ゼフェルの後継軍
文字数 3,786文字
そんな壊滅的に字が汚いヨリスが公式の書類を書かなければならないときは、副官のミズルカ・ディン中尉が代筆を願い出た。上官の心を傷つけないよう、是非やらせてほしいと徹底的にへり下り、だが有無を言わさぬ勢いでその代筆を請け負った。
「ヨリス少佐、その程度の雑事はどうか副官にお任せください。少佐のお考えは私のほうでまとめておきますから、お時間があるときに見直していただけたらと思います」
何故ここまでするのか。
ある日ミズルカは連隊長の大佐がヨリスに向かってこう言うところを想像したのである。
『君、もう少しきれいに書けんのかね』
場面を想像しただけだ。しただけで、ミズルカは怒りと恥辱のあまり全身の毛穴という毛穴が開き、髪が禿げあがりそうになるのを感じた。そして、万難排して俺が少佐を守るのだと決意した。それくらい、ミズルカはヨリスを(上官として)心から愛していた。
第一公女の親衛連隊に配置換えとなったとき、ヨリスは二人だけ部下を連れて行くことが許された。ヨリスが選んだのは、一人は妻のユヴェンサ・チェルナー。もう一人は副官のミズルカだった。
今、ミズルカはぼろぼろの衣服をまとい、街頭に出した小さな椅子に腰を下ろしていた。近くの壁にはイーゼルを立てかけ、『代筆引き受けます』。
上官を失い、所属の部隊も失った彼の今の仕事がこれだった。
字の読み書きができない人の口述内容を筆記するのが代筆屋の仕事であるが、字が読めない人にむけて文字で立て看板を出しても仕方がない。ミズルカの仕事はもっと別のことだ。
彼は冬の晴天の下で幸せそうに身を寄せ合う若い男女を視界の端に捉え続けていた。燦々とそそぐ陽光に祝福されながら、男は甘い言葉を耳に囁き、背の低い、栗色の髪の女をかき抱く。
そうしながら、腰帯に手を入れて、何かを差し込んだ。
二人は笑い合い、口づけをかわして別れた。男は西に、女は東に道を歩いていく。
男のほうが目の前を通り過ぎてから、ミズルカは音もなく立ち上がった。ペンや墨などの仕事道具が入った鞄もそのままに、女の後をつけて行く。女は緑色のガウンを直すふりをして、さりげなく背中の腰帯に手を入れた。ハンカチを抜き出すと、それを帯と腹の間に挟み直した。
日輪連盟の武装商人たちが襲撃されて以来、都は見せかけの平和を取り戻していた。商人たちは今のところ普段通りの商いをし、アランドの発令に従って、街路では武器を帯びていなかった。
市場通りの両側には絨毯や
人混みの中、女はしばし立ち尽くしたが、深緑色のガウンの前を合わせながら体の向きを九十度変えた。ミズルカは緊張して立ち尽くした。いけないと思いながらも、尾行対象の女から目が離せなくなる。
だが、幸いにも女はミズルカに気付かず十字路を曲がっていった。
ミズルカは息を吸い、ゆっくり吐き出すと、気を取り直して人混みをかき分けた。悪態をつかれたがそれどころではない。尾行対象を凝視するなど、気付いてくれと言っているようなものだ。次からは気をつけなくては。
角を曲がるだけで人の数は激減した。体感気温がぐっと下がる。そこは奢侈品を売る通りで、大陸中のワイン、貴金属細工、香りのついた蝋燭や石鹸がなどが天幕の下で売られていた。
古書を売る店を通り過ぎて女が足を止めた。香水商と言葉を交わし、紫がかったピンク色の香水瓶を買う。その香水商の前を通り過ぎるとき、ミズルカはしっかりと商人の顔を覚えた。
女は風で暴れるガウンとスカートを押さえながら、日の当たる通りに建つ一軒家に入っていった。小さいが高級感のある家で、女が姿を消すと、扉の向こうから、すぐに鍵を閉める音がした。
何気ない様子で家の前を通り過ぎながらも、ミズルカの目は油断なく周囲の様子を探っていた。裏口を探すのだ。
※
二つ、ミズルカにとって幸いなことがあった。家に使用人がいなかったこと。女の暗号解読に時間がかかったこと。
「差出人は誰だ?」
足音を立てずに板張りの廊下を渡り、ミズルカは一つの部屋の戸の前で片膝をついた。鍵穴に耳を近付け、神経を集中する。もちろん人に見つかれば命の保証はない。
戸の向こうの壮年の男の声に続き、女が答えた。
