最後の防衛
文字数 5,222文字
永遠の平和に取り憑かれたコルにとって、一瞬の平和のために休戦に同意させられるなど屈辱以外の何ものでもなかった。単に屈辱的であるのみならず、狂気とさえ思われた。狂ってる!
署名から十分後には、コルは休戦をぶち壊すための活動を開始した。ほうぼうの拠点に部下を送り、また自らも駆けずり回って命令した。攻撃し、奪い、離脱せよ!
街路には落書きが溢れた。
『終末がやってきた』
『裁きは近い』
『
署名から二十四時間と経たぬうちに、市街の各所で休戦は衣服の虫食いのように綻び始めた。街路を通行する市民は、突如として弓矢の雨と血飛沫の雨の中に立たされた。
報復の予兆はいたるところに現れた。かつて月環同盟下にあった商会の役員や、クーデター後に姿を消した軍人の家族の家、商店、それらの窓の鎧戸は外側から破壊され、戸口には不吉の印のように赤い塗料がぶちまけられた。それによって、市民たちは自らが攻撃対象とされていることを思い知らされた。
市民たちは、自主的に自宅近辺の道路を封鎖し始めた。住宅の裏口には釘が打ち付けられ、小道という小道、路地という路地の入り口には樽やテーブルの類が積み上げられた。日輪連盟の兵士たちには、それを除去するよう命令は下されなかった。星獣兵器の通行に支障がないからである。
都解放軍のアセル・ロアング中佐は戦いの端緒となった保安局本部に乗り込み、雪の舞い込む屋内に居並ぶ後継軍の亡骸、無気力な様子で弩の手入れをするリグリー、身を寄せ合って丸くなる生存者たちの前でコルの胸倉を掴んだ。
「貴様が休戦を
連盟が印をつけた報復予定者の中には、アセルの妻子も含まれていた。
「何千だと?」コルは尊大で思い上がった態度を崩さず、アセルの手首を掴んだ。「永遠の平和には、都の全ての命を捧げる価値がある」
アセルは、この男の顔面をかち割ってザクロのようにしてやろうかと考えた。
そこへ、開かれたままの扉からリャン・ミルトが現れた。
「ロアング中佐、至急の報告があります」
「至急だと?」胸倉を掴んだまま顔を向ける。「私は今、休戦維持のための最大限の努力をしているのだ。それよりも重要なことかね?」
即答。
「重要です」
アセルは半ば突き放すようにコルを解放すると、苛立たしげに靴を慣らしてミルトと共に廊下に出た。
「何が起きた」
窓の外はいつ明けるとも知れぬ夜で、雪雲が広がり、雲一面が天球儀の光を吸い込んで淡く光っていた。照明がなくともミルトの苦渋に満ちた表情がはっきり見えるほど明るかった。
「最前線でレライヤ城塞が陥落し、日輪連盟の星獣部隊が崩壊しました」
「それで?」
「月環同盟軍は星獣兵器の弱点を掴んでいる。連盟は既に最前線から星獣兵器を引き上げ、都内部に運搬を開始しています。市内の紛争に転用する心算と考えられます」
アセルは歯噛みした。星獣兵器の弱点、それがわかれば――。
都の誰も、日輪連盟の兵士たちでさえ、自分たちの前に星獣兵器の暴威が立ちはだかるとはまだ誰も思っていなかった。当然、ハルジェニク・アーチャーもその一人だった。
王立芸術学院を中心に据え、様々な分野の芸術家志望者が集まる地区。その片隅の画材屋に、マントのフードとマフラーで顔を隠し、エルーシヤの鞄から抜いた数枚の貨幣を懐に収めたハルジェニクが入っていった。大人三人が定員という狭い売り場は天井高くまで絵の具の粉を納めた瓶が積み上げられ、カウンターに店員の姿はなく、ハルジェニクは呼び鈴を取ると、それを乱暴に振り回した。
「ドロウィン! ドロウィン!」
カウンター奥のカーテンの向こうで人の気配がする。
「出てこい!」
すぐに、エプロンをかけ、長髪を一つ結びにして無精髭を生やした画家崩れの男が姿を現した。気怠げな若い店主は、ハルジェニクを一目見るや硬直し、バックヤードまで後ずさった。
ハルジェニクは大股で歩み寄ると、カウンターを通り抜け、店主の胸倉を掴む。
それから、顔面に強烈な頭突きを食らわせた。
「てめぇ、あのときはよくも俺を殺し屋に売ってくれたな」
「ハル、ハルジェ、お前生きて――」
「ああ、俺だ。本物のな? 思い知らせてやろうか?」
