終末の光景(祈り)
文字数 4,438文字
エルーシヤは幼かった。
エルーシヤは十七歳だった。にも関わらず幼かった。世話人に面倒を見てもらいながら生きてきた。人の痛みを想像することも、その機会もあまりなかった。
都ではあまりに多くの人が傷つき打ちひしがれていた。
保安局本部であがる煙も、この地区では雪雲と同化して見えなかった。兵士たちがやってきて、街路を封鎖し始めても、何が起きているのか知っている市民はいなかった。エルーシヤも、戦闘について知らなかった。
「私は長く生きすぎたよ」
戸口に杖をついて立つ老婆が、卵を届けにきた青年相手に嘆いていた。
「この世の終わりを見るくらいなら、三年前の肺炎で死んでいればよかったのさ。あたしはもう一日だって生きていたくない。かといって死ぬのも恐いのさ」
「そんなこと言うなよ、婆ちゃん。世界が終わるなんて決まったわけじゃないだろう? みんなが勝手に言ってるだけさ。俺もお袋も、婆ちゃんには長生きしてほしいって思ってるよ」
「静かに死なせてほしい」老婆は首を振った。「諦めたいんだ。恐くないっていうのなら、あんたにはわからんよ」
そして今、猛烈に腹を空かせていた。
さまよい歩く街角で、ある民家の扉に両手で爪を立て、引っかきながら膝をつく男が一人いた。
「どうか最後に一度だけ会わせてくれ! お願いだ!」
ふらつく足取りで、エルーシヤは角を曲がる。
曲がり角には、膝をついて背を丸め、両手を合わせて祈っている老人がいた。老人が向き合う石壁には、古い血の跡があった。
その後ろを通り過ぎれば、そこは椅子屋の裏口で、エルーシヤと同じく空きっ腹を抱えた幼い丁稚が主人の目を盗んですすり泣いていた。お母さんに会いたい!
エルーシヤは歌うことができた。
ただそれだけができた。
※
目尻から溢れる生ぬるいものが涙だと、エルーシヤはしばらく気付かなかった。泣けるほどに惨めなのか、自分は、または人間たちは。それとも憐んでいるのだろうか、どのような目線で? エルーシヤには自分の心がわからない。道なりに進むと、階段坂の上に出た。
薄く白く雪が積もる煉瓦の階段の下を、陸軍の騎兵隊が
兵士たちは生きて帰ってこない。そんな気がした。世界の明らかな異変が始まったとき、戦争は終わるかもしれないと思った。人々は手を取りあい、異変に立ち向かうと。違う。戦争にのめり込んでいれば、異変を目の当たりにせずにいられると思っているようだ。
でなければ、生き急いでいるのだろう。勝利を収めてから死にたいのだ。他にどんな――納得のいく死がある? ――死を意味づけできる? ――自分の死について気持ちの落とし所がないことに気がついて、エルーシヤは慄然とした。
死なら見たことがある。戦いの跡地で。だがあれは自分の死ではなかった。歌を覆いかぶせることでどのようにも意味づけできる、他人の死だった。
自分の死が自分にとって何になるという?
ああ、だから泣いたのだと、エルーシヤは思うことにした。恐いのだ。死を迎えるときに抱くであろう無意味さと虚しさが。無意味さと虚しさを抱えて死ななければならないことが。その後に何も残らないことが。
もし長く生きられるなら、生きた意味を感じながら死ねるだろうか? だが時間がない。私は長く生きられない。それはもはやエルーシヤの中で確信となっていた。耐えきれず口を開く。
泣く歌姫の口から
『意味を、意味をください』
掠れた声は、お世辞にも歌と呼べぬものであった。
エルーシヤはほとんど驚いていた。
自分の言葉があることに。
『生まれた意味をください』
今度は少しだけ、声に力が入った。
『生きた意味をください』
周囲にいる何人かが動きを止め、エルーシヤを見た。ここにいる何人が、自分の死に納得できるだろう。いいや、それは正しい問いではない。死に納得するには、死んだ自分を認識できなければならない。それはできない。
生きる意味は、きっと自分で見つけられる。善く生きられるのなら。だが、死ぬ意味は?
『死ぬことの意味をください』
自分の死に意味を与えてくれるのは誰だ? 生きている間、関わりのあった人間か? それでは全く孤独な人間はどうなる、エルーシヤのような人間は?
生まれ育ったコミュニティを出るべきではなかったのかもしれない。ずっと田舎に引きこもり、要事にのみ引っ張りだされる存在に甘んじていれば。それでは生きる意味を見出し得ないかもしれない。だが、死については、氏族の者たちが意味を見出してくれたかもしれない。あるいはヴァンに背を向けていなければ、自分の罪を恥じて逃げ出していなければ、今こんなにも孤独であるはずはなかった。
『死ぬことの意味をください!』
即興の旋律で、かろうじて歌として成立しているそれに、誰もが打たれたように動きを止めた。エルーシヤの目が届かない、屋内や裏道にいる人もそうだろう。声が届いているのなら。
誰がこの叫びを聞き届け得るだろうか? 死に意味を与え得る他人もまた死に絶えたのなら?
人間とはそういう運命の生き物かもしれないと、エルーシヤは思った。人間という種族が滅ぶとき、死を迎える最後の一人が誰かいる。その一人の死に意味を与えることは誰にもできない。
あるいは、誰か何か、高く遠いところから人間を、この自分を見てくれている者がいるとしたら?
