終末の光景(取引)
文字数 3,693文字
「痛くて眠れないって言われてもねえ」
薬屋は蝋燭の灯の中で、最後の客を追い出しにかかっていた。
「銭がないんじゃ、薬は出せないよ。うちだって子供を食わせてかなきゃいけねぇんだ」
関節炎に苦しむ不憫な客は、どういうわけだか薬屋にたどり着く前に財布の中身をすっからかんにしてしまったのだ。
別の場所。ダイニングで夫の叱責を受けていた主婦は、涙ぐみながら弱々しく言い返していた。
「あの子がどんなに木琴を大事にしてたか、私だって知ってるよ。でも、どうしてあんなことをしちまったかさっぱりわからないのさ」
家々の戸口では、せっかく飾られたリースが投げ捨てられ、オーナメントが踏みしだかれていた。風雪をものともせず、窓の鎧戸を開けて光を見ている人がいた。雪雲に滲む天球儀の光を。その視線は祈りに似ていた。
暗闇に座るエルーシヤは襟巻きをきつく首に巻き直した。夜になってから、雪が積もり始めた。彼女は民家の納屋に身を潜め、板壁の割れ目が隙間風に鳴る音に耳を澄ませていた。人の声は、祈りもすすり泣きも絶えていた。
誰かがやって来て、納屋を開けた。
ランプを掲げた女が一人。
干した蕪を取りに来たのかもしれないし、他の用事かもしれない。女は、納屋の隅で膝を抱えて寒さを凌ぐエルーシヤにすぐ気付いた。驚いて一声叫ぶも、すぐに冷静になった。相手が少女だからだろう。
「あんた、どこの子?」
エルーシヤは涙を拭いて顔を向けた。ドレスも、ケープも、もはや魅力を失っていた。手袋もハンドバッグも。
無言で見つめ返すエルーシヤに、女は歩み寄る。若いというほど若くはないが、三十代の半ばにはなっていない程度の歳の女だった。
「喋れないのかい?」
ランプを顔に突きつけられ、エルーシヤは頷いた。
「ふぅん……」女は少し考えて、ランプを引っ込めた。「そこで待ってな」
そう言って、納屋の中のものを何も手にすることなく出て行った。戸が閉まり、エルーシヤはまた暗闇で一人ぼっちになった。
あの女は、魔除けの灰を持って戻ってくるかもしれない。武器か。それとも自分の夫か誰かを連れて来るか。
力づくでエルーシヤをつまみ出すかもしれない。
その前に自分から出て行こうかと考える。にも関わらず、膝を抱えたままエルーシヤは動く気になれなかった。そのうちに、女が戻ってきた。
女は武器を持っておらず。誰も連れていなかった。
ただ、手に、湯気の立つスープ皿を持っていた。
狭い納屋の奥まで来て、エルーシヤの前に屈むと、優しげに玉ねぎのスープを差し出した。
「食べな」
スープにはハムのかけらが浮いていた。肉だ!
凝視を返すエルーシヤに、女は諭すように語りかけた。
「いいのさ、このスープだってご近所さんからのもらいもので作ったんだ。あんたに分けたところで
おずおずと手を伸ばし、皿を受け取るエルーシヤの背中を、女はそっと叩いた。
「元気出しなよ。あたしらはまだ生きてるんだからさ」
※
陽が昇る。白き都。雪かきされる陸軍士官男子独身寮の前の茂みで、エルーシヤはハンドバッグを抱えて座り込んでいた。モミの木は全ての枝に雪を乗せ、重さに耐えていた。人は寒さに耐えていた。他に、夜が短すぎたことや、この日中がいつまで続くかわからないことに耐えていた。真綿で首を絞められる日々に耐えていた。
やがて目当ての青年が独身寮の塀に沿ってとぼとぼ歩いて来ると、エルーシヤはその足許に松かさを転がした。
青年は私服で、物思いに耽っていたが、松かさが爪先に当たると、それが転がってきた経路を目で辿った。
そうして青年、ヴァンはエルーシヤと再会した。
ヴァンはエルーシヤに駆け寄って、言葉もなく手を取ると、モミの木陰に導いた。
「エルーシヤ! 大丈夫? 怪我はない?」
エルーシヤは青白い顔を伏せ、首を横に振った。目も伏せられていた。
「お腹は空いてない?」
ヴァンは燕脂のケープの上からエルーシヤの細い両肩に触れた。
「ずっと探してたよ」
エルーシヤは真新しくてかわいらしい手袋をした右手を上げると、ヴァンの胸に指で字を書いた。
『ごめんね』
「ううん、無事ならよかった。それより話そう。今まで――」
今度は強くかぶりを振り、ヴァンの言葉を遮った。長い黒髪が暴れてヴァンの手首を打った。
エルーシヤはずしりと重い左手のハンドバッグをヴァンに押しつけた。反射的に受け取るヴァンの手の甲に、またも文字を書いた。
