市街での戦い(1)
文字数 3,999文字
ミスリルは目測する。
犀の後ろにいる男は、明らかに民間人ではないとわかる
犀は唸り、だがそれは低い獣の唸りではなく、水中でごぼごぼと息を吐く、溺れるような音だった。水の蹄でいらいらと床を掻き、ミスリルの出方を待っている。
次には後ろに立つ男の唸りが徐々に高くなり、喉が開く。ヒゲに埋もれた唇が動き、それは明瞭な声になり、歌になった。
この動物が星獣化する前の生息環境の音を擬音化したもので、歌詞はなくとも、濁った水の重い揺らめきがミスリルの皮膚に感じられた。泥水に鼻まで使っているような錯覚まで覚える。
ミスリルは腕を下ろし、中央の棍に両手をかける。それを縦方向に振り回し始めた。
次第に加速をつけていく。
間もなくその鈍器は目にも止まらぬ高速回転となり、左右の棍がいくつにも分裂して見え、先端の
これはただの威嚇だ。だが効果は十分だった。相手がどれほどの剣士であろうと、この武器の恐ろしさは理解できたはずだ。
三本の棍のどこを握るかで射程は自由自在に変わり、変幻自在な動きのせいで攻撃は予測不可能。
髭面は歌う。
踏み分けられる草の音。物音がどこまでも続く草原――。
犀の体内の七割がたが水で満たされていることに気づいたのは、歌に合わせてその水が泡立ちはじめたからだった。煮え立っているのだろうか。犀が一層激しく床を掻く。身震いし、短い首を仰け反らせ、口からあのごぼごぼという音をこぼした。獣の咆哮には程遠い。だがそれは間違いなく、戦闘開始を告げる合図だった。
棍の回転を止めた。右手を右端の棍に移し、鞭のように大きく左に振って体に巻きつける。
犀が、顎を引き、角を見せつけながら突進をかけてきた。
息を止め、ミスリルはその巨体を迎えた。
棍を左に振る。
まだ射程に入らない。
床を蹴る。ほとんど体を前倒しにするように飛び出して、腰にひねりを加えながら体を一回転。もう一度棍を左に振った。
錘がガラスにのめり込むような感触があった。
そのひび割れた角はもう、残り一秒でミスリルの腹と胸を貫ける距離にあった。
跳ね返ってきた左端の棍を左手で掴む。踊るような足さばきで右の壁際へ。体の左側ぎりぎりを、真紅の犀が通り抜けた。
星獣の持ち主は、ミスリルが犀を回避し得るという予測はできていたようだ。両手剣を抜いて待ち構えていた。
針を束ねた鋭い尾を
そのときにはもうミスリルは、剣を振り下ろしても無駄なほど相手の懐深くにもぐりこんでいた。
自警団に伝わる近接格闘術の独特の歩法ゆえに、正対すれば、相手がどれほど迫ってきていても動いているようには見えないのだ。結果、間合いを測るなどという悠長なことをしているあいだに手遅れになる。
ミスリルはごく短く持った棍で敵の眉間を打った。殺すつもりはない。少しの間動きを封じられればよい。敵の膝が砕ける。
犀の二度目の攻撃に備えて振り向いたミスリルは、その巨体がもう向きを変えいるのを見て取った。持ち主もろとも巻き込むつもりか、次の突進に備えて身構える。
と、その後ろ足に紐のようなものが巻きついた。
真紅の体がミスリルの網膜に強い印象を焼き付けながら横倒しになる。
その向こうに立つ女が初めて見えた。
「なんでお前が来るんだよ」
飴色の髪。細く尖った顎と尖った目線。鋭く冷たい気配を待とうその女は、エーデリアだった。
コブレン自警団の好敵手、市内第二位の勢力〈タターリス〉の幹部の一人だった。
「はぁ? デカいだけが取り柄の相手に手こずってる坊やが偉そうに」
「手こずってないし! まだ戦い始めたばっかだし!」
と、殺気を感じて摺り足で左に飛びのく。左手で真横に
よろめきながら後ずさるその男を、ミスリルはもう相手にしなかった。犀が短い足を胴体に引き寄せ、立ち上がろうとしていた。
三節棍を振り上げて、頭上で円を描く。
