兄
文字数 4,922文字
正対すれば、
同じ構えで向かい合い、テスはアズの手の内を読もうとしていた。試合開始の
たまに行われる夜間の公開訓練は、どの門弟の子であろうと自由に見学できる決まりだった。左利きの育成を専門とするオーサー一門は、その特殊性ゆえに比較的見学者が少ない部類ではあったが、どういう風の吹き回しか、今夜は六歳から十六歳までの三十人ほどが、右の壁際一面を埋めていた。未成年の弟子のほとんどがここにいることになる。彼らは緊張している。テスと同じように。テスは目に力を込めて、切っ先の向こうにあるアズの肘に注意していた。
アズは動かない。
お前から来いということだ。
テスがすり足で踏み込んで、均衡は破られた。
遅れて踏み出したアズが
剣の
剣を擦り合わせたまま距離を詰めたあと、アズは自分の剣の柄をテスの体のほうに押し込み、切っ先で半円を描いてテスに当たる直前に寸止めしたのだ。
遅れて弟子たちがどよめく。
今の何? 何が起きたの? わからない。早くて見えなかった。そう囁き交わす声を聞きながら、アズが手の甲で汗を拭いた。
「どうすればよかったか、わかるか?」
アズの問いかけに、テスは浅く頷くに留め、何も言わなかった。わかっていても、防御と同時に反撃に転じるなど、剣越しに伝わるアズの手の力はそれを決して許さない。刃と刃が触れ合う。それだけで、負けが決するのだ。
「もう一回やろう」
距離を取るアズの背を見ながら、テスは額の汗を拭った。夜気が恋しかった。締め切られた訓練場は、風がないだけで気温は十分に低いはずなのに、冷たい水が欲しい。二人は再度正対した。
中段の構えから始まり、今度はアズのほうから動いた。今度はもっと早く決着がついた。両手剣が振るわれ、打ち鳴らされる音が二度。剣と剣が触れ合う膠着の状態から抜け出そうとテスが剣を引いたとき、アズの指がアズの剣の鍔を掴んだ。直後、試合終了の鉦。アズの体、その質量と熱気を真正面に感じ、代わりに両手からは剣を握る感触が消えていた。
剣は空を切り、驚きぞよめく年少の弟子たちのほうへと回転しながら飛んでいった。そして、盛大な音を立てて鍔から壁にぶつかり、床に落ちた。
まただ。
テスは立ち尽くしたまま奥歯に力を込めた。
アズの動きはわかっていたはずだ。アズが自分の剣の鍔に指をかけたのは、テスの剣をテスの両手から弾き飛ばすためだった。自ら膠着を解き、自分の剣の刃の根元をテスの剣の鍔の下側に当てる。そして、鍔を掴んで支えていないほうの手で自分の剣の柄頭を掴んで引き倒し、梃子の原理でテスの両手から剣を引っこ抜いたのだ。
これはテス自身も習得している剣取りの技であり、当然対応できて然るべきであった。だが、できなかった。アズがあまりに早過ぎたからだ。
同じ師につき、同じ技を学んだからこそ、単純な強さが物を言う。
「テス」
アズの声で我に返る。弾き飛ばされた両手剣を眼前に差し出されていた。
「休憩にするか?」
年少の弟子の誰かが拾ってくれたのだろう。テスは左手を伸ばし、アズの手から剣を受け取りながら、「いや」、と応じた。
「あともう少し」
「俺も疲れた。それにこの後はイスタル一門が使う予定なんだ」
アズは怖い。
その強さが怖い。
優しさまでもが怖い。
「まだ慌てる必要はないぞ」鉦を持つオーサー師が告げた。「休憩を挟まんならな。集中できんなら
「いいえ、オーサー師」
テスは答えて、アズと向かい合う。向き合ったまま互いに後退し、適切な間合いを取った。
正対。
アズは怖い。
緊張を
※
「市内で事実として広まっている通り」
自警団長グザリア・フーケの硬い声が会議室に響いた。石造りの広い部屋の後ろに、七人いる武術師範の一番弟子たちが集められていた。時折こうして、七人の最優秀の門弟たちは末席につくことが許される。三十歳で特殊部門を卒業した後を見越してのことだ。
「南トレブレンを占拠する日輪連盟軍の指揮官は、中トレブレン攻略に消極的であるとして上流部隊から召喚令を受けていた。処刑を恐れた件の指揮官は月環同盟側に寝返り、中トレブレンに立てこもる南西領陸軍部隊と合流して連盟排除に乗り出した」
皆がわかっている通りのことを、グザリアは苦々しく告げた。
「トレブレン地方の月環同盟軍は、トレブレン–コブレン間道路を奪還した。間もなくコブレンに入城する」
この街に陸軍が駐屯するのだ。それも、現時点での陸軍本部からは反乱者と見做され、征伐の対象となった、行き場のない将兵たちの部隊が。
「月環同盟軍側の指揮官はカーラーン・ダーシェルナキ。十六歳。男性。投獄された前総督の第四子であり次男。指揮官について判明している事実は以上」
「その人物の戦績などは伝わっておりませんかな?」
「ダーシェルナキ公爵家には有名が多いがな。この弟は完全に長女と長男の日陰にいる」
「長女シルヴェリアは不用意に民衆の恨みを買うような人物ではなかったようですが」運営委員の一員が顔をしかめた。「弟にもそうであってほしいものです」
カーラーンという若者とそれを支える将官たちが、市民に金を差し出させるために、市民をコブレン防衛に駆り立てるために、何をするつもりなのか。彼の動きは今のところ全く読めていなかった。