再度頭突き。店主の顔面が鼻血で汚れた。膝から崩れ落ちそうになる店主を強引に引っ張り上げる。
「あっ、あの、やめてくれ。仕方なかったんだ。俺だって死にたくなかったし、家でお袋が病気で」
「俺はてめぇの言い訳を聞きに来たんじゃない」
店主の背中を戸棚に押し付けて手を離すと、その怯え切った顔面に口を寄せ、囁いた。
「緑だ」
「はっ?」
「緑の顔料を全種類、全量俺に寄越せ。在庫もだ。なに、ただとは言わねぇよ」
店主の手に銀貨を握らせる。そして、持ち込んだずた袋のなかに勝手に緑の顔料の小瓶を投げ込み始めると、店主も放心状態で要求された品物をカウンターに並べ始めた。
三袋半がいっぱいになると、怯え切った店主は震えながら両手を組んだ。
「額は足りないがどうでもいい。用件はこれだけか? だったら許してくれ。できることはした。頼む」
それを聞き、ハルジェニクは足を上げて相手の腹を蹴りつけると、相手の上半身を無理に仰け反らせる形でカウンターに押し付けた。
「俺がここに来たことは誰にも言うな」
脂汗を流しながら店主は必死に頷いた。
「言ったらまずお前の妹を殺す。それから病気のお袋と親父を殺す。お前の猫も殺す。最後にお前を殺す。わかったな」
「わかった、言わない。言わない」
ハルジェニクは重くなった四つのずた袋を提げて雪降る夜の大通に飛び出した。空いている馬車を捕まえて、アイオラたちの拠点となっている修道院のある地区まで走らせた。馬車をおりると、尾行を警戒して無駄に動き回り、人のいない路地でかつらを被り、付け髭をして、ようやく修道院に戻った。
修道院の地下室ではヨリスが一人、待機していた。無言のヨリスの前でハルジェニクはふざけた髭とかつらを取り、樽の上に乱暴にずた袋を置いた。中の小瓶が触れ合って音を立てた。
ハルジェニクの顔は蒸気し、息は荒く、興奮した白いもやが口から吐き出されては消えていった。
「都の門を内側から開くのはお前の役目だろう」
ヨリスはなおも黙っている。呼気すら感じられない。サーベルの柄に両手を置いて木箱に座り込んだまま、ハルジェニクに目で問いかけている。で、何をするつもりだ?
「なのにお前は何もしようとしない。そのときになったらどうするつもりだ? 門に詰める連盟の兵士を一人残らず血祭りにあげるつもりか? ああ、そのつもりなんだろうな。できると思ってやがる」
捲し立てながら、古いテーブルに小瓶を乱雑に並べた。濃い緑から淡い緑まで。全て緑。
ようやくヨリスが口に出して尋ねた。
「何をするつもりだ」
ヨリスが喋ったっことで、ハルジェニクはほとんど安堵していた。よかった、こいつは人間だった。星獣のような殺戮兵器ではなかった。ヨリスのような人間を見ていると、ハルジェニクは人間というものがわからなくなる。
「……ありったけの空き瓶を」
ハルジェニクは答えていった。
「これから砒素を抽出する」
※
レライヤ城砦陥落の報が入るや、エーリカはコブレン自警団団長グザリア・フーケ、及び自警団に同行する北方領からの客人パンジェニー・ロクシを執務室に呼び出した。
「シルヴェリアはレライヤ城砦を超えた先の山道で、リージェス・アークライト少尉が隠匿した聖遺物『月』を掘り起こすつもりでいると、連絡員より情報が入っております」
不意に同僚の名前を聞かされて、パンジェニーが身じろぎする。
「そこでです、ロクシ少尉、あなたには口実をつけてその場に同行し、月の掘り起こしによって何が起きるかを見届けていただきたいのです」
「はっ。ですが、口実とは、どのような?」
もっともな疑問だった。
「それについて、これから協議したいと思いますの」
エーリカの差し金として現場に送りこめば、シルヴェリアは追い返すだろう。斬り伏せられかねない。かといって、
偶然
その場に居合わせるなどという都合のいい話は通用するまい。「まず、ロクシ少尉を誰の名によってその場に送り込むかについて幾つかの案がございますが――」
そのとき扉が叩かれた。
「エーリカ様」
許可を待たずしてララセルが入室する。着膨れしており、心なしか顔が青い。
「どうしましたか? ララセル」
「エーリカ様、お知らせしたいことがございます。どうか二人きりで」
