鏡語り
文字数 1,967文字
昼が近付き、お針子の娘たちの間に浮ついた空気が流れだした。裁縫場の木製の壁にもたれて座り込む黒髪の青年は、壁越しに、背中に少女たちのざわめきを受けながら顔を上げた。屋根と屋根の間から、細く青い空が見えた。秋の日差しを受け止める透明な天球儀は、この惑星を包む堅牢な建造物でありながら、どこか繊細なガラス細工めいて見えた。
「それでは皆さん、休みの時間が近付いてまいりました。次のお話で今日はおしまいにしたいと思います」
涼やかな少女の声。お針子たちが囃し立てる。作業するべき手を打ち鳴らす者もいて、監督の女が喝を入れた。場が静まってから、語り部は声を紡ぎ始めた。
「これより私がお話するのは、言葉を魔法のように操る『言葉つかい』の物語。楽土を求めさまよう死者の巡礼団と、処刑刀を手にそれを追う、言葉つかいの青年の話をいたしましょう……」
リージェス・アークライト北方領陸軍少尉は盛大に溜め息をついた。
護衛対象リレーネ・リリクレスト公女殿下が旅費の心配をし始めたとき、この上流貴族の娘が平民の間で働くと言い出すのではないかリージェスは不安に思った。その不安は的中し、労働にめりはりを出すための朗読士という仕事ならできるのではないかと、二言目には言い出した。
『リージェスさん! 私、南西領の方々に北方領の民話を語って差し上げたいの。きっと耳新しく、興味を持って聞いてくださると思いますわ!』
リージェスは慌てて説得し、北方領の話は絶対するなと約束させた。言葉遣いも町娘のそれに少しずつ矯正させている。食事作法、手つき、身だしなみ。どれも適度に崩れてきた。……と思う。本音を言えばどこかの宿に閉じ込めて、一歩たりとも外には出したくないのだが、夢見がちなようで意外と現実的な視線も持ち合わせているリレーネに対して旅費がないことを誤魔化し続けるのはいずれ不可能だった。
朗読士リレーネが、聞き慣れた物語を語りだす。
「こことは違うアースフィア。天球儀の庇護がないその星は、鳥が一羽もいない星。からくり仕掛けの鳥たちが、カタカタ音を立てながら、灰色の厚い雲の下を飛び交うばかりの星でした。ときは、革命前夜――」
※
『この人を預かってくれ!』
フラッシュバック。
体を震わせたリージェスは、裁縫場の壁につけた背を、座り込んだまま伸ばした。物語は続いている。ちょうどお話の谷に差し掛かっており、緊迫した内容に合わせて、リレーネの声も低く抑えられていた。
リレーネは賢く、覚えが良い。南西領に伝わる伝承を多く聞き覚え、語りの技もたちまち身につけた。一方リージェスはと言えば、持ち回りで家庭教師をしながら空いた時間に放心して過ごしている。そんなとき、心はくぐり抜けてきた危地へと否応なしに引き戻されるのだった。
『この人を預かってくれ!』
そう叫んで歌姫エルーシヤをプリスに押し付けた夜、都は燃え上がっていた。陸軍広報部の新人少尉プリシラ・ホーリーバーチは、リージェスに負けず劣らず混乱していた。総督府は占拠され、陸軍宿舎は同じ陸軍の包囲に占拠された。市街に逃げ出した将兵と反乱に加担した将兵の間で戦闘が起きた。それには都の民も多く巻き込まれ、便乗して略奪が起きた。
宿舎の外に自宅を持つプリスは、それでも隠れ家のリージェスとリレーネの元に来てくれた。もはやダーシェルナキ公の庇護は得られない。そう腹を
可能な限り都から遠ざかった夜明け、リージェスとリレーネは山の麓に『月』を埋めた。コブレンで砕け散って以来、再生することのなかった『月』だった。『月』が手を離れたとき、リージェスとリレーネは奇妙な解放感を分かち合ったように思う。あと気がかりなのは、共に北方領を出て、コブレンの手前ではぐれた同僚パンジェニー・ロクシのこと。
彼女はもう生きていないのではないか、とも思う。そう考えるのは辛いが、パンジェニーとの合流にこだわっていてはここから一歩も進めないのも事実だった。
拍手が起こった。リージェスはもう一度、現実に引き戻された。物語が終わったのだ。ほどなくして裁縫場の玄関が、お針子たちを吐き出す気配。
建物の間から通りに目を向ける。少女が暗がりに顔をのぞかせた。辺りを憚る様子を見せてから狭い隙間に滑り込み、肌寒い影の中でリージェスのもとへと早足で来る。そして、両膝を曲げて視線を合わせると、北方領の末の公女はにっこり笑って告げた。
「終わりましたわ、リージェスさん」
腰まで伸びていた彼女の金髪は、今は肩の下で切られていた。