シオネビュラの神官たち
文字数 4,830文字
シオネビュラは猥雑な都市だ。造船所が二十四時間体制に切り替わってからは眠らぬ人も増えた。港に明かりが絶えることはなく、街路を荒くれ者と男娼、娼婦が行き来する。
その往来も、神官団の先触れが鈴を打ち鳴らすや、酔いと熱気が払われた。歌う
体つきも立派な騎兵と歩兵の中にあって、その女性の神官将は小柄だった。
行列は、歌と鈴の音を撒きながら、夜のただなかに黒く
通用門が開かれて、いくつもの尖塔を持つ神殿の敷地へと一行を迎え入れた。数分ののちには、三位神官将ニコシア・コールディーの姿は本棟二階の廊下にあった。
石造りの廊下には、
「お待たせいたしました。申し訳ございません」
硬い声で述べながら入室し、自席につく。非公式の会議では、着席の指示は待たなくて良いのが慣習であった。早く本題に入るためだ。続けて入室した三位神官将補ミオン・ジェイルが扉を閉める。閂をかける音がした。
「なに、定刻には間に合っている」
上座の正位神官将、ヤン・メリクルが鷹揚に答えた。五十手前の働き盛り。浅黒い肌の中に、金色の目が光っている。
「ときにコールディー三位神官将、ヨリスタルジェニカはモラン主席技師をシオネビュラに引き渡すつもりがないようだが」
「ヨリスタルジェニカは有事に共同戦を張らねばならぬ我らの同盟相手でございます。その責任者が、己の軍を守るためにその程度さえ思いつかぬようであれば、むしろ私は直々に乗り込んで正位神官将をその椅子から蹴り落としたまでのこと。我らのためにも、ヨリスタルジェニカには持てるものすべてを活用してもらわねばなりません。できぬなら、行って取り戻すまでです」
メリクル正位神官将は静かに唇を吊り上げた。
ニコシアの向かいには、一組の黒髪の男女がかけていた。
男のほうは二位神官将レグロ・ヒューム。女のほうは二位神官将補メイファ・アルドロス。メイファはかつて『月』の痕跡をたどってコブレンに派遣され、以降この件の調査を担当している。レグロのほうは海の動向に目を光らせているが、敵対するソラート神官団はこの頃「シオネビュラが『月』の持ち主たる北の公女を監禁している」と吹聴しているようだ。嘆かわしい。むしろ件の公女の身柄が
「リジェク・北ルナリア両市からの要求は変わらない」
正位神官将が厚い唇を開いたので、ニコシアは彼にまっすぐな目を向けた。
「日輪連盟加盟諸都市の産物に対する関税緩和。シオネビュラに居住する両市の民の安全及び財産の保証。ヨリスタルジェニカ神官団の南洋進出阻止への協力要請。最後に、所在不明の聖遺物を我々が隠蔽しているという疑惑に対する釈明」
北方領で聖遺物が失われた件を、今となっては誰も隠そうとしていなかった。
「両市は我々と
メリクルは言葉を切り、どこか面白がるような目を二位神官将レグロに向けた。レグロが
「海側に目を向けますと、ソラートと連携をとるはずだった海上戦力の集結は鈍く、航行に適した時期であるにもかかわらず、ここ
軽薄に聞こえるほど軽やかな喋り口なので、ニコシアはこの男の言うことを話し半分に聞くことにしていた。
「陸で戦いの端緒が切られるときには、敵海上戦力はほぼソラートが独力で動くことになるでしょう。そうなれば、ヨリスタルジェニカは安心して、というのもおかしな話ですが、宣戦布告をするはずです。ソラート神官団はそれを受けて立つしかありますまい」
メリクルは頷いた。
「では、続けてコールディー三位神官将、南西領陸軍中トレブレン守備隊の動きを改めてこの場で報告してくれ」
ニコシアは着座のまま一礼し、口を開いた。
「敵主力部隊であるリジェク神官団の先遣部隊、北ルナリア修道騎士団、及び北ルナリアとグロリアナの民兵団がトレブレン地方を通過したのち、城塞都市中トレブレンの守備隊が大道路を塞ぐ形で野戦演習を開始しました。演習はだらだらと覇気がないまま幾日も続き、そのためリジェクに続く日輪連盟側の神官団の勢力はもう一週間もグロリアナで足止めをされています」
神官たちは地球人によって独立性を保証された軍隊を持っている。直接の挑戦を受けたわけではないにも関わらず、それに手出しをすることは得策とは言い難い。さりとてシオネビュラを失うわけにはいかない総督シグレイの考えた結果がこれだ。シグレイはただ、自分の直轄地で自分の軍隊を訓練しているだけ、というわけだ。
「後続の日輪連盟軍は、
「コールディー三位神官将、会戦はいつだ」
質問の意を汲み、唾をのんで答えた。
「中トレブレン守備隊によって補給線を断たれたリジェク神官団は、街道でシオネビュラの商人を襲い、行く先々の修道院や派出神殿で略奪まがいの行為を行っております。大義名分を手に入れた以上、我々が会戦の日まで待つ必要はないと考えております」
強気な言葉とは裏腹に、ニコシアの胸中は不穏だった。
――海の動きも陸の動きも、シオネビュラ神官団にとって都合が良すぎないか?
