獣の歌
文字数 3,576文字
太古歌そのものは作用に過ぎないため、意識は、作用の結果生じる変化を認識できるだけで、太古歌そのものは認識できない。
太古歌が意識に作用すると、しばしばパターン化された旋律またはイメージが認識される。
たとえば言語生命体のある個体に獣の太古歌が作用するとき、その個体は獣と化す。
1.
腹に適度の食事を収め、他に誰もいない書庫に
鳴る床板を気にもせず、危急を告げに駆けつけてくる誰かの足音は、そんな心地よい時間にできれば聞かずに済ませたい物音であった。
「ミスリルさん! 大変です!」
よほど気が
「すぐに来てください――ミスリルさん?」
「ここにいるよ」
本を閉じ、機敏な動作で立ち上がったときにはもう眠気は吹き飛んでいた。
「どうした?」
足早に扉へと向かった。ジェスティは頬を上気させ、息を切らせていた。ツインテールの銀髪の流れには、長い距離を駆けてきた痕跡が見て取れた。ジェスティは早口で告げた。
「市街で
ただの市民同士の喧嘩であれば特殊部門の人員が呼ばれることはない。暗殺者同士の抗争ということになるのだが、ミスリルは虚をつかれた思いがして、それを顔に出した。ジェスティが言われる前に肯定した。
「そうです。この
金持ち喧嘩せず。
という言葉を使ったのは三日前の夜の自分で、ミスリルは足早に廊下に出ながら「ハッ!」と意地悪く笑った。
「いいぞ。潰しあえ」
弱小組織ほどよく
「違うんです」
だがジェスティは必死だった。
「争ってるうちの片方は素性不明のよそ者です!」
それを聞くや、ミスリルは真顔になって廊下を走り出した。
ジェスティの髪のきらめきを追って一階へ。坪庭に面した食堂の前を通るとき、扉の
『大食してはならない』
この掟は自警団の毎月の食費を大いに浮かすだけでなく、今、食後のミスリルを助けてもいた。満腹時の戦闘は、空腹時の戦闘よりも
問題は、何と戦うかだ。
「相手は人間か?」
壁の内側に沿うようにのびる廊下でジェスティが振り向かずに答える。
「確認できているだけで人間が六人、星獣が一体」
ミスリルの舌打ちが狭い廊下の壁にぶつかった。
「応戦してるのはどこだ?」
「『火線の一党』です」
弱小とは言えない組織だった。市内で第三位か四位あたりの中堅どころだ。何がきっかけで剣が抜かれたか知らないが、可能な限り相手を殺さずに――市外の勢力を刺激せずに――無力化するには、そのあたりの戦力が適当なところだろう。
「場所は」
「第二城壁内側より二ブロック手前、
「じゃあ馬を出す距離じゃないな。そこまで走れるか?」
「当然です!」
礼拝室を巻く廊下の壁には真鍮の棒が取り付けられており、そこに巡回用のマントがサイズごとに分けて吊るされていた。黒地に自警団の旗印が縫い付けられたもので、二人は速度を緩めることなくそれをとり、留め具をつけながらアトリウムを通過して日差しの下に飛びだした。日中にはあまりに目立つマントが風を受けて後ろにたなびく。正門は開いていた。
飛びだしてきた自警団員二人を、市民の好奇の目が包み込んだ。
「びっくりしたわねえ」
通りの隅には何人もの物見高い市民が集まり、潜めた、それでいて高い声でささめきあっていた。逃げてきたとみえる市民はまだ息を切らしていたり、髪を乱していた。緊張感がないわけではないが、どこか浮ついた空気だ。
「何だったんだ? あの大きいの」
「
戦いの音まだ聞こえてこない。
市民たちの会話に耳を傾けながら、ジェスティの先導で道の真ん中を走り続ける。褐炭道路と呼ばれる大通りに合流すると、ちょうど辻で男が倒れていた。そばに立つ染物屋の二人の
「コイツ死んでるぜ」
声を後に残し、西進すること数分。その恐怖の叫びが行く手から耳に届いた。
「犀だあぁっ!」
ミスリルはマントの留め具に手をかけた。
「ジェスティ!」
背中を守る防具を何の躊躇もなく脱ぎ捨てて丸め、ジェスティに放り投げた。ジェスティが驚いた目で振り向くのと同時に、ミスリルは彼女を抜き去った。
「お前は怪我した市民がいないか見回りに行け!」
戦いにはついてくるな、ということだ。
右手を腰にかける――正確には、帯に差した鉄の棒に。
新月の晩、あの二人の客人が目にしたミスリルの武器は、三本の鉄の棒を鎖で連結しただけの極めて単純な構造のものだった。三節棍と呼ばれるそれは、どれほど昔かもわからないほど遠い昔、地球の一部の地域で主に演武で使われていたものらしい。それは地球の全歴史の一つとしてアーカイブ化され、どういうわけだかアースフィアでその記録が書物の形で残され、どういうわけだかその書物が南西領に伝わり、さらにどういうわけだかコブレン自警団の
予備動作なしで振り回すだけで一撃で人を昏倒させる威力を持ち、高速回転に巻き込めば、相手の顔面を頭蓋骨ごと陥没させる。両端の
そのためコブレン自警団の団員たちは、誇示するような大きな武器や、大きな音を伴う武器を街中で持ち歩くのが
その武器が見えた。
大鎌の黒塗りの刃が右に左に閃いて、赤く透き通る色彩が城壁に沿って垂直に飛び上がった。建物から観戦を決め込んでいた市民たちがどよめき、驚嘆する。大鎌の刃を下ろしたアエリエが、ハァ、と鋭く息をついた。
「アエリエ! 怪我はないか」
「ミスリル」息は乱れ、汗をかいているが、藍色の瞳は冷静だった。「一緒に星獣を止めて!」
見上げる黄色い石壁の
弩を路面に向けた。
矢が舗道に突き刺さる音を聞きながら、小塔に飛び込んだ。