「戦争の落とし所が見えてくるまで月環同盟がコブレンを死守できるならそれはそれでいい」
だが、日輪連盟軍がコブレンを奪い取ったとき。
月環同盟に加担したとして市民と自警団にどのような裁定を下すのか。
無駄な流血を避けるために、月環同盟軍の支配下でどのように立ち回るべきかが議題だった。
駐留軍がコブレンの市議と市民に対しし得る要求は何か。考えられる限りのことが発言され、書記が書き留めていく。その一つ一つに対し、従順ないし非従順がどのような結果を招き得るか。逆に戦局が日輪連盟優位となったとき、従順ないし非従順の結果が何をもたらし得るか。月環同盟軍の兵士が市民に危害を及ぼすのに出くわしたら、または市民が庇護を求めてきたらどうすべきか。
白熱し、険悪になり、団長が仲裁し、再び白熱する。意見が卓上を飛び交う様子を、アズはただ見つめていた。
特殊部門や治安部門の仕事こそがコブレン自警団の本領であると、ともすれば当の団員でさえ思いがちだ。だが違う。一番大切で難しいのは、一つの組織を運営していくことだ。日々鍛錬し、強くあろうと務めることなど最低限の条件であり、努力の内にすら入らない。
アズは焦燥感を押し殺した。
俺は努力が足りていない。
コブレンという現場を知り尽くすには特殊部門の仕事で十分だ。だが、このように広い視野が必要とされるときのための勉強は、まだ何も足りていない、と。
左隣に座るミスリルが、指で軽く
「月環同盟軍側が『月』の一件を知らないと考えられないのだから、まずはその件を釈明し――」
『おい、今の聞いてたか?』
ミスリルが声を出さず、口の動きだけで尋ねたら。
『すまん。考え事してた』
『俺たちは『月』をタルジェン島まで運んだところまでは正直に釈明しなきゃならんらしいぜ』
アズは浅く頷く。ミスリルの一つ向こうに座る、垂れ目の、いかにもおっとりした感じの女が背中を傾けてアズを見た。
『だけど、姿が変わっただけで、『月』はまだこの街にありますものね』
ミラ・イスタル。女性暗殺者の育成を専門とするイスタル師の一番弟子で、どこにでも潜入できるよう、淑女としての振る舞いを身につけている。このいかにも穏やかで優しそうな女性の姿は、本性を知らなければ、荒れがちな会議の場に似つかわしくないとさえ思えるものだ。
『マナを見て『月』だと思う奴はいないさ』
ミスリルの目が鋭くなる。
『だけど俺たちはタルジェン島で理解できない経験をした。っていうか、マナが存在するって形でその経験は現在進行形だ。俺たちは既に何が起きるかわからない条件下に置かれてるんだ。戦争とは別の次元でさ』
『あの子のことは、取り敢えず月環同盟軍の目から隠し通せればいいわ』
『歌流民の目も欺けるか?』
『あの子が来てから星獣と星獣使いにおかしな変化は起きていないわよ。それなりの数が出入りしたはずだけど』
そう。マナは、星獣と星獣使いの歌に対して今のところ無害だ。だがそれは、こちらに予測できる異変の一つを引き起こしていないというだけに過ぎない。
予測不可能なことはいくらでも起こり得る。
ミラが本当は何も楽観視していないことは、栗色の瞳に落ちる影から十分に伺えた。
※
テスの体に当たる直前、アズはレプリカの剣を止めた。鉦の音。どきりとしたが、どうにかテスの体に剣を当てずに済んだようだ。訓練に怪我は付きものだが、相手に絶対に怪我をさせないのがアズの信条だった。
だというのに、あろうことか手合わせの最中に他ごとを考えてしまった。
アズはゆっくり息を吐き出しながら、切っ先を床に下ろした。
彼が心ここにあらずの状態だったことを、テスは知る
手合わせをすれば、アズは最初と最後に一回ずつ勝たせてくれるのだが、実力で勝てたことは数えるほどしかない。
一番弟子の座を勝ち取るのは、訓練で勝率六割に達しなければいけない。
アズには勝てないと、テスは思っている。
勝ち取りに来て欲しいと、アズは思っていた。テスがアズを慕うように、アズも兄弟子のテセルを慕っていた。憧れていた。背中を追っていた。だからいつも本気で挑んでいた。
そして、テセルに勝てぬまま、あの事件が起きてしまった。
誰が実力を認めようとも、どんな言葉で慰められようとも、一番弟子の座を実力で勝ち取ったわけではないという事実は変わらない。テセルが廃人にされたから、序列二位だったアズが自動的に椅子を引き継いだだけだ。
「オーサー師、時間は大丈夫ですか?」
鉦を持つ師を振り返れば、オーサー師は白い口髭の中で唇を動かした。
「あと一回にしておけ」
オーサー師の向こう、壁際に、ミラとレミが並んで立っていた。
「テス」
ただならぬものを感じ取ったのだろう。弟弟子の顔の表面を緊張が覆った。
「聞いただろう、あと一回だけだ」返事をする間を与えなかった。「全力で来い」
テスにはそんな思いをさせたくない。
アズがトビィと共に弟子を卒業するまで、あと二年と一ヶ月。自動的に一番弟子の椅子に上がる前に、勝ち取ってほしい。勝ち取りに来てほしい。その一心だった。
その日の手合わせの最後、アズはテスに勝たせてやらなかった。