新世界
文字数 3,367文字
コブレンには
青空が薄氷さながら砕けて降り注ぐ中、ミスリルは鱒のことを考えていた。鱒が三尾、配達された日の夜を覚えている。子供のテスが浅い
テスが言う。
『明日になったらみんな食べられる』
そんなことなどつゆ知らず、一尾の鱒がしなやかな尾びれを振った。
鱒には養殖場の池だけが世界の全てだった。
水面を割って世界に入り込んできた網を鱒はどう解釈しただろう? 掬いあげられることを、運ばれて、狭い盥に入れられることを?
鱒にはわかるまい。何が起きたかなど。起きるままを受容するまでだ。
暗黒に呑まれ、リアンセに覆い被さるミスリルは笑い出したくなる。まさかこの状況で鱒のことを考えてるなんて誰も思わないだろうな。ああ、そうさ。俺が考えてることを知ってるのは俺だけだ。生涯。でもアエリエには言ってみたい――もしも生き長らえるなら――『あのとき、俺、鱒のこと考えてたんだ。お前は?』
実際に笑っていた。声は出さなかった。ただ鱒が、鱒には理解不能な世界で腹を切り裂かれ内臓を引きずり出されたことを思い、同じ事態が我が身に降りかかるのをただ待った。
誰が俺を食う? 俺は美味いか? ハッ! 中毒で死ね。道連れだ。毒のことを思う。見習い時代、味見の分量を間違えたがために一発で覚えた鉱物毒。鉛。
けれども死はこない。僅かな痛みすらない。リアンセを庇っているけれど、降り注ぐ空は刺さらない。体の下に、腹這いになったリアンセの背中が呼吸に合わせて膨らんだりへこんだりするのを感じる。全く乱れのない呼吸だ。彼女は平常心なのだ。ミスリルは感心する。そして、どうか俺もそうであるようにと願う。
この暗黒はいつまで続くだろう。
永遠にか。
それとも頭を上げた者から
だがどちらでもなく。
不意に全ての見せかけだけが元に戻る。
冬の朝、快晴。この惑星を包み込む天球儀の半透明の網目。森、地面。リアンセ。
ミスリルはリアンセから離れ、緩慢な動作で膝立ちになる。死ななかった。とりあえずは。でもわかる。
明日になったらみんな食べられる
のだ。先に立ったのはリアンセのほうだった。彼女がピンクゴールドの髪を背中に払い、迷いのある動作で服の土をはたき落とすのを見ながらミスリルも立ち上がった。
互いに困惑に満ちた視線を交わす。
今の何?/今のは何だ?
だが二人とも、そんな質問を口に出す間抜けにはなりたくないので黙っている。
ミスリルにはわからない。だが本質は理解できる。
変わったのだ。
鱒が池から移されるように、別の場所に連れて行かれた。
ここはもう違う世界だ。
二度と戻れない。
※
壊れた太陽の語歌。
月が欲しいと願えども。
(第一部)
おお、闇の凍原! 日没の大陸、闇夜の王国よ。いかなる
太陽の王国。千年の真昼が続くその地から、太陽が遠ざかりつつあった。民は一人また一人、影の中にとけていった。ほどけて消えた死者のすすり泣きが宵闇の大地を満たした。凍てつく風が吹き荒ぶ王宮では、国中の賢者たちが日々議論を戦わせているものの、太陽を天に引き留め
王国の北の城に、囚われの姫が暮らしていた。望まぬ婚礼の日を待つ姫君は、空に焦がれていた。姫は逃げゆく太陽を惜しみつつも、白い輝きを強めながら満ち欠けする月を愛するようになった。
姫は窓辺に歌う。
『太陽よ、あなたは遠い幻になろうとするのですか。
月よ、あなたは遠い幻から現実になろうとするのですか』
夕闇に乗じて白の高い塔をよじ登る騎士が一人。彼は姫君の部屋に着き、
『月を愛する者が必要です。
知恵ある神官のところに行きましょう。
彼は死んだ者として世から隠れ住んでいる。
彼ならば、月が
※
「マナ?」
そのときをシオネビュラ市街で迎えたアエリエは、鼻をつままれてもわからない闇の中で左手に力を込めた。手は繋がれたままだった。マナが握り返す。
「大丈夫だよ。ここにいる」
右手には槍を握りしめているが、その槍を誰かが触っている。手が当たった。大人の手。ミサヤだ。
「ゾレア?」
彼女はもう一方の手で歌流民の少女を探しているのだろうか。ゾレアは返事ができない。
いや、できた。ハミングで。ミサヤはゾレアを捕まえた。見えなくても気配でなんとなくわかった。
自分たちのたてる物音と声以外は聞こえない。手を離したら永遠に離れ離れになってしまいそうだ。だが、ミスリルの頭上で闇が晴れたように、アエリエの視界も開けた。
突然の光には、強く体を押してくるような圧があった。瞬きをすれば、そこはもとの市街地だった。
違う、と、アエリエは確信した。何が違うかわからない。だが、確実に違う。
ここじゃない。胸に痛みを感じるほど強烈な感情に貫かれ、アエリエは立ちくらみを堪えながら奥歯を噛み締めた。その感情は、寂しさだった。
おかしな話だ。マナもいるのに、どうしようもなく孤独なのは何故だろう?
