敵しかいない
文字数 3,854文字
リージェスはすかさずリレーネの首に腕を回し、彼女の顔面を自分の膝に押し付けるように伏せさせた。
遅すぎた、と思った。
だが矢はリージェスにもリレーネにも当たらず、星獣の背にある柵の外側の空気を切り裂いて、ゴミ山に吸い込まれていった。
ゴミ山で爆発が起きた。
破裂音が耳を
「やめろ!」
リレーネを伏せさせたままリージェスは叫んだ。
「俺たちを殺す気か? 何が望みだ」
明瞭簡潔な答えがすぐに返ってきた。
「娘をこちらに
低いが決してくぐもってはいない、大声でなくてもよく通る声だった。一際強い風が吹いて、男の背中に垂れる三つ編みの髪とマントを浮き上がらせた。
リレーネがリージェスの腕を首からどかした。二人は困惑した目線を交わし、男に顔を向ける。
返事をしたのはテスだった。
「そんな一方的な要求には
「応えることとなろう」
「彼女を渡して、どうする――」
それは完全な不意打ち。
鞍に
激しい金属音。
両者とも目にも留まらぬ
テスは動揺を見せずに立ち上がり、腰の半月刀に左手を置く。
「形勢が不利なのは認める」
喋る速度は遅いまま。だが声には制御された殺気が滲んでいた。
「でも要求を呑むわけにはいかない。彼女をどうするつもりだ」
恐ろしい相手なのだ、と、リージェスは理解した。あの剣士も、テスも。
「交渉するつもりはない。死か、娘を渡すかだ」
「やめろ――」
「おやめになって」
凛とした少女の声。
「私が行けばよいのですね?」
「リレーネ、よせ」
「行かなければ」両膝をついた姿勢のままリレーネは答える。「あの方にそのつもりがなくとも、星獣は落ちますわ」
「俺も行く」
「駄目だ」連弩が星獣の首に向けられた。「その娘だけ来い」
「リレーネ」
その耳に囁いた。
「必ず助けに行く」
リレーネは微笑むが、あまりあてにしていない雰囲気であった。テスは半月刀を抜き、一切気を緩めずに男を見下ろしていた。縄梯子が、剥き出しの骨組みとゴミ山の間、わずかに見える舗道の上に垂れ落ちた。梯子を下りるリレーネの重みで星獣がわずかに傾いた。リージェスは自己嫌悪した。こんなときにも転落死が恐くて仕方がないからだ。
リレーネは狭い足場で暫し立ち竦んだ。
リージェスは剣士を盗み見る。
「よせ」
テスが振り返らずに囁く。リージェスは忠告に従って動きを止め、一方のリレーネは、ゴミの斜面に身を寄せながら、震える足で細い通路を歩き始めた。
今強い風が吹いたら。
今ゴミ山が崩れたら。
まさか。
今に限ってそんなことは起こらない。起こってたまるものか。リージェスは神に祈る男ではない。代わりに誓う。もしそのようなことが起きたら、あの見知らぬ剣士を絶対に許さない。
復讐してやる。リレーネにもしものことがあれば、必ず殺してやる。
剣士はリレーネのほうへ、細い骨組みの上を歩き始めた。なんなら踊りながらでも渡れそうに見えた。テスは二人を見下ろしながら、昼星の温かそうな翼の下に右手を差し入れる。リレーネが前に手を伸ばす。骨組みから舗道に移った剣士は、連弩を星獣に向けながら、大股でリレーネへと歩み寄った。
そしてサーベルを収め、リレーネの手首を掴んだ。
テスが昼星の耳に囁く。
剣士はリレーネの手首を掴んでいきなり走り出し、リレーネは驚き叫んだ。既に彼女は剣士の背後を守る盾にされていた。
「行け」
飼い主の命令一下、昼星がふわりと舞い上がる。
と、剣士が振り向いた。
連弩を発射。
ゴミ山で爆発が起きた。骨組みが震え、星獣が姿勢を崩す。
「リージェスさん!」
悲鳴のような声は、たちまち崩落するゴミの
轟音と振動が小さくなっていき、生き延びたことを恐れながら確かめると、テスもまたリージェスと同じような姿勢でこの崩落に耐えていた。目が痛い。埃で全てが霞む中、二人は瞬きしながら中腰の姿勢になった。
星獣は持ちこたえたが、道は塞がった。
あの男、
「戻ろう」
