連盟の影
文字数 3,499文字
南西領陸軍情報部特務機関の窓口を務めるアセル・ロアング中佐の事務室には、囲いの大陸全図が張り出されていた。中央の王領と、それを囲む五つの天領地。天領地を治めるのは国王が任命した総督であり、名目上は全ての領土が王のものなのだが、文明退化に伴い王の影響力の及ぶ範囲が狭まるにつれ、天領地は事実上の独立した公国と化した。
五つの天領地を横断し、王領をぐるりと囲む商同盟、『
「知っての通り」
部屋にいるのはリアンセの他、上官のロアング中佐だけだった。四十代後半の有能な情報士官。色の薄い金髪は辛うじて不潔感を与えない程度に伸びており、鋭い目は前髪の影によって気迫に満ちたものとして印象づけられる。彼にははっきりと多動の傾向が見て取れた。ドアの前を過ぎ、リアンセの後ろを通って窓に寄り、机の後ろを通って地図の前に立ち、またドアへと向かう。それをゆっくり繰り返していた。
「王領で新しい金の鉱脈が見つかって以来、純度の高い王領の金貨が他の領地の金貨を
と、何かを思い出したように立ち止まる。ドアの前から地図の前へといそいそと戻っていき、円環の線上にある南西領北部の二つの都市を太い指で示した。
「パンネラ・ダーシェルナキ夫人が後援を降りてまもなく、神官領リジェク市と北ルナリア市が揃って月環同盟からの脱退を表明」
王領包囲に穴があいたのだ。
パンネラが夫である南西領総督シグレイに離婚を持ちかけたのは、シグレイが使用人の女に手をつけたという噂が持ち上がったからだ。シグレイはそれを表向きには否定しているが、思い当たる節が多すぎてどれのことだかわからないというのが本音であろうことは明らかだった。
さっさと離婚して出て行けばいいものを、パンネラはまだそうしていない。
「南西領は経済崩壊の危機にある」
上官の目が不意にこちらを向いたので、リアンセは「はい」、と頷いた。
「王領の都を盟主とするもう一つの強力な商工業同盟『
シオネビュラ神官団にはよほどの自信があるのだろう。リジェク並び北ルナリアがシオネビュラへの派兵を表明しても、和解に進む気配は未だ見せない。
「月環同盟と日輪連盟……シオネビュラとリジェク・北ルナリアが会戦すれば、大陸を二分する二つの勢力の全面衝突に発展しかねない」
「はい、ロアング中佐」
「というのが表向きの話だ」
ぴたりと止まったロアング中佐に、リアンセは金色の大きな目から、探るような視線を投げた。
「……そう仰いますのは?」
「順に話すと」
ロアング中佐は一呼吸置いた。その
「少々飛躍するが、北方領で起きているごたごたについて話をせざるを得ない。去年に起きた北方での反乱未遂事件で、北の総督リリクレスト公は疑心暗鬼から貴族狩りを始めた。その一方で自分の家の者には専属の護衛武官をつけたわけだが……」
「はい」
「末女リレーネ・リリクレストの護衛を担当するのは若い男性士官リージェス・アークライト。リレーネ嬢の学業のために領土北端の海辺の聖地を見学に行って以来二人の仲がどうも怪しいと勘付いたのは厳格な家庭教師だった。その経験豊富な女教師がある晩リレーネ嬢の後をつけ、とっちめるべく
リアンセは僅かに眉を寄せたが、男女の色気を匂わす話ではなかった。
「そこに『月』があった」
「どういう意味でございますか?」
「その通りの意味だ。二人はひと抱えもある大きな『月』を所持していたのだ」
ロアング中佐は月の大きさを示すように両腕を広げたが、リアンセはすぐには反応できなかった。
「それは」質問するとき、自分は馬鹿になったのではないかと思った。「その『月』というのは……聖遺物でしょうか?」
「まあそう思うだろう。二人がコソコソと人目を憚るようになったのは、聖遺物が保管された聖地の遺構を訪ねてからのことだった。その後神官たちを交えてどのような話し合いがなされたかはわからんが」嘆くように首を振る。「二人は逃亡した」
「どこへ――それはいつ頃の出来事でしょうか?」
「行方がわからなくなったのが二ヶ月前。既に情報部の別の者が二人に同行する協力者と入管とに働きかけて南西領に入り込ませている」
特務機関配属の情報士官の常として、そのために働いた者が誰であるかを同僚のリアンセが知ることはないだろう。
「彼女たちがどこへ向かうおつもりなのか、ロアング中佐はご存知なのですか?」
「都へ向かうよう誘導した。ところがだ。二人は協力者とはぐれ、その上コブレンを出て以来消息がわからない。歌流民を雇っているのだが、その歌の力を
囲いの大陸に残された聖遺物は、建物であれ何であれ、地球人信仰の担い手である神官たちの手によって、厳重に保管される。出どころのわからない聖遺物など存在しないはずだった。
「どういうことか、わかるかね?」
「この大陸にはなかったものだということでございますか?」リアンセは地図に目をやった。「この惑星の反対側からやって来た、ということでもあれば、まだ理解できます」
「ところが海には
言語生命体をこの大陸に閉じ込めるために、海上に設置された地球人による装置だ。近付けば、セイレーンの歌が言語生命体を構成する言語子に働きかけ、体をばらばらにほどく言語崩壊に導く。役割はそれだけではない。海の境を行き来するあらゆるものを監視しているはずだ。
そういえば先刻、上官が『領土北端の海辺』と言っていたことを思い出した。
「聖遺物が海上を漂流し、セイレーンの監視をすり抜けて言語生命体の領域にたどり着いたと……?」
だとしたら、地球人たちが暮らすとされる領域はどのような状態にあるのか?
「可能性は他にある。ダーシェルナキ公は、セイレーンが今も存在しているかどうかを知りたがっていてな」
リアンセは意味を察しかねて黙った。
中佐は、セイレーンが今も『いるか』を知りたがっている、と言った。今も『機能しているか』とは言わなかった。
「南西領最南端の神官領は、君もよく知っての通りタルジェン島ヨリスタルジェニカ神官団の統治領域だ」
その名に緊張し、リアンセは崩れてもいない姿勢を正した。
「この神官団はたびたび南の海上に出て……それも、セイレーンを刺激するかしないかというぎりぎりの範囲で派手に洋上演習を繰り返し……南東領を刺激している。わかるな」
「南東領ソラート神官団への挑発行為でございましょう。奴らにリジェクと手を組んで海と陸の両方からシオネビュラを攻撃させるわけには参りません」
「その通りだ。彼らに存在を誇示してもらわなければ、デナリから密かに出発している海上資源の調査船団の存在が明るみに出てしまう」
それはリアンセにも未知の情報であった。
そして、ここまで聞けば、シグレイ・ダーシェルナキの野望も大体わかる。
「ダーシェルナキ公はこの大陸を――」
「リアンセ・ホーリーバーチ中尉、君に任務を与える」
「はっ」
「事態は南西領のみならず、この大陸に住まう全ての言語生命体に影響を及ぼすだろう。もしもセイレーンが『存在せず』、言語生命体の居住可能な領域が大陸の外に広がっているならば、歴史は変わる」
アセルは机へと歩いていき、引き出しから旅券を出してリアンセに手渡した。
「今日から君はリタ・クラントだ。明日、私が指示する場所に行き、そこで待つお方のために働いてくれたまえ」
シグレイの海洋進出の野望と『月』との関係を未だ聞いていないのだが、リアンセは敬礼し、旅券を受け取った。
「了解しました、ロアング中佐」
「頑張ってくれたまえ、『リタ』」