「第七監獄のレネよ。地下三階に新型星獣の開発技師団が捕らえられてるって」
「何だって?」
声の主と同じく、ミズルカも動揺して息を詰めた。
「何故そんなことに」
「レネによれば、技師団が投獄されたのはアランドの粛清が行われた日の夜……『都解放軍』が粛清潰しを行った日ね」
「どさくさに紛れて拘束したか」男が部屋を歩き回る足音。「しかし誰の命令で?」
足音が戸に近付くたびに、ミズルカの脈拍は上昇した。廊下の突き当たりにはガラス窓がある。いざとなったらそこから飛び出すしかない。
「第二公女エーリカがコブレン巡察に赴く前に市民向けに言ったことを覚えているかしら」
だが、今は逃げるより話に集中するのだ。
「この冬を乗り切るために最善を尽くす――」
「エーリカは
「そんなことは子供でもわかる」
「けど実際、エーリカの外交手腕は未知数。彼女はカードを手に入れなきゃいけない」
「技師たちを拷問するのかね」
「エーリカは手段を選ぶ人間のはずよ。でも地下三階収容ってことはそれもあるかも。ただの威圧だといいけれど」
「威圧じゃなかったら? エーリカはリジェクと手を切るつもりか?」
「リジェクのよりもっといい星獣を開発できるアテがあるならそうするかもね」
「だがリグリー、リジェク市と北ルナリア市は南西領内で最初に日輪連盟に加盟した都市だ」
「誰も恩義に思っちゃいないわ、南西領の中部と北部の大方が連盟に加盟した今では」
「混沌が深まるだけだ」
エーリカがリジェク・北ルナリアへの援助を打ち切るということは、その成果物が気に入らなかったということになる。だが成果物の新型星獣は、一夜にしてコブレンを攻め落とすという戦果をあげた。
つまり、強すぎるから気に入らないということか。
ミズルカは生唾をのむ。
そのとき体に力が入り、膝の下で床板がギシッ、と鳴った。
息が詰まる。
だがちょうど、同じタイミングでリグリーと呼ばれた女が喋り始めたので、音はかき消された。
「リジェク神官団の協力者たちは順調に殺され続けてるわ。リジェクは孤立していく。新型星獣を次に手に入れるのがどの勢力か誰にもわからない。エーリカ……いえ、アランドの新総督家か、日輪連盟軍内の他の勢力か、月環同盟か、その他の諸侯。わかる? コル。全ては私たち『ゼフェルの後継』が望むのと別方向に進もうとしてるって」
「わかっている」
男は明らかに苛立っていた。
かつて異端として激しく弾圧されたゼフェルの後継は、その宗教的性質こそ薄まっているものの、今なお過激な反戦主義者の集団として大陸中に散っている。そしてここ南西領
都での流血を最小限に抑えるために、彼らの暴走は何としてでも食い止めなければならない。それもまたミズルカの使命だった。
「星獣を……」
小柄な女リグリーがペンを置く音がした。
「今や星獣を征する者が大陸を征するの。その先に平和はない」
「技師団を救出できないか。エーリカが都に戻ってくるより早く」
「そんなの現実的じゃない。じっくり準備しないと。気をつけて。私たちも今数を減らされるわけにはいかないの」
「時間をかけることができるなら」
コルと呼ばれた男の声音が低くなる。
「総督府は年末の星獣祭を強行すると今朝発表したが、聞いたか」
「あら。今聞いたわ」
「恐らく総督府は
「星獣祭で何をするつもりなの?」
「新しい星獣を手に入れたいと総長に申し入れよう」
「それが都に集まるとは限らない。エーリカがリジェクの後援を下りるならなおさら――」
「やるんだ!」
コルの声に暗い熱意が剥き出しになる。リグリーが息のんだ。
「もしその日、我々が星獣を手に入れることができるなら、我々こそが永遠の平和のためにそれを活用できるなら」
不穏な沈黙。
ミズルカは、扉の向こうでリグリーがどんな顔をしているか目に浮かぶようであった。
だがコルは何ら気にせず断言した。
「星獣祭で血が流れることになろうとも、その出来事は戦争をとこしえに否定する素晴らしい象徴となるんじゃないかね、リグリー?」
そのとき、階下で誰かが玄関扉を開いた。
扉を離れる。その直前、反戦主義者が確かにこう発言するのをミズルカは聞いた。
「我々には星獣兵器が必要だ」