生きたことを、罪も過ちも、成長も、見ていてくれている者がいると仮定したら?
意味を与え得るものとは、そのような者に他ならないのではないか。そしてエルーシヤはその存在を知識として知っている。
かつて地球人が信じたもの、そして
『神様!』
エルーシヤは胸に両手を当て、雪雲を仰いだ。
『我ら死にゆくさだめとしても、生きてきた意味をください!』
その歌声を聞こうと、人々が集いくる。
『犯した過ちにも、意味をください!』
石壁に向き合って祈っていた老人が呟いた。
「犯した過ちにも意味を……」
彼はあの石壁の前で、息子を殺したのだ。
『ああ、そうであれば、死に立ち向かう勇気を得られます』
誰か、感性の鋭い人が、対旋律を重ねた。女の声だった。
『神様、私に勇気をください!』
群衆が色めき立つ。
エルーシヤは間髪入れずに主旋律をかぶせる。
『神様、私が生まれたことに意味がありますように!』
『より善く生きられますように』対旋律。『神様、私に善意をください!』
エルーシヤは呼応する。
『神様、勇気と善意を私にください。生きて死ぬ意味のために!』
歌に魅入られた群衆が答唱する。
『神様、勇気と善意を私にください!』
男も女も、子供も大人も老人も、同じ旋律を繰り返す。その中で、歌姫の体は舞い踊り始めた。もはやエルーシヤは泣いていなかった。舞い踊りながら歌い、通りを東へ進んでいく。
『生まれ生きたことが、無意味ではありませんように!』
答唱。
『神様、勇気と善意を私にください!』
生まれてきた。
必ず死ぬとしても、生まれ、生きてきた。無邪気なお喋りすら許されなかった子供時代、エルーシヤは深い山で歌った。きらめく草原で。光る丘を見下ろす頂きで。小鳥たちが鳴き交わしていた。夏雲は爽やかで、風は澄み渡っていた。
あの日、生きていた。
生きている、今も。
『神様、世界は今も美しいままでしょうか? 子供の頃信じていたみたいに?』
雪雲が寒々しい濃淡をつけるだけの空に向かって、誰かが新しい旋律をつけ加える。
『世界が美しくありますように!』
今や答唱する群衆の中には、保安局本部へ向かう途中だった陸軍の歩兵たちもいた。
エルーシヤが戦いの跡地を見たのは一度だけだった。当時十三歳で、脱走した南東領の捕虜が略奪を働き、そして殺し尽くされた場所で、出動した南西領の陸軍部隊の慰問に訪れたときのことだ。その光景を今も覚えている。
歌が変転する。
『屍肉漁りの犬たちに 食い破られる人々の
叫びが聞こえます
どうかその口を閉ざし お眠りください』
ひらり、ドレスが翻る。
『開かれたままの 虚ろな目に映る
野原の全ての色が見えます
どうかその目を閉ざし お眠りください』
答唱。
『世界が今も美しくありますように!』
エルーシヤは進む。歌うために。
椅子屋の丁稚は声が聞こえてくるほうを見ながら、その声のもとに行きたいという欲求に
彼女が座り込む裏口に、ふと空の光がさした。雪雲が一部、裂けたのだ。雪がきらめく。丁稚はそのきらめきを、美しいと思った。
「エルーシヤ!」
歌の力に抗っているのはヴァンも同じだった。彼は非番で、都解放軍の諜報員として活動するはずが、急遽強攻大隊の本部に戻る羽目になったところだった。
エルーシヤが金を巻き上げたときと同じように、今や歌が歌を呼び、その波紋が円のように広がっていくところだった。円の中心にはエルーシヤがいるはずだった。
「エルーシヤ!」
ここで彼女を見失えば、きっともう会えない。
「お願い、通して!」
だが歌に魅了された民衆は、すっかり街路を塞いでいた。
『神様、勇気と善意を私にください!』
丁稚は背後の気配に気がついて、怯えながら振り向いた。そこに椅子屋の次男がいた。さぼっているのを見つかった。殴られる。木屑を太腿につけ、大股で歩み寄ってくる次男から、逃げることもできずに体を強張らせる。
長男は丁稚の前で屈むと、背中に回していた手を前に持ってきて、父親の目を盗んで持ち出した星獣祭の焼き菓子を差し出した。
「これ、やるよ」
保安局本部の生け垣に業を煮やして焼き払っていた陸軍部隊のもとにも、運河を越えて歌の波動がたどり着こうとしていた。その保安局へは、即時停戦を命じるエーリカの使いが馬を飛ばしているところだった。
『勇気はありますか?』
エルーシヤは今や運河の橋のたもとにいた。
『私たちに より善く生きることはできますか?
正しいことができるでしょうか?
死を迎える前に その時間は残されていますか?』
『勇気はあるか』
人は歌う。橋を封鎖する兵士たちさえも。
『勇気はあるか
優しさは
正義への意志はあるか』
頭上では、鳥たちが運河を渡っていく。歌いながら。ああ、人も鳥も、大して変わりはない。生まれ、生き、歌い、死ぬ――。
ふと、急激に、周囲が暗くなった。
夜だ。
老いて死にかけた空の容態が、朝から夜へと急激に傾いたのだった。