エーリカはグザリアとパンジェニーに目を戻すと、軽く一礼した。
「お呼び出ししておきながら、話の途中で席を外していただきます非礼に心からお詫び申し上げますわ。場が整いましたら、再度お越しいただけますかしら」
「構いません」
と、グザリア。
「オーサー師の旅の支度は進んでおりますか?」
「既に都を発っております」
「それは結構。では、また後ほど」
二人が出ていくと、立ち上がったエーリカと真正面から向かい合い、瞳をひたと見据えてララセルは口を開いた。
「エーリカ様、どうか落ち着いて聞いてください」
「なんですこと?」
「先のレライヤ城砦の戦いにて、グロリアナ領主ゼラ・セレテス子爵が戦死されました」
エーリカは微笑みながら、ララセルの目をじっと見つめ返していた。
その一言の中で、最初に反応したのはゼラ・セレテス子爵という単語だった。愛するゼラ! 赤髪の、気が強い、質実剛健というセレテス家の家風をそのまま体現したような男。いくらか歳が離れているし、家格も違いすぎるが、そのようなことはどうにでもなると思っていた。一目惚れだった。十四の春の、幼い恋だった。
結局エーリカは、望まぬ男と結ばれることになった。トリエスタ伯。浅ましい顔つきのユンエー・オロー。その顔が脳裏に浮かぶ。オローの顔は、少しずつ崩れて勝ち誇った笑みに変わる。
恋敵が永遠に消えたのだから。
ゼラが死んだ。
死んだ。
視界が暗転し、両膝に痛みが走った。床に膝をついたのだ。
「エーリカ様!」
ララセルが眼前に膝をつき、エーリカの両肩を掴んで揺さぶる。その痛みで少しずつ視界が戻ってきた。
「エーリカ様、しっかりなさってください!」
「……よくぞ」
絨毯の真紅の色彩が見えてくるまで瞬きを繰り返す。
「よくぞそれを私に伝える気になりましたわね」
「あなたなら事実を受け入れられると信じてのことです」
喉の奥に苦みを感じた。体がゆっくり左右に揺れているようで、目眩がし、吐き気を感じる。
「エーリカ様」
ララセルが、背中に腕を回してエーリカを抱いた。その肩に顎を乗せることで、エーリカはなんとか平衡感覚を取り戻した。
「あなたにはこのララセルが、ハーティ大尉がついております」
目を覚ませ。ララセルの声はそう促していた。しっかりしろ。
「手を貸してくださる?」
ララセルの助けを借りてソファに体を沈めると、エーリカは目を閉じて、左腕を瞼に当てた。目眩が落ち着くまで待つつもりだったが、落ち着きそうもないと悟ると、腕を下ろして尋ねた。
「どのような最期でしたの?」
「はっ。セレテス子爵はソレリア民兵団を率いて月環同盟軍右翼の守備につき、星獣兵器を森へ誘い込もうとする他の部隊を守り、亡くなられたと」
「ソレリア民兵団は?」
「全滅しました」
「人によって? 星獣兵器によって?」
ララセルは言葉を詰まらせながら答えた。
「星獣兵器によってです」
「そう」エーリカは下唇を噛む。「星獣兵器、ね」
沈黙。
エーリカは意味もなく目尻に指を当てると、次に、汚れてもいない口の端にも指を当てた。
「私は最初からあれが気に入らなかった。一目見たときから」
「はい、エーリカ様。同感にございます」
エーリカは足を上げ、テーブルを蹴った。
「クソが!」
ガシャン! ティーカップがソーサーからずれ、中の紅茶がこぼれた。
「星獣兵器、星獣兵器! 皆殺しにしてやる!」
いいや、と、もう一度テーブルを蹴る。
「……いいえ、あれに命はない。壊してやる。全部」
「あなたのお心のままに」
エーリカの右足に手を触れ、床に下ろさせながら、ララセルは自らを落ち着かせるための声音で語りかけた。
「必要なことは全て、このララセルにお命じください」
「では、テーブルを拭き、パンジェニー・ロクシをこの場に呼びなさい」
「はっ?」
「すぐに」
ララセルが廊下に控える侍従を呼び、テーブルを拭かせる。目の前にあるその動きを見もせず、
パンジェニー・ロクシを必ず月環同盟の最前線部隊と接触させる。小細工はいらない。エーリカの名によって彼女を送り出す。月環同盟と接触させ、星獣兵器の弱点を必ず握らせる。
その程度のこともできない無能なら、身一つで総督府から追い出してくれよう。