二周。三周。
背後では、星獣を戦いに駆り立てる歌が歌われる。
大きな唸りとともに、棍と先端の錘とが、犀の額に叩きつけられた。
「黙れ!」
腕を引き、左端の棍を手繰り寄せて左手で握った。
「お前がその気なら、殺すぞ」
だが、男はそれ以上ミスリルたちを直接相手にしようとしなかった。よろめきながら駆け去っていく気配。ミスリルとエーデリアの間には、三節棍の威力によって再び顎を床に叩きつけられた星獣、そして歌の余韻が残された。
棍と鞭、それぞれが獣を打ち続けるが、それでも星獣立ち上がりつつあった。
星獣の模様が動く場合、それを凝視してはならない。
知ってはいても、ミスリルは見た。
犀の胴体に蠢く黒い線や渦は、遠い
見えない指がつまむように、模様、それが描く星獣の曖昧な自我、かろうじて留められた生体の記録が集められ、すり潰され、鎖のように引き伸ばされてその全身を巻いていく。
「
呻くように呟く。
それからエーデリアに叫んだ。
「エーデリア! 歌え!」なおも加速をつけた三節棍を全力で犀の額に叩きつける。ついぞ角が砕けたが、立ち上がるのをこれ以上阻止できそうになかった。「
「はぁ?」振り回される針の尾を回避しながらも、エーデリアは
「顕鎖が始まってる。わからないのか!」
「だからお前が早く歌えばいいんだ! 馬鹿め!」
星獣を戦に駆り立てる歌があるように、宥める歌、御する歌もある。今、どれほど効果があるかはわからないが。
犀がいよいよ立ち上がり、身震いした。エーデリアの姿が見えなくなる。
「馬鹿はお前だ!」三節棍で前足を打つが、関節のない足に、その打撃はさほど有効ではなかった。「こういうときは強いほうが攻撃続けて弱いほうが歌うのが定石だろ!?」
「は? 舐め腐ってんのか童貞」エーデリアも負けていない。「殺すぞ」
突進が来る。
「童貞じゃない!!」
星獣の体を巻く鎖が、その体に一層きつく巻きついたように見えた。声なき声、溺れる者のあぶくの音が不気味に膨れ上がる。
間一髪、ミスリルは胸壁をつかみ、ひらりと飛び乗った。残された牙が空振りし、犀が地団駄を踏む。
それは獲物を逃した苛立ちからというよりは、苦痛に耐えかねての動きに見えた。
「ああ、そうそう」エーデリアの鞭の一撃が、ついぞ針の尾の付け根に穴を穿った。「思い出した。童貞じゃなくて純潔だったわね」
「おい。……おい。殺すぞ。そっちこそ」
「あたしはいつでもいいわよ。
「
城壁の上、通路に立つエーデリアと胸壁上に立つミスリルの、敵意に満ちた視線が互いを突き刺しあった。星獣の口から音がこぼれる。ゴボゴボゴボゴボ。
ミスリルは右端の棍を握り、先端をエーデリアに突きつけた。錘をこれ見よがしに揺らす。エーデリアもまた鞭を短く持って床を打ち、敷石を砕いて散らした。
そこへ。
黒い疾風が来る。
ミスリルも、エーデリアも、互いから目をそらした。反対側の胸壁。その
掛け声も、
側転。ミスリル同様に、胸壁の上に退避する。
大鎌が、犀の体を黒く巻く模様を分断した。
吠えることもできない哀れな星獣は、ゴボゴボ、ゴボゴボ、ただその音で何かを訴えながら、背中に大鎌を立てたまま、城壁の上を直進していった。
「鎖は断ち切る」
静かに、しかし力強く宣言するアエリエは、笑みさえ浮かべていた。ミスリルは安堵しながら頷いた。
「遅いぞ。どうしたんだ」
「あの尻尾で打たれて動けなくなってた人たちがいたの」
星獣の体を巻く模様が、大鎌で分断されたところから
「やっぱり今のが致命打ね。
この城壁は円形だ。我を失った星獣は、カーブを曲がりきれなかった。胸壁にぶつかり、つんのめる。障壁体はその巨体の胸にまで届いておらず、犀は見苦しい前転でもって胸壁を乗り越えた。地面に向かって姿を消し、砕け散る音で、その末路を三人の耳に伝えた。