お前はいらない
文字数 4,487文字
自分の意志では止められない悲鳴と涙を絞り尽くしたあと、プリスはアイオラたちが拠点としていた修道院の窓際で、リアンセにもたれかかって座っていた。
二人がいる廊下では
「彼は何をしたの?」
窓の向こう、天球儀の下で戦いが行われているはずの方角、しかし石造りの建物や塔に遮られて見えない方角を見つめながら、リアンセはヴァンについて尋ねた。彼女もまたシルヴェリアに命じられて前線を一時離脱し、休息を取っているところだった。
プリスは鼻をすすり上げるばかりだったが、しばらくして答えた。
「自分で決めたことをしたの」
風が煙の臭いを運んでくる。
「自分の頭で考えて、一番いいって思ったことを」
また火災が起きているようだ。それも、都の中枢近くで。誰が火をつけて回っているの?
「立派なお友達ね」
火災については気がかりだが、リアンセは妹のために、あれこれ考えるのを一時やめた。
「それができる人は少ないわ」
「一番仲が良かった。士官学校のときから」プリスは言った。「ヴァンの分も生きないと……ヴァンがやりたかったこと……」
リアンセは窓枠に頬杖をつくのをやめて、プリスの体に腕を回した。
「あなたはあなた一人分生きれば御の字よ。それ以上のことなんて誰にもできやしないわ」
「ヴァンが戦えなかった分も戦いたいのに、私……」
「……戦いたいのに?」
「私、戦いに向いてないみたい。さっきお姉ちゃんに助けられてわかったよ。それにすぐ泣くし……」
リアンセはプリスを抱く腕に力を込めた。
「戦いなんて、向いてる人間がすればいいことよ。戦えなくたって愛してる。あなたのこと。私も、ロザリア姉さんも」
プリスの目から、今一度、涙が流れ出た。
セレスタを殺したときのことをリアンセは思い出した。あのときセレスタの妹、アルマは、セレスタに抱きついて姉の命乞いをした。そのアルマの眼前で、リアンセは躊躇なくセレスタを殺した。
あれは正しかったのだろうか? セレスタは本当に死ななければならなかったのか? 危険な思想を生み出す資質を持った人物だとしても、決して悪人ではなかったのではないか?
リアンセは姿勢を変え、プリスと向き合うと、両腕で妹を抱きしめた。
今は戦いの最中だ。まだ答え合わせの時間じゃない。
ただひとつ確かな答えがあった。腕の中にいるプリスだ。
――この子がいる限り、私は人間でいられる。
※
総督府を脱出したエーリカは、都解放軍の本拠地へ向かう途中でケイン・アナテスと出会った。エーリカは前線送りとなったこの不遇な元憲兵隊少佐のことを知っているわけではなかったが、彼の面構えを見て、自分好みの人物であることを見抜いた。これはちょうどいい。アナテスには指揮官が戦死した一個大隊が割り当てられていた。この大隊を丸ごといただくことにしよう。
当のアナテスはというと、エーリカが持ち場を通るとの報せを受けて現場に駆けつけるまで、エーリカがどの程度の兵を率いているのか知らなかった。ところがエーリカの前に馬で駆けつけると、この第二公女は侍従長と十人の侍従しか引き連れていなかったのである。
「殿下、どちらへ行かれるのですか」
「名乗りなさい」
エーリカは馬上から命じた。それで、アナテス及び副官イルメの名と階級、最近の不幸な出来事と身の上を聞くと、
「ちょうどいいわ」
満足して頷いた。
「アナテス少佐、私に同行なさい」
「承知しました。直ちに護衛の兵を編成します」
「いいえ、あなた一人で結構」
ダーシェルナキ家の人間には何を考えているのかわからないのが多い。その代表格がシルヴェリアと聞いていたが、エーリカもどっこいどっこいだとアナテスは思った。
とにかくアナテスは、イルメに後を任せ、馬に乗って自分の担当する地区を通過した。地区を抜けると、今度はララセルが先頭に立ち石橋を渡った。
石橋の先は月環同盟軍の支配区域だ。よほど、アナテスは止まってくださいと声をかけようかと思った。ところが橋の先で待っていたのは、思いもしない人物だった。
「寒い中お出迎えありがとうございます、ロアング中佐」
アナテスは黙っているのをやめ、できる限り馬をエーリカの近くに寄せると侍従の肩越しに囁いた。
「エーリカ殿下、何をなさるおつもりなのですか?」
「まだわかりませんこと? 私はもう月環同盟側の人間ですことよ」
絶句するアナテスを、エーリカはアセルに紹介した。
「こちらはアナテス少佐。何も知らせずついて来させましたが、ここまで来てしまった以上彼も私と同罪でしょう。とはいえ少佐、肩の力を抜きなさい、我々が罪に問われることはございません。この戦は月環同盟の勝ちが既に見えているのですから」
「殿下は総督である弟君を裏切るおつもりですか」
「今まで総督が都を裏切っていたのです」エーリカは平然と言ってのけた。「さあ、少佐。あなたの担当区域をもう一度通らせていただきますよ」
アナテスは、イルメを待たせてある大隊本部に急いで戻らなければならなかった。エーリカがもう一度通るのだ。今度は月環同盟軍を引き連れて。そして自分も同盟側に寝返ることをアナテスは決意していた。これは、エーリカとアランド、どちらがマシか選べということなのだ。今になってアランドという選択肢があるだろうか?
