神
文字数 4,379文字
真っ暗な階段を手探りで下り続けるうちに、時間の感覚は失われた。光が見えて、階段が終わった。ミスリルは広間に出た。そこに月があった。月の光は広間の全容を把握するには乏しすぎた。奥にある、金属の台座がほのかに照らされていた。それはまさに闇夜の月明かりと同じ明るさで、目が慣れてくれば、台座に座す像の爪先が見てとれるようになった。
「砂の書記官」
心細さを紛らわそうと、ミスリルは声に出す。左右の暗がりから立ち上がる影を感じ取ったのは、声の残響が消えたときだった。
少しでも距離を開けようと、後ろに飛びすさる。視界の左右に影を収めた。どちらも大きく、ミスリルの背丈のゆうに五倍はある。人の形をしているが、その影の本体となりうる人間はおらず、月の光が透けている。
左右から影が声をかけてきた。
性別のわからない、中性的な声だった。
『危害を加えるつもりはない/私があなたに触れることはできない』
声は同時に発せられたが、不思議とどちらも明瞭に聞き取れた。
ミスリルは油断なく身構えながら、左右の影に目を配った。
「あんたが『砂の書記官』か?」
沈黙を肯定と受け取るべきか、しばし迷う。
「だとしたら驚いたな、二つあるなんて……それとも二人いるなんて、て言ったほうがいいのか?」
『私は人間に似た/私は話し相手を求めて二つになった』
「何だそれ。答えになってるようななってないような……」
後ずさりながら話を続ける。『月』の光輪が遠ざかっていく。だが、人ならざるものを相手に暗がりに身を隠せるとはミスリル自身も思っていなかった。
「話し相手を求めてって、その話し相手になるような人間はあんたが自分で皆殺しにしたんじゃないのか?」
ついに、完全に壁に背がつく位置まで後退した。
「あんたが塔の聖遺物なら、地球人が
『あなたは賢く、歴史を知っている』
「俺を知ってるのか?」
『死の天使/
ミスリルは緊張に耐え、呼吸を微かに抑えた。口の中は干からびたようで、水が欲しかった。
「教えてくれ。どうして俺はここにいるんだ?」
『その月は物語を必要としている/あなた方と接触すればそれが月にとっての物語となる』
答えとしてはいささか難解であった。
『月は時空を超えてきた/深い悲しみのゆえに』
「月はどこから来たんだ?」
意味がわからず、ミスリルは苛立ちながら質問を変える。
『月こそがそれを求めている』
「それってなんだ? 月がここにある理由のことか? こいつ自体が、こいつがここにいる理由を知りたがってるのか?」
『それは理由を知りたいのではなく、理由を欲しがっている/原因なくこの世界に存在することにそれは耐えられない』
一つの影が月に覆いかぶさって、光をミスリルの目から隠した。
『
「原因なく存在するものは神のみだ」
ほとんど条件反射で、子供の頃に叩き込まれた教理問答の通りの答えが口を
あらゆる物には存在する理由がある。それを生み出した親があり、作り手があり、物理的・化学的な反応があるからだ。ただ神のみがそのような原因を持たない。
するともう一つの影が、ミスリルの眼前に滑り込んできた。
『月は原因なくここにある。あれは神か』
「違う。俺たちの前に現れた原因があるはずだ」
答えながら壁沿いに身をかわす。だが影はついてきた。
『汝に問う。地球人は神か』
「違う。おいあんた、さっき俺に危害を加えないって言ったよな」
『あなたの言う通りだ』
もう一つの影が、道を塞ぐように、または縋り付くように、ミスリルの右手に回り込んできた。
『私は都に大量死をもたらした/私は都に核の惨禍をもたらした』
『千年の昔/地球人が神だった時代』
「原因を持つものは神じゃない」
影は壁さえすり抜けて、ミスリルを囲み回り始めた。
『地球人は原因を持っていた/原因は意味を生んだ』
『原因を持つ神は重い/意味を持つ神は重い』
『地球人は神になるには重すぎた/私たちの神は重かった』
ミスリルは包囲を抜けようとした。だが、影に触れた瞬間、重い痺れに見舞われて動けなくなった。
『あなたの神は重いか/あなたの神は意味を持つか』
痺れはすぐに取れた。慌てて後ずさり、包囲の中心に立つ。
『私は地球人と交信するものであり、この出来事の意味を知りたい/起きること全てに意味があるのなら』
二つの声が揃い、叫んだ。
『さあ、今こそ贖罪のとき!』
※
影が急激に包囲を狭め、ミスリルの体に重なった。先ほどのような痺れはなかったが、ミスリルは逃げられなかった。浮遊が始まり、すぐに落下へと変じた。
『再度問う』
光が見えた。ミスリルの隣には、三日月があった。半月があった。様々な形の無数の月が、どことも知れぬ奈落へと、共に落ちていく。ただ一つの満月が、上のほうにあって、それとの距離は開きも縮みもしなかった。
『あなたの神は重いか/あなたの神は意味を持つか』
