卑劣
文字数 4,799文字
プリスはハルジェニクにクッションを投げつけた。こう言われたからだ。
「お前馬鹿だろ」
顔面に飛んできたクッションを両手で受け止め、それを腹に抱え込んで、ハルジェニクはソファから身を乗り出した。
「あのなあ。確かに俺は『陸軍司令部の仕業かもな』とは言った。言ったぜ? 失言だったことは認める。でもな、被害者が陸軍人だけかどうか調べたか? 一般人にも被害が出てるんじゃないのか? 何もわからないのにふらふらほっつき歩いて余計なことに首突っ込むなよ」
「でもゼフェルの後継軍の尻尾を掴んだんだよ? みんな誉めてくれたし。お手柄だって」
実際に今日、通常通り徴募事務所に出勤したプリスは、同じ場所で働く先輩の士官たちから拍手で迎えられた。昼には徴募部隊の大佐がわざわざ本部から事務所へと激励に来たほどだった。プリスは事務仕事と照れ笑いの一日を過ごし、家に帰って浴びせられたのがハルジェニクのこの言葉だった。
「ハルはさあ、一言も二言も多いんだよ。別に誉めろなんて言ってないんだから人に向かって馬鹿とか言わなきゃいいじゃん」
「お前は人に向かって物を投げるな」
言われた
「絶対に謝らないんだから!」
結局、この二人はどこか似ているのだった。
ところで広報部の上層は、帰宅したプリスとハルジェニクが毎日恒例の口喧嘩を始める頃にはもう、この顔が良い新任少尉をもっと人目につくところに置いたらどうかと考え始めていた。
「歌でも歌わせてはどうかね。頭のほうも顔と同じくらいよければ、きな臭いところに送り込んで味方を作らせよう。最悪でも分析の仕事はできるわけだ」
天籃石のシャンデリアがきらめく執務室で一人の佐官が提案すれば、その副官が否定する。
「誠に残念ながら、南部方面の新しい広報官には北ルナリア副市長の姪が選任される手筈となっております」
陸軍内の人事の置き換えは着々と進んでいた。
「美人かね?」
「カマキリに比べれば、はい」
昼にプリスを激励した大佐は、美しいガラスの杯を磨きながら半笑いで尋ねた。
「南部の新しい広報官には他に三、四人ばかし立候補していたね」
「はい。司令部は実際に優秀で経験の豊富な人材を立ててきています。日輪連盟の軍への浸透を食い止めようと必死です」
「今は実際に優秀なのは要らんよ。広報部からも立候補させないわけにはいかないが、若くて素直でさえあればいい。当面はな。
で、北ルナリアの副市長の姪とやらの評判はどうかね?」
「それが、広報の仕事どころか働いた経験さえないと。選任されたところで納得する者はいないでしょう」
どうせお飾りにするだけならプリシラ・ホーリーバーチ少尉のほうがまだマシだと誰もが口を揃えて言うだろう。
「それじゃいかん」
杯が机に置かれ、重い音を立てた。
「司令部には、誰が新しいご主人様か思い知らせてやらねばなるまいね」
テーブル越しに、副官は恐れと期待の入り混じった目を向けた。佐官はそれに応えた。
「プリシラ・ホーリーバーチ少尉を逮捕しよう」
翌朝プリスが目を覚ますと、既に日が高かった。遅刻かと思って配属先の徴募事務所に駆け込むも、出勤して来ている兵や士官は少なかった。道すがら、路傍で人々は、困ったように晴れた空を見上げていた。とにかく遅刻ではなかった。
どうにも時間の感覚がおかしいが、始業からしばらく経つと、都の中心部からプリスの上官を乗せた馬車が事務所にやって来た。二日連続の訪問だ。戸惑うプリスに、その佐官は父親のような温かい笑顔を向けて言った。
「ホーリーバーチ少尉、陸軍の新しい広報官に立候補しないかね。なに、仕事は順次覚えていけばいい。君のようなやる気に溢れた優秀な若者のためなら、喜んで推薦状を書こう」
※
プリスは数日浮かれて過ごし、都にはエーリカ・ダーシェルナキが帰って来た。エーリカを乗せた馬車が通り過ぎたあとの街路では、兵士が四人がかりで一人の主婦に詰め寄っていた。
たまたま近くを憲兵部隊のケイン・アナテス少佐が騎馬で通行中だった。少佐は同行する副官に話しかけた。イルメという名の、黒い肌に垂れる深紅の髪が美しい、聡明な女性士官だ。
「不気味だな」
三十代の少佐は若い副官に視線で問いかけた。君はどう思う?
