歌う第二公女
文字数 2,383文字
「貴様が来い」というシルヴェリアのメッセージを、エーリカは侍従から直接聞いたわけではないにしろ、汲み取っていた。
今まで多くのことを我慢してきたと思っていたが、間違いだったようだ。ゼラにやんわりと愛を拒絶されたときも、おくたばりになりやがった(ざまあみろ!)オローに体をべたべた触られたときも、ゼフェルの後継軍の暴走を止めるべく駆けずり回っているあいだ、母は上級将校たちとの酒の席で娼婦のように踊り狂っていたと知ったときも、エーリカは怒りを堪えたが、それは我慢ではなかった。やり過ごしていただけだった。不条理について話そう、真に我慢すべきこととは、我慢など到底ならぬことであるのだ。
エーリカはもはやシルヴェリアに我慢ならなかった。彼女は自らシルヴェリアのもとに乗り込むことに決めた。来いと言うなら行ってやろう、そして姉上、さあ、不条理について話し合おうではありませんか!
シルヴェリアは火災現場から後退してきたヨリスタルジェニカ神官団と合流していた。まだ前線交代の時間ではなかったので、エーリカと会う余裕はあった。
「つまらぬ用であれば殺す」
エーリカは、意気揚々というわけではないにしろ、乗り込んできた。超然としているわけではないにしろ、微笑んでいた。侍従たちをよそに置き、ララセルのみを従えて、染め物屋の店先にいるシルヴェリアの前に姿を現した。
周囲は人払いがされていて、シルヴェリアの隣にはフェンがいるだけだった。少し下がったところに、月の異変についてシルヴェリアと語りあっていたシンクルス及びリレーネがいた。
エーリカは馬を降りて手綱をララセルに渡した。妹が何を言い出すのかと、シルヴェリアはワクワクしながら待っていた。つまらぬ恨み言を並べるなら本当に殺そう、喜んで。
エーリカは喋らなかった。
マントの留め具を外し、後ろに投げ捨てた。それは風を孕んで優しく舗道に舞い落ちた。
『大口ヲ開ケタ過去カラ 後悔ガ無限ニ押シ寄セル』
シルヴェリアは喜びを感じた。予想外のことが始まったからだ。エーリカは歌い始めた。
『心ハ砕ケ ソノ残響ハ失ワレ』
「壊れた太陽の
『思イ出ハ 暗夜 全テノ死者ノ懐デ』
泣き腫らした目をしたリレーネの隣で、何かに気がついたかのように、シンクルスがヒュッと息を吸い込んだ。
腰を下ろした荷車から、シルヴェリアがゆっくり立ち上がる。
『青ク 明滅シテイマス』
歌が途切れた瞬間、エーリカがサーベルを、シルヴェリアが指揮杖の仕込み刃を抜き放った。
姉妹は真正面から激突し、刃を交えた。
鍔迫り合い。
刃を挟んで顔を寄せ合いながら、シルヴェリアも対抗して歌う。
『愛ノ日々 血ノ日トナリ 絶エ』
それは、明けない夜の王国の語歌。
『平和ノ歌 悲鳴トナリ 消ユ――』
どちらともなく刃を引き、間合いを取る。かと思いきやそれぞれが得物を構えて再びぶつかり合った。
「いけませんわ!」
飛び出そうとしたリレーネの肩をシンクルスが掴んだ。フェンもララセルも二人を見守るだけ。リレーネにはそれが理解できなかった。
「シンクルス様、ここまではお二人が」
「ならぬ」
シンクルスは月を見ていた。更に理解し難いことに、彼は微笑んでいた。長い夢から覚めたように。難問から解放されたように。試験を終えた学生のように。
「人が歌っている限り、それを止めてはならぬ」
これでよいのだと、シンクルスは言った。
※
自分が誰だかわからなくなった月が、今にも天球儀と触れ合いそうな円弧の底からぽろぽろと崩れ始めた。クッキーのように
「次はどうなるのかしら」
大劇場の裏の路地で、月を見上げるアエリエの横顔にミサヤは尋ねた。
「楽しそうだな」
「あら。だって、いちいち驚くような段階はとっくに過ぎ去ったんじゃない?」
崩れゆく月の破片は流れ星のようで、アースフィアの地表に降り注ぐと見せかけては、天球儀の網目をすり抜けたところで蒸発したように消えるのだ。
結局はミサヤも微笑んだ。
「色々なことが起きているが、私たちは生きているな」
右手に何かを感じた。アエリエが手を繋いできたのだ。冷たい手だが、不快ではなかった。
握り返して繰り返す。「生きてる」
「ええ。生きているわ」
繋いだ手にアエリエは力を込めて、決意を込めた眼差しでミサヤを見つめた。
「これから何があっても、私たち、笑っていましょうね」
「何故だ?」
「笑っている大人が一人でもいれば、子供たちは安心するわ」
なるほど。ミサヤは得心して頷いた。それは成熟した大人の務めであるのかもしれない。歳下だが明晰なアエリエは、様々なことを教えてくれる。良い友を得た。
「ならば笑おう」
この女を守ろうと、ミサヤは決意した。笑いあうために。
「行くか?」
戦いが行われている表通りをミサヤは顎で指した。アエリエは力強く頷いた。
「行きましょう」
手をほどく。
二人は共に走り出した。大通りに飛び出すと、真昼のような明るさの中を唸りをあげて矢が飛んできた。逃げ切り、通りの反対側の路地に駆け込んだ。そこには死体が転がり、月環同盟の十数人の兵士が袋小路に追い込まれながら応戦していた。ミサヤとアエリエは、剣を振りかざして日輪連盟の兵を追い散らした。背後から奇襲を受けた連盟の兵士は、呆気なく逃げ去った。
「貴様たちの指揮官はどうした」
ミサヤに兵士の一人が答えた。
「死んだ!」
「ならば私が指揮を取る。進め! 総督府へ突入する!」
兵士たちは顔に困惑を浮かべ、互いに囁きあった。「誰?」「誰だ?」
「進め!」
だが、指揮官を名乗る者からひとたび命令が下されると、兵はミサヤについて走り出した。
「アランドを捕らえるぞ!」
一団の後ろにアエリエはついて行った。戦いの激しくなるほうへ。
戦の渦中にミスリルがいるはずだった。