わざわざ殺すほどの価値
文字数 2,961文字
あれから一ヶ月。ハルジェニク・アーチャーをお払い箱にしたマグダリス・ヨリス少佐は、ハルジェニクの前から姿を消したきりだった。都で行われた戦闘の痕跡はあらかた拭い去られていた。誰もが生きていかなければならない。都市には日常が戻っていた。
幸い、季節は冬に向かう。戦争には向かない時期だ。冬の長い眠りの間に、戦争回避に向けての動きがあるのではないか。誰も口にしないまでも、行き交う人の目許口許にはそんな期待がある。
市場を覆う水色の空には、昼過ぎから斜陽の気配が黄色く滲み始める。秋の陽光は、広場の中央に立つ楓の葉を赤く染め、その影を少しずつ広場の端のほうへ伸ばしていく。
やがて風が冷たくなり、キャンバスを置くスペースにまで楓の影が届くと、ハルジェニクは絵筆を止めて椅子を引いた。背もたれにかけたマントを取る。その動きに、背中合わせに場所を取っていた絵描き仲間がハルジェニクを振り向いた。何が面白いのか、歯を見せて笑いかけてくる。
二人とも、今日も一枚も絵が売れなかった。空は暮れなずみ、透き通る天球儀はほのかな白みを帯びつつある。売り上げの
「何だよ?」
ハルジェニクは不機嫌に突っかかった。
「昨夜は聞かなかったぜ」
この若い同業者は画学生で、僅かながら親の仕送りがある。その金で借りた集合住宅には、毎晩のように、逃げ惑う男女の金切り声と最期の声が聞こえてくるそうだ。
ハルジェニクは一層いやな気分になった。
「そいつはよかったな」
軍内部で粛清が進んでいるのだ。
「誰だって明日は我が身だ。せいぜい気をつけろ」
「俺は陸軍なんかと関わりあっちゃいないぜ?」
「
「それが殺されるほどのことかよ」
ハルジェニクは黙り、絵筆と絵の具を鞄に放り込み始めた。話し相手の同業者は、もっと手早かった。キャンバスを脇に抱え、蹴飛ばすようにイーゼルを畳むと、画材を入れた袋を背負って大通りへ去って行った。
そんな二人の絵描きの様子を、外套を着込んだ男が楓の陰から見つめていた。歓楽街は今から稼ぎどきだ。広場は陸軍工廠のある鍛冶屋街と歓楽街のちょうど中間に位置している。仕事を終えた労働者たちが、ぼちぼち姿を見せ始めていた。だが誰も、男の手にあるダガーにまだ気付いていなかった。
一人残って片付けをするハルジェニクの手に、白い液体が落ちてきた。鳥の尿だ。羽音を立てて、一羽の鳩が頭上を過ぎ去った。頭上を睨みつけ、何気なく鳩の動きを目で追ったハルジェニクは、楓の陰からこちらを見つめる一人の男に気がついた。
男は風のように、ふわりと走り出した。空に残る光を集めて、刃物がきらめいた。腰を低く落とし、右手にダガーを握りしめ、左手を柄頭に当てている。全体重をかけてダガーを敵の体に押し込むための、殺し屋の刺突の構えだ。それが疑いようもなく己に向けられていることを、ハルジェニクは瞬時に認めた。
マントを後ろになびかせて、音もなく迫ってくる暗殺者を前に、彼は立ち尽くしたままで、ヨリスの言葉を思い出していた。
『アーチャー家の誰が君に暗殺するほどの価値を見出しているというんだ?』
冗談じゃないぞ。
近付いてくる男の姿は、走っているようには見えなかった。ハルジェニクの目には、それは、複数枚の非常によく似た絵のように見えた。楓の木を背景に、奇妙な姿勢で立つ男の絵。背景は変わらず、男の姿だけが大きくなるのだ。
それと視線を合わせたいなどとどうして思うだろう。死を免れたのはただの幸運だった。手を伸ばせば届くという距離で、腰が引け、そのまま膝が砕けてハルジェニクは横様に倒れた。そのハルジェニクに
たちまち周囲の視線が集まった。ハルジェニクは広場の石畳を這う。這いずり、ようよう立ち上がり、走り出そうというときに、足首の腱を狙ってダガーが振るわれ、空振りしたのを確かに感じた。
当然誰もハルジェニクを助けず、声もあげなかった。ただ巻き添えを食らわずに済ますべく、口々に呪いの言葉を吐きながら道の脇に後ずさった。
歓楽街でもなく、鍛冶屋街でもなく、貧乏学生の下宿が並ぶ方向へとハルジェニクは身を低くして駆けた。逃げ込む当てがあるわけではなく、目の前に伸びる道がそれで、且つ土地勘のある方向だったからだ。
その道は、逃げる者にも追う者にも都合のいい下り坂だった。ハルジェニクは絵描きである。出自のゆえに陸軍関係者から目をつけられたりもするが、ただの絵描きである。神官の名家の嫡男として幼少より武術を嗜み、いずれ神官将として戦場に立つべく教育を受けたのだが、既に昔の話だった。十九のときより十年近くも、何ら鍛錬していない。そこへきていきなりの実戦。殺し屋は足が早かった。道行く学生、酒を抱えた学生、悪友とつるみ歓楽街へ向かう学生、戯れに喇叭を吹き鳴らしていた学生、家賃の支払いを待ってくれと大家の玄関口で頼み込んでいた学生と大家、大声で互いの悪口を言い合っていた学生、教授、銀行家、借金取り、武闘家、病人、医者、宗教家、みな足を止め、口をあんぐり開けてハルジェニクと追跡者を見た。
ハルジェニクは急に方向を変え、既に酔いどれている学生を突き飛ばして路地に駆け込んだ。入り組んだ路地だ。もし相手に土地勘がないならば、距離さえ稼げれば逃げ切る見込みはある。
苦しくて顎をあげると、薄紫の空には星と天球儀が優しく光っていた。振り向けば、ちょうど路地に暗殺者が飛び込んできたところだった。距離は十歩もない。
ハルジェニクは雑然とした路地で、樽を倒して暗殺者のほうへ転がした。それがどうなったか見届けず、カーブに入り、最初の分岐を曲がる。
折りよく屋根の補修中の家があった。壁に立てかけられた木材を倒し、さらに逃走。
次の分岐を超え、振り向けば、暗殺者はなお音もなく追ってきていた。
喉から恐怖の叫びが
ハルジェニクは逃げながら、手当たり次第に物を後ろに投げ続けた。石。瓶。鍬。箒。火かき棒。煉瓦。猫まで投げた。彼の現在位置は、
裏で薬物を扱いながら情報を陸軍に流しているその酒場には、今は無愛想な店主の他に、もう一人、女の姿があった。この店の客となるような種類の人間ではない。輝くばかりのコーラルピンクの髪と、健康的な体。顔には生気があり、私服だが、腰には官給品の片手剣を下げている。右手にはグラスがあった。
「遅いなあ、ハルジェニク」
女はカウンターに背中をつけてもたれかかり、深く溜め息をついた。
「ねぇ、いつもなら帰ってくる時間なんでしょ?」
店主は答えず、開店時刻を告げる街の鐘が鳴り響くのを待っている。
「どうしちゃったのかなぁ?」
女は再度の溜め息。
「もしかして、案外ヤバイ筋に命を狙われてたりして」
その軽口には店主の忌々しげな声が応じた。
「酒代はもらうからな、プリス」