アナテスが去ると、ロアング中佐は何事もなかったかのように告げた。
「シルヴェリア殿下のもとに派遣されていた侍従が『トレグの雑貨屋』に帰還しております」
「ありがとう」
都解放軍と月環同盟軍の兵士の視線を浴びながら、エーリカは雑貨屋へ馬を急がせた。煙の臭いが漂っている。火の手は見えないが、よく晴れているので、どこで火災が起きているかは見当をつけられた。空が赤いほうだ。
雑貨屋の店先で馬を降り、エーリカは緑色の扉を開けた。売り物のランプが灯されて、ガラス越しに赤や青の光を放っていた。
「シルヴェリアは何と?」
他に明かりのない店内で、頬を赤や青の光に染めた侍従は丁寧に答えた。
「シルヴェリア殿下は、エーリカ様の歓迎案に難色を示されました。エーリカ様がシルヴェリア殿下の御前に参じられることをお望みです」
「他には?」
侍従は言葉を詰まらせた。
「あの女がたったそれだけであなたを解放したわけはないでしょう?」
口を開けたまま侍従は考えを巡らせていたが、辺りを憚るように付け加えた。
「セレテス子爵の件につきまして、シルヴェリア殿下が戦死を仕向けられたということを仰っていました」
「あの女ならそんな言い方はしなかったでしょう」
ああ、そう。貴様の惚れた男は私が捨て駒にしてやったとか、犬死にをしただとか、そういう言い方をはずだ。
エーリカは黙って雑貨屋を出た。風が強かった。エーリカの腰にはサーベルが下がっていた。
肩越しに手袋を投げ捨てた。地に落ちる前にララセルが拾った。次に、エーリカは薬指の指輪を投げ捨てた。それは誰も拾わなかった。
エーリカの手は剣術の稽古で血豆だらけだった。
シルヴェリア。
私は厭戦家だけど、この手は剣を握りしめることもできる。
思い知らせてやろう。
※
実際のところ、火災は『トレグの雑貨屋』から三ブロックと離れていない地区で起きていた。市街戦の最初期と同じく、狙われたのは木造住宅が並ぶ貧しい地区だった。
今や海の神官団から歌う神官団へと姿を変えたヨリスタルジェニカ神官団は、行軍の前列に斉射を浴びせられ、さらに火災によって後退を余儀なくされていた。
煙から逃れたリージェスは、ふと月を見上げた。すると待ち構えていたように、月がぐっと大きくなった。拳ほどの大きさに見えていた月が、人の顔ほどの大きさになった。気のせいではない、少なくとも、大きさが変わる瞬間を見ていたリージェスにとっては。
「気に食わない奴め」リージェスは心の底から吐き捨てた。「俺たちの出方を見てるんだ」
「見ていることしかできぬのやもしれぬ」
と、シンクルス。リージェスはシンクルスに顔を向けた。
「月がほしいなどと願ったことはありません」
きっぱりそう言った。
「今もいりません。願ったとしても、それは別の宇宙の私であって、この私ではないでしょう」
シンクルスは何かを予感して尋ねた。
「アークライト少尉、何を考えておられるのだ?」
彼が何を予感したのか、リレーネにはわからなかった。だがリージェスの横顔にみなぎる決意は見て取れた。
「お前はいらない、と言ってやる、あの月に」
直後だった、リージェスが馬の横腹を蹴ったのは。神官兵たちの間を縫って、火災のほうへ戻っていく。
「リージェスさん!」
リレーネは反射的に追いかけようとした。その肩を後ろからシンクルスが掴んだ。
「いけませんわ、あちらは煙が」
「アークライト少尉は賭けに出るつもりなのだ」
「賭けとはどういうことでしょう?」
シンクルスは顔を上げ、月をじっと見つめながら答えた。
「命を賭けて、自分の言った通りのことを伝える気でおられる」
お前はいらない、と。
リージェスがもと来た道を引き返すと、煙を嫌がって馬が前進を拒んだ。リージェスは馬を乗り捨てた。黒煙の中を右往左往する人影が、明るい雪雲の下に見えた。
「燃やせ! もっとだ!」
誰かが口に布を当て、喚いている。
「同志コル、タールが足りません」
「ならば木切れに火を継げ! それを投げろ! いかなる手段を用いても星獣兵器を守れ!」
ゼフェルの後継軍だ。数は四、五、いや六……煙のせいでよく見えない……リージェスはサーベルを抜いた。
弩の先端に燃える布を巻きつけて、煙の中から出てきた男がいた。リージェスは火矢が放たれる前に、躊躇なく男を斬り捨てた。その男の最期の悲鳴が、ゼフェルの反徒たちの注意をリージェスに向けさせた。
まず右側から、ついで左の建物の陰から、連弩の太矢が放たれた。それをかわしてリージェスは、サーベルを中段に構え、コルと呼ばれた男に突進していく。
息が苦しい。
コルに激突した瞬間、リージェスは背中に衝撃を受けた。痛くはなかった。ただ、息が詰まった。サーベルがコルの心臓を刺し貫き、共に舗道に倒れ込んだとき、自分もまた弓矢に刺し貫かれたことをリージェスは悟った。
これでいい――月が俺たちを選んできたというのなら、月がほしいという願い、その元凶の一つが消えるならこれで――。
月よ、応答せよ。お前が与える可能性などいらない。
消えろ。
月が消えていくところを見たいとリージェスは願った。だが顔を上げることはできなかった。二本目、三本目の矢が背中に突き刺さっていくのがわかる。その度に意識が飛びそうになった。
コルに覆い被さるように倒れ、眼前にあるコルの、信じられぬという死に顔に、リージェスは言った。
「お前のような
だが、声になっているかどうか、確信は持てなかった。
上手く喋れない……最期にそう思った。