水面に映じる歌
文字数 2,828文字
これぞ袋の鼠! そう、絵に描いたような。
燃やすぞ。
後ろでは外廊下が騒がしくなりつつあった。
「行くぞ! そぉれ!」
すぐに二度目が来た。
かろうじて踵で踏ん張るが、頭がぐらぐらし、上下の歯がぶつかりあってガチガチと音を立てた。上からは埃が落ちてきた。
「おい、どうすんだよ!?」
「えっ!?」
肩で扉を押さえる努力をしながらヴァンは顔を上げた。マフラーとフードの間から見える目は充血している。
「そんなこと言わないで。一緒に考えてよ!」
考えるも何も。
こちらは三人、扉の向こうにいるのは恐らく六人だ。いや、エルーシヤは戦力外としてこちらは二人。
「そぉれ!」
次の衝撃で、扉が少しだけ開いた。
「何か挟むもの持ってこい!」
「はい!」
「そぉれ!」
四回め。背中の皮膚は痺れ、揺さぶられる顎が痛痒くなってきた。その間、エルーシヤはというと、スカートを締める帯をごそごそ探っていた。小さな巾着を取り出した。ひっくり返して中身を手にあける。
それをハルジェニクたちのところに持ってきて、ニッコリと笑った。
手に持っていたものは、植物の種を楕円形に磨いたものだった。
「そぉれ!」
あう、という声が、ハルジェニクの口から漏れた。四度目よりも大きく扉が開き、すぐに背中で押し戻すも、隙間に箒が挟み込まれた。
これで、扉はもう閉まらない。
「行くぞ! あと少し!」
「はい!」
エルーシヤが近寄ってきて、ハルジェニクの眼前で背伸びする。
「馬鹿! 離れてろ!」
だが、構わず種をハルジェニクの左耳に詰めた。異物感の後、聞こえが悪くなった。
六度目の衝撃。今度はそのまま扉を強く押してくる。
種が、今度はハルジェニクの右耳に入った。わけもわからず耳栓をされている間にも、踵はじりじりと床を滑り、埃の上で屋内に向かって模様を描いていく。
「観念しろ!」
それでもエルーシヤは笑いながらヴァンの耳に詰め物をした。
渾身の力で扉を押し戻そうとしながらヴァンが呻く。「あううううっ、もう駄目!」
次に注意を向けたとき、エルーシヤは部屋の中央にいた。後ろから、窓の雪明かりが彼女を神々しく縁取っていた。
息を吸い、エルーシヤは歌った。
『イマ
ハルジェニクは信仰者のような目で、歌う少女を凝視した。少し冷静になってみれば、耳栓が必要になる理由など他にあるまい。
『去リシ人ノ岸ニ 黒キ 太陽ノ照ル』
長いスカートをつまんだ。白い脛を見せ、踵で軽やかにリズムを打つ。
ヴァンの隣では箒の絵が
「せーの!」
『アナタノ影ガ
今までで一番強い衝撃が来た。ハルジェニクとヴァンは体の芯まで揺さぶられながら、ひとたまりもなく扉から弾き飛ばされた。
汚れた床に並んで倒れ込む。
頭のすぐ近くでエルーシヤが踊り続けていた。
『泡立ツ
肘を使って体を起こすハルジェニクだが、予想に反して兵士たちは手荒く取り押さえようとしなかった。
それどころか、戸口で呆然と
七人だった。伍長の腕章をつけたのが一人と、兵士が六人。
全員、歌に魂を抜かれている。
ハルジェニクは床に尻をつけたままヴァンと目を合わせた。
歌流民の歌の技法は門外不出だが、可聴域を外れた音域の発声に秘密があるのではないかと囁かれている。ちょうど耳栓で防げる音域だ。
「タニ!」
一等兵が叫んだ。
「タニじゃないか! どうしてこんな所に?」
ヴァンを迂回してエルーシヤに歩み寄っていく。それを機に他の六人が入ってきた。
「後にしろ! さっきの連中はどこだ?」
伍長が叫ぶとたちまち「いたぞ!」二等兵が隣の兵士の肘を掴んだ。別の兵士が「バカ! そいつは俺の嫁だ!」
別のところでは、一人がもう一人を指差して叫んでいた。「誰だお前は!」
言われたほうは「お前が誰だよ!」
大混乱となった。
ヴァンの隣ではつかみ合いが起きたし、ハルジェニクの隣では涙の再開が展開されていた。それにしても、エルーシヤの歌声はなんと美しいのだろう? 存在の深いところ、感情を超越した剥き出しの魂にまでしみとおるではないか。耳栓越しに聞かなければならないとは。追われていなければ、外していただろう。
「よくわかった」ハルジェニクは立ち上がり、エルーシヤに頷いた。「もう馬鹿って言わない」
「おい! お前誰だ」
仲間を殴り倒した兵士がハルジェニクの胸倉を掴む。ハルジェニクは早くも足の筋肉痛が始まりつつあるのを感じながら、試しに言ってみた。
「親の顔を忘れたのか?」
すると途端に破顔して、「死んだと思ってたぞ、親父!」
顎を殴って黙らせると、兵士は舌を噛み、仰向けに倒れた。
「急ごう!」
ヴァンに促され、ハルジェニクはエルーシヤの背中を押してから、再び最後尾について外に出た。
地上に続く梯子を下り切るまで、エルーシヤは歌い続けた。逃走、そして逃走。路地から通りへ。通りには警邏の騎兵が歩兵を伴って周囲を警戒していた。その歩兵が叫んだ。
「いたぞ!」
ヴァンは無視し、その眼前を駆け抜けて通りを横断し、脇道に突っ込んでいった。ハルジェニクはマントの内ポケットに入れた瑠璃の小瓶が胸に当たるのが急に気になり始めた。ヴァンの野郎、俺の身にもなってくれ。最後尾のハルジェニクは、歩兵の槍を文字通りかい
「こっちだ!」
夜だったらもう少し逃げやすかったのに。
カーブを描く見通しの悪い路地で、先頭のヴァンが速度を落とさずに叫んだ。
「備えて!」
息切れしながらかろうじて応じる。
「何にだよ!?」
すぐにわかった。カーブが終わり、運河の支流にかかる赤煉瓦のアーチ橋に出たのだ。
橋を渡り始めたヴァンは一度だけ振り向いた。先ほどの騎兵が駆歩でやって来る。歩兵も走ってきた。長い橋の途中で必ず追いつかれる。
煉瓦の手すりを掴んだヴァンが、川に身を投げた。水の音がした。
エルーシヤが手すりに手をかける。膝を乗せた。そのまま、見てはいけないものを見たかのように竦んだ。
隣で、ハルジェニクも運河に身を乗り出した。エルーシヤは水面を見つめて動かない。構うな! 飛び込め! そう言いたかった。
言う前に、勢い任せに手すりから乗り出した体が水面に傾いた。
頭から落ちていく。
水が臭くありませんように!
そう願った。願いは叶った。だが、覚悟した以上に流れが早く、冷たかった。あまりに冷たいので、むしろ熱いと思った。煮え滾るようじゃないか!