「結構だ。だがその前にもう一つ、君たちと分かち合いたい情報がある」
不吉な予感が伴って、沈黙の幕が下りた。その中でメイファ・アルドロスが微笑む。
「今宵の闇に紛れて寄港した密使が、タルジェン島での異様な騒動について情報をもたらしております。件の聖遺物がタルジェン島に持ち込まれていることはヨリスタルジェニカからの急使によって正式に情報共有されておりますが、どうやらそれが何者かによって持ち去られた恐れがあるようで」
「それはいつの話だ」
ニコシアはテーブル越しに身を乗り出した。癪に触る笑みを湛えたメイファの視線が返ってきた。
「件の人質交換の四日前、今から数えること八日前。タルジェン島内で発見されたという報告は未だされておらず……」
「海上の要衝ではタルジェン島を
正位神官将の言葉は、しばしの間、再度の沈黙をもたらした。次にそれを破ったのは、ニコシアの隣に座る青年、三位神官将補ミオン・ジェイルの静かな声だった。
「アルドロス二位神官将補殿、タルジェン島へ『月』を運んだコブレン自警団の三人組の身柄はどうなっておりますでしょうか」
「その三人も行方知れずのようですねぇ。出航を一日半送らせて全ての船と積荷を検査したヨリスタルジェニカの神官の
「実際に消えたのは、『月』と自警団の三人というわけでございますね。その三人に『月』を持ち去る動機があるかないかに関わらず」
何故かしら満足げな笑みを浮かべ、メイファは補足した。彼女によれば、三人の客人を乗せた船団がタルジェン島を発つ日の朝、彼らの様子に変わった点は見られなかった。特に代表者に至っては、早く帰りたくて仕方がないと正位神官将を相手に言い放つほどであったという。
「彼らがどこからともなく出てくる可能性というのは考えられるかい? メイファ?」
「出てくるに決まっているだろう」レグロの発言に苛立ちながらニコシアは言い放った。「そいつらは消えていなくなったわけじゃないはずだ。必ずヨリスタルジェニカの領土・領海のどこかにいる」
「ところが、聖遺物に関わり合って人が消えた事例が過去一つ」
歌うように軽やかなレグロの言葉に、正位神官将の
「それも古い例ではないときた。君も知っているはずだ、ニコシア」
「グロリアナの
正位神官将は右手を上げて、発言を制した。
メイファが座ったまま身を屈める。
「さすがに現物を持ってくるわけにはいきませんでしたが」
巻物が円卓に広げられ、順に立ち上がったメイファとレグロ、ミオン、最後にニコシアが四隅を押さえた。
そこには黒ずんだ死体が描かれていた。
「やっと見つけたのですよぉ。リジェク神官団の動きを嗅ぎまわっていた陸軍情報部の
「生きているようには見えないねぇ、メイファ。彼はどこに?」
「グロリアナの郊外の林に埋められておりました。近くの小屋には彼が連絡用に持ち歩いていた胡桃も落ちておりまして。ところで是非とも注目していただきたいのは、この
死体は臭いがしそうなほど生々しく描かれていたが、メイファが示す箇所には、虫が食ったり、腐乱した痕跡すらなかった。
肌が黒く変色していた。この男は埋められた後、野犬に掘り返されでもしたのだろう。変色を免れた脇腹が食い破られている。そこから見える体内、すなわち黒く変色した皮膚の下には、骨も内臓も見えなかった。
「これは……」人間の死体と呼ぶには、その空洞はあまりに奇妙だった。「言語崩壊を起こしたのか。これが人間なら」
「だとしたら噂に信憑性が出てくるねぇ」
レグロが顎に手を当てる。
「グロリアナでの件の工事以来、
「グロリアナからリジェクに出稼ぎに行ったきり消息不明になった人間が何人もいると聞く」
ニコシアはレグロとメイファを順に見た。
「確かこの男はそれについて探っていたのだろう。でも、『月』と運び手が姿を消したことに何の関係が?」
控えめに扉がノックされた。正位神官将補が歩いて行き、閂を外し、廊下に姿を消した。ニコシアはほとんど息を詰めていた。メイファが羊皮紙を巻いて片付ける。
正位神官将補が足早に戻ってきて、上官に耳打ちした。
「諸君」
四人の部下たちの前で、正位神官将は立ち上がる。
「たった今、ヨリスタルジェニカ神官団が南東領ソラート神官団に宣戦布告したとの知らせが入った」
直立したままのニコシアたちは、正位神官将の宣告を待つ。それはすぐに下された。
「時は来た。リジェク神官団を討つ」