『みんなのために使って』
「みんなって――」
留め具を開け、中にぎっしり詰まった貨幣を確認したヴァンは、言葉の途中で喉を詰まらせた。
頬が引き攣る。
顔色が変わるのが、ヴァン自身にもわかった。
眉が寄る。
声が低くなった。
「これ、どうしたの?」
さっ、と赤面し、エルーシヤは
「待って!」
一呼吸遅れてヴァンも走った。
「違う、責めたんじゃないんだ!」
エルーシヤの姿が角を曲がる。同じ角を曲がったとき、もうヴァンにはエルーシヤを見つけられなかった。
歌の力で姿を消したのだ。
ただ立ち尽くすヴァンの姿を、彼の同期の士官が訝しげに観察していた。
※
ヴァンとハルジェニクが川に飛び込んでエルーシヤと離れ離れになった後、ハルジェニクがヴァンを連れ込んだ酒場。
その二階の宿では、出産を終えた一人の母親がまだ床に伏せたままでいた。
その傍らには赤子が眠っていた。
窓から差し込む光は、赤子の崩れた体を照らしていた。
もとより手足はなく、臓器が収まっているべき腹と胸は大きくへこんでいた。その臍より下は、生まれた日からさらさらと砂となって崩れ続けていた。顔と呼べるものはなく、ただ口があるべきところに唇のない丸い穴があるだけだった。
体の左側を下にして横たわる若い母親は、力を振り絞って右手を赤子の胸に当てた。
心臓に
一階の酒場では、常連客たちがその母子について話し合っていた。
「父親は戻ってこねぇのかい?」
「戻りゃしないさ」酒場の女主人は顔をしかめて吐き捨てた。「戻って子供を引き取る甲斐性がありゃ、そもそも嫁を捨てて出てきゃしないだろう。あの男、あんなのは俺の子じゃないって言ってたからね」
責めと憐憫の入り混じる複雑な呻きが口々に漏れた。この客たちをして「昼間から飲んだくれている」と非難する者はもういない。
もう、昼も夜もないのだから。
「嫁さんのほうは大丈夫なのかい?」
「どうだかね」
「体のほうじゃなくて……それもだけど……金持ってんのか?」
酒場の主人は残念そうに首を横に振った。
「銭ならおおかた旦那のほうが持ってっちまったみたいだよ。嫁さんの手持ちがなくなったら、出てってもらうしかないね」
続く沈黙に、言い訳がましく主人は付け足した。
「きっとこんな問題が起きてるのはうちの店だけじゃないよ。よそでも――そう――もう新しい命は生まれないんだ。どこでも――」
椅子を引く音がした。
五十がらみの男が立ち上がり、ホールを横切って、二階に上がる階段に足をかけた。
「ちょっと嫁さんの様子見て来るよ」
男が二階に姿を消すと、二人、三人と彼に続く者が現れた。酒場の主人はリンゴ酒を
常連客は酒が入っていたが、母子が休む部屋の戸を紳士的にノックして、優しく声をかけた。
「おおい。調子がいいなら、入ってもいいかい?」
消えそうな、か細い声が応答した。
「どうぞ」
四人の客と女主人は客室に入っていった。
「ちょいと赤子を見せておくれ」
女主人はそう言いながら布団をめくり上げた。
不安定な太陽に照らされる赤子は、明らかに昨日より小さくなっていた。崩れ続けているからだ。顔に一つだけ開いた口は、蠢くごとにその両端が砂粒と化す。後頭部は平坦で、中に骨があるようには見えなかった。
「お乳を欲しがってる」
「動くんじゃねえ。あんた、血が足りてねぇんだよ」
「でも」
「その子は乳が飲めねぇんだ」
「ううん、飲むよ」掠れた声で反論する。「飲むから今日まで生きてきたんじゃない」
「でもよ」
男はその続きをどうしても言えなかった。
その子は育たないと。
誰が見てもわかる。
「今、生きてる」
弱々しい息の下を、声がかいくぐってくる。
「これは命よ。違う?」
誰も答えられなかった。
何が言えよう?
ただ、先陣を切ってこの部屋を訪れた男がポケットから財布を出した。そして、三枚のニーデル貨を女主人に差し出した。
「今出せるのはこれだけだけどよ。あと数日、この人をここに泊めてやれるかい?」
誰もが驚愕の目で男を見た。
「どうせ世界が終わるなら、金なんかあっても仕方ねえ。だったら一日でも長くこの人をここにいさせてやりてぇんだ」
「待て、じゃあ俺も出す」
二人め、三人めと財布を出した。その様子を、酒場の主人はどこか諦めたような目で見つめていた。
世界の死よ、来るなら来い。
願わくば、この善行に免じて、死よ、安らかなれ!