確信のせいだ。
私たちの場所はここじゃない、という。
足の裏に意識を集中し、石畳の下の大地のエネルギーを感じようとしながら、見たものについてゆっくり反芻する。
空に暗黒が見えた。それが押し寄せてきた。青空は暗黒をおしとどめられなかった。空の青はきらめきながら砕けて落ちてきて……他に何を見た?
今一度空を見ようとした。だが直前で思いとどまって、周囲の人に目を配った。
誰もが空を見ていた。
呆けて。悲しげに。
子供みたいに。
隣のミサヤを肘でつついた。すぐに反応があった。顔が向けられたが、アエリエは目を合わせもしなかった。
「行きましょう」
マナの手を引く。率先して足を踏み出す。よそよそしい世界で――きっと人間を祝福していない世界で――走り出す。マナも足を動かした。ミサヤとゾレアもついてくる。一人また一人、騎士たちが顔を天から市街地に戻す。
悟った顔だと思う。孤独で、無力で、縋りつく相手がいないことを理解した顔だ。コブレンで数限りなく見た、虐げられた子供の顔を大人たちがしていた。その顔で、アエリエたちを見た。見られて当然だ。まだ意志を保って走り続けているのだから。
誰も追ってこない。
辻へ。
次の辻へ。
アエリエもまた悟った。違和感の本質がわかったのだ。
技術だけが優れたつまらない絵を見たときと同じ、薄ら寒い感じ。失われたのは、今までの世界を背後から支えていた命のエネルギーだ。あの街路樹は、春になっても二度と若葉を出さない。今咲いている全ての冬の花は、花弁を散らしたら種さえ残さない。家畜は子を産まない。鳥は雛鳥ごと巣を放棄し、空から落ちてくる。
新しいものは生まれない。
今あるものが死んで、おしまい。
さよなら。
終わりだから。
それでも、徐々に人が正気を取り戻し始めた。駆け抜ける街並みにエネルギーが湧き出てくる。声。熱。動き。感情のエネルギー。
「止血を!」
ああ。意志の力だ。
「道を開けて!」
「この人を優先しろ」
「騎兵は東通りに回れ! アレを絶対に食い止めるんだ!」
人間が同胞を助けようとする、意志の力。
負傷し、呻きながらも生きようとする意志の力。
大丈夫だ。人と人との間に意志と善意が働く限り。まだ、大丈夫。
今はまだ。
「待て、アレはもう北に移動してる!」
衛生兵が一人、手を止めずに叫んだ。アレが何かはともかくとして、北? 北はどっち?
「アエリエ」
切迫したミサヤの低い呼びかけで察した。進行方向だ。
ミサヤが追いつく。ゾレアは息も乱さずに、軽やかについて来ていた。守るべき少女を連れた二人の大人は目配せし合う。
進路を変えるか。どこに?
だがほどなくして四人は立ち止まる。
『アレ』と呼ばれていたものに、行きあたったのだ。