意を汲んだ答えが返ってきた。
「はい。静かすぎますね」
理由はあまりにも明白だ。
このところ、一日の感覚がおかしい。昼が長かったり、夜明けが早かったり遅かったりする。
時計は、地球人たちが遺した
だが、六月に合わせられた都じゅうの時計の針の位置と太陽の位置がどうにも一致しない。
「リエルト中尉。君は最近、朝『寝過ごした』と思って慌てたことはないか?」
「ございます」
「私もだ」
「幸いにして、やらかしたのは私ではなく朝のほうだったがな。そのうち遅刻という概念が消えてなくなるだろう」
イルメが咎めるような愛想笑いをしたとき、行く手の曲がり角の左側から男女の喚き声が聞こえてきた。アナテスとイルメは視線を交わすと、馬の脇腹を軽く蹴り、駆歩で声のもとに向かった。
大通りの端で、一人の主婦が兵士四人がかりで連行されようとしていた。左右の腕を両側から掴まれ、後ろ向きに引きずられていく。踏ん張ろうとする踵が薄く積もった雪を引っ掻いていた。靴は擦り切れてぼろぼろ。髪は伸びっぱなしで、継ぎ当てだらけの薄い服にはフケが落ちていた。
「離して! 娘が――娘が――」
四人のうち三人は兵士で、一人は下士官だった。手が空いている兵士に下士官が耳打ちすると、その兵士は腰を屈め、両手で主婦の踵を掴んで持ち上げた。
主婦はアナテスとイルメを見つけ、声で縋り付いた。
「助けて!」
みすぼらしい女が荷物のように運ばれていくのを見て、アナテスはため息をついた。白い息はすぐに後方に運ばれた。
「待ちなさい」
馬を主婦の隣に並べると、兵士たちは足を止めた。
「その人が何をしたんだ?」
下士官は、少佐の
「少佐殿。この者は先ほど都にお戻りになられた公女殿下のご通行を妨害した『ゼフェルの後継』の一味です。よって、不敬罪にて連行するところでございます」
「そうか。殿下にお怪我は?」
「お怪我はございません。ですが、この女が殿下にかけた妄言は聞き捨てなりません」
肩を竦め、アナテスは
「離してやったらどうだ? 妄言なら捨ておけばいいだろう」
「お言葉ではございますが、それを判断するのは我々ではございません。私の務めは司直の手にこの女を委ねることでございます。公務を妨げるのであれば、少佐殿といえども憲兵隊に報告しなければなりません」
下士官は胸をそらして歩み出た。
「少佐殿、所属とお名前を願います」
「私が憲兵だ。仕事を楽にしてやろう」
それを聞き、兵士たちは諦めて去っていった。後には主婦とアナテス少佐、副官のイルメ・リエルト中尉が残った。
主婦は道端にうずくまり、ぐずぐずと泣きながら礼を言い続けた。
「これで家族のもとに帰れます……なんとお礼を申し上げたらいいか……」
「
アナテスは馬から降り、主婦に言葉をかけた。
「礼などいい。本来あなた方はただ平和を望むだけの無害な人々と聞く」
二の腕を取り、立ち上がらせた。
「帰りなさい。『ゼフェルの後継』についてはいろいろな噂があるが、あなたは武器を握りしめてはいけない。娘がいるのだろう」
これが憲兵部隊ケイン・アナテス少佐の人となりであり、彼は今、プリスを乗せる護送用馬車との合流地点に向かっているのだった。
※
憲兵隊が徴募事務所に来たとき、プリスは先輩の士官と昼食をとっていた。事務所の奥の部屋が開き、チーズとハムを挟んだパンにありついていたプリスは、このところ急に愛想が良くなった先輩もろとも戸口に顔を向けた。六人の男女が入って来た。先頭の男は少佐だった。パンを咀嚼しながら何の用事だろうと
「どういったご用件ですか?」
口の周りにパン屑をつけたまま立ち上がったプリスに、アナテスは同情に満ちた目を向けた。
「プリシラ・ホーリーバーチ少尉は君か」
「はい、少佐殿」
「私は憲兵部隊のケイン・アナテス少佐だ」
プリスは無意識に小首を傾げた。こんな来客の予定あったっけ。
アナテスはため息まじりに告げた。
「ホーリーバーチ少尉、君に逮捕状が出ている。大人しくついてくるように」
「はっ、逮捕?」
プリスはにっこりした。
「誰がでしょうか?」
「君だ!!」
まだニコニコしているプリスの両側から、二人の兵士が二の腕を押さえた。
「えっ? うわっ、痛たたたたたたたっ、ちょっと」
腕を掴まれる痛みと、イルメの声「抵抗はおやめなさい」、実際に前に歩かされたことによって、ようやくプリスは我が身の出来事を理解し始めた。
「いや、待って? 逮捕? 逮捕って」
まだ食べ終わってないのに!
先輩はあんぐり開けた口から玉ねぎの細い繊維を垂らして様子を見つめていた。
「少佐殿! 身に覚えがないのですが!?」
実際のところ、アナテスもその副官も、最近つとに有名なこの若い立候補者を不憫に思っていた。身に覚え? そりゃあないだろうな。
アナテスは幼少より正義感が強かったし行動も伴っていた。一例として、士官学生時代には狂犬のような同級生がいたのだが、その狂犬が上級生と問題を起こすのを腕づくで止めようとしたことがある。すぐにボコボコにされたのだが、ケイン少年は英雄のように祭り上げられた。狂犬(マグダリス・ヨリスという名前だった)に立ち向かったからだ。祭り上げられた結果、五年間も学年委員をさせられた。貧乏くじを引かされたのだ。
これが俺の立ち位置か? 二十年経ってアナテスは思った。時間が壊れても、俺はこういうことをし続けるのか?
「君があの日取り逃した二人組は、既知の通り都で武装蜂起の準備を進めるゼフェルの後継軍の指導者と幹部だ。君は居合わせた警邏の騎兵に対し、蒸留所の経営者に
「市街で騒動に居合わせた場合の規則がちゃんと定められています!」
半ば引きずられながらプリスは抗弁した。
「どうして軍規に従ったら逮捕されなければいけないんですか!」
「さっさと歩きなさい!」
イルメに一喝され、プリスはようやく同室の先輩の存在を思い出して顔を向けた。
「中尉、助けてくださいよ」
先輩の女性士官は固まっていたが、憲兵たちの視線に刺されて我にかえると、口の周りをぺろりと舐めて瞬いた。玉ねぎの繊維は口に消えた。
「……あっ。私よくわからないので」
先輩の士官が昼食をその場に残して去ると、アナテスはプリスの顔にありありと浮かぶ青黒い
それを受け、他の立候補者たちも考えを変えるだろう。