マントの布地を持ち上げ、口を押さえながらテスが言った。リージェスは無意識の内に首を横に振った。
「後ろ向きに歩かせるのか?」
勘弁してくれ。
星獣をこのままにしてゴミの山に下り、よじ登るという手段もあったかもしれない。雪崩が起きる前までは。リージェスはゴミもろとも斜面を滑り落ち、深い谷間へ死の転落を始める自分の姿が想像できた。
だが、ここでぐずぐずしていたらもう一度雪崩が起きるかもしれない。
テスは黙っている。
「……そんなことできるのか?」
「試そう。俺が歌う。後ろを見ててくれ」
後ろを振り向いたリージェスは、そこにも退路がないことをたちまち思い知らされた。
鮮やかな赤い髪が曇天の下に映えていた。
星獣の後ろには、二人の兵を従えたゼラ・セレテス子爵が仁王立ちで立ちはだかっていた。
※
リージェスたちはミナルタまでの道を星獣によって踏破したのだが、その間、快適な移動のためには三人のうちの誰かが歌っていなければならなかった。これこそが星獣の最大の欠点。そう、単純に疲れるのだ。純然たる言語生命体の手による発明品であるにも関わらず、星獣が実生活において重要な位置に置かれないのはこのためだ。
だが、自ら歌う星獣なるものが開発されたなら、それは輸送の一面のみをとっても大規模な革新をもたらす。
「この市場を仕切る者なら手に入れられるはずだ」
ゼラは湯冷ましの入ったカップを丸テーブルに置いた。ガタつき、天板に亀裂が入った粗末な代物である。質素な暮らしに慣れたゼラが不快に思うことはなかったが。
それにしても隙間風が鋭く吹き込むので、宿屋にいても寒かった。
「ですが領主様、連中は普通の星獣すら扱っちゃあいませんが」
「表向きにはそうするだろうな。だがここの元締めは何でも扱う連中と聞く。そしてリジェクの開発した星獣が本当に革新的なものならば、月環同盟は何としてでも手に入れようとする。そしてミナルタは中立を隠れ蓑にできる」
「はあ」
民兵は短く刈り込まれた髪を
「ですが領主様、私は自ら歌う星獣なんてのがいるってぇ時点でそのう、信じられないのですが、どうして領主様はそんなことをご存知なんです?」
「それについてはいずれ話そう。今はついて来てほしい」
ゼラが兵士の目をじっと見つめて答えると、居心地悪く感じたのか、兵は椅子の上でみじろぎした。
民兵とて領民。指揮官とて領主。ゼラは民兵相手に威厳を持って接するが、不誠実に接っしたりはしない。父のようでありたいといつも願っているからだ。
「必ず話す。だが今はあの二人組だ。三人になったか」
「はい」
聖遺物の運び手。北方領から持ち込まれた『月』は言語子に働きかける力を持っている。
もしかしたら、自我の強いヒト型言語生命体にも作用を及ぼせるのではないか。
そうであれば。
ゼラの心に、助けを求めて屋敷に駆け込んできた哀れな男の姿が思い起こされる。結局彼は助けられなかったが、他の者たちなら、まだ……。
「ですが、本当にここに星獣を売りに来たりするんでしょうかねえ」
「それは賭けだ。だがもし来なかったとしてもミナルタ滞在は無駄では……」
誰かが廊下を駆けて来た。姿を見るまでもなく正体がわかった。ミナルタまで連れてきたもう一人の兵士が個室の薄い戸を開け放った。
誰が聞いているのかもわからないのに、兵士はこう大声で呼ぶ。
「領主様、来ましたぁ!」
ゼラは立ち上がりながら冷静に言った。
「領主様はやめろ」
そういうわけで、ゼラはリージェスたちに追いついた。ゴミ雪崩の音が聞こえたときは、彼らは死んだかもしれない、と思った。
だが、生きていた。
埋まった道で立ち往生している。
不衛生な
舗道はゼラの足許で崩れていた。ゼラはしばし躊躇したのち、骨組みに足を乗せた。
「領主様! お、おやめください……」
左の
次に、右の踵を左の爪先の前へ。
確実に、一歩ずつ進む。
リージェスが柵の向こうから振り向いたのはこのときだった。
彼らに言葉はなく。
絶句するリージェスに見下ろされながら、ゼラは