃が
翼ある星獣兵器の歌が唸るような低音に変じた。
一人が
戦いが始まった。
「――まだ名乗ってたのに」
瞰射用の小窓から、トビィの歌声が聞こえてくる。星獣を宥める歌。それは深く心に沁みてくる。深く、素早く……。
正面から斬りかかってきた兵士の剣を右によけ、ちょうど右側に回り込んできた兵の一撃を半月刀で受け流す。
くるりと体を半回転させ、右にいる兵の背後を取る。
その無防備な首筋を難なく掻き切ると、血を噴き出すその体を手近な敵に突き飛ばした。
仲間の死体にぶつかりよろめく兵士の首の付け根に半月刀を振り下ろす。
抜きざまに、左足を軸に半回転。
右の半月刀で斬撃を受け止めながら、左の半月刀で残る一人を仕留めた。
事が終わっても、トビィの歌は続いていた。
そして。
「チビ!」
血を流しながら、小柄な兵士が側塔の扉からよろめき出てくる。
「俺の――」
星獣兵器たちは歌をやめ、翼を持つものも舗道に落ちていた。別の歌い手がやってくるまでこのままだろう。
「――うわぁ、ちっちゃいチビ!」
堪らず星獣に駆け寄ろうとした兵士がそのまま倒れ込んだ。その後ろにはトビィ、歌い続けるトビィ、上機嫌のトビィがいた。
彼の長柄武器には、片側に斧と槍、反対に三日月型をした月牙と呼ばれる刃物が取り付けられている。その月牙が最後の兵士の首を捉えていた。
首の両側から、血が溢れてくる。
死亡を確認するまでもない。
歌うのをやめ、トビィは笑った。
「ごめんねぇ、
ちっちゃいチビ
を棺桶に入れてあげられなくて」最後に死んだ兵士は、倒れてなおかわいがっていた星獣に手を伸ばしていた。
あれは愛せるものなのか。
アズは静止した三体の星獣兵器を一瞥する。
無理だった。少なくともアズには愛せない。
にも関わらず、あれは言語生命体による純然たる発明品だった。ああいうものを創ったのは、
「甘くとも苦くとも――」
聖典にある一節を呟こうとしたが、最後まで言わなかった。言ったら惨めになる。
「聞いてよ、アズ」
武器を肩に担ぎながら、双子の兄が眉を寄せた。
「この人たち、俺左手に武器持ってんのにわざわざ左側から攻撃してきたんだ。そんな人、百六十年生きてきて初めて見たよ」
「息するように嘘をつくな」
「仕方ないでしょ。アズと違って俺は口から生まれてきたからね」
二人は武器の血を拭きながら、複雑に入り組んだコブレンの裏道へと引き上げていった。
長い階段坂を上る。
この坂の上にある広場で、雪に刻まれた二人の殺戮者の足跡は、市民たちの足跡に紛れるだろう。
歌いながら戦い、今また長い坂を上るせいで、トビィの喉からヒュー、ヒュー、という音がし始めた。気がかりで、全く気に入らない音だった。
「トビィ、凄かった」
「何が?」
ヒュー、ヒュー。
「一人で三体の動きを止められると思わなかったんだ。奴らの歌は調和していた。他の歌が上塗りできないと思うほど完璧に」
「人間技じゃないって?」
喉の音が強くなり、引き換えに声が掠れる。
「俺は人間じゃないわけじゃないよ。一回死んだだけ」
「そんなことを言わないでくれ」
トビィは微笑むことによって、アズの悲しみを深くした。