ミスリルは態度を変えてみることにした。
「ふざけるな!」
怒りを装い、
「どうして神の意味がわかる、俺は自分が
虚空に手を伸ばした。
「それであんたは何だったんだ。自分の意味がわかるのか? 自分のしたことがわかるか?」
落下は続いており、重さによって、頭が下に、足が上になっていく。
「あんたは人間が好きだったか! 人間に意味はあったか! 人間は重かったか! お前が殺した人間たちは! ……なあ、おい!?」
更にたたみかける。
「ってか、そんなことはどうでもいい! テスとアエリエは無事なんだろうな!?」
口にした途端、本物の怒りが胸に湧いた。
「あの二人に余計なことしてみやがれ! 俺はテメェをぶち殺す!!」
『私は人類の/私は言語生命体の』
『平和と安寧を願っている』
満月が眼前に迫ってきた。
月の落下速度が上がったのではない。ミスリルがそれに引き寄せられるように上昇したのだ。
立っているときと同じように、頭が上に、足が下になった。
『多宇宙/いくつものアースフィア』
『に配された、いくつもの同じ魂』
不意に低い男の声が、月の中から聞こえた。
『それは太古歌の領域で、鏡のように互いを映しあう』
書記官の中性的な声が二つ、重なって続いた。
『神になろうとした地球人たちは、どの時空でも生きていけないことを悟った/ここもまた鏡像の世界』
「あんたの話はわからない」
ミスリルは両腕を伸ばす。指先に触れた月は、コブレンで初めて見たときと同じ大きさを取り戻していた。もはや一人で抱えることはできない。
「それで、俺はこいつをどうすればいいんだ?」
『私が管理者として遣わされます/私は管理者を遣わします』
二つの影が、一つの月に重なって、吸い込まれるように消えた。
『我々はここに統合されます』
『あなたが私の管理者として不適切であった場合/私が月の管理者として不適切であった場合』
月が、白くなっていく。空間が、自分の体さえ、白く見えなくなっていく。
『あなたを殺します/私を殺してくださいね』
「何言って――」
転落。
諦めに近い心境で、ミスリルは重力を受け入れた。何も見えなくとも、目を閉ざしはしなかった。風で眼球が乾かぬよう、せわしなく瞬きする。視覚以外の五感は研ぎ澄まされていた。心は冷静で、頭は冴えていた。
「――で、何をするつもりなんだ?」
『私は人間を知っています/人間が何でできているか知っており、素材は全てあります』
温かいものが、衣服などないがごとくに胸に触れてきた。
『私をあなたたちにしてください/あなたの遺伝子をわけてください』
「どうやって」
『私はあなたたちに似たものとなります/あなたの
人肌をもつものが、ミスリルの胸にあった。腕を回して抱きとめると、それにはおぼろげな輪郭があった。
ぬくもりは五感を洗って、転落を和らげた。空中を漂う心地となる。
胸に抱かれながら声は言った。
『私はこれより
爪先が地面に触れた。降下は続いていたのだ。バランスを崩し、その場に両膝をついた。胸に抱くぬくもりは、今や確かな実体を得ていた。
目に光が感じられた。不条理なことだが、今まで真っ白な空間として認識していた場所は、色のない暗闇だったらしい。
青い空と。
純白の砂と。
高い壁とその影。
迷宮のただ中で膝をつき、ミスリルは胸に押し付けるように少女を抱いていた。
その、赤茶色の髪。少女が顔を上げれば、大きな目には琥珀色の瞳が収まっている。その面立ちから、はっきりと、おのれ自身の面影をミスリルは見て取った。
二人はただ、互いの視線を瞳で受け止めあった。ミスリルの頭には、闇の中でのやり取りが鮮明に記憶されていた。その記憶から呼ぶべき名を見つけ出すのはさほどの苦労でもなかった。
「マナ?」
それから、少女がまったく
少女は大人になりきってはいないが、子供と呼ぶほど幼くもなかった。十三か四かといったところだろう。
マントを着せられる間にも、マナはミスリルの顔から視線を外さなかった。瞬きの
「人間」
声変わりを終えた、大人びた少女の声だった。
「私は今、人間に触れているんだね」
急に動いて、ミスリルの胸に右耳を押し付けた。
「あったかい。心臓がとくとく言ってるよ」
ミスリルは半ば呆れながら答えた。
「そりゃそうだろ、生きてるんだから」
「生きてる」
この少女に鼓動や脈拍があるのか、ミスリルは知りたくなったが、手を伸ばしてその肌に触れる気は起きなかった。少女はミスリルの背中に細い両腕を回し、なおも胸に耳を押し付けた。
「生きてる……」
声が震え、嗚咽に変わった。
これが人なのか、人ならざるものなのか、ミスリルにはわからない。マント越しに伝わる体温は冷たかった。
太陽は少女を温めるだろうか?
ミスリルにできることは、少女が泣いている間、背中に手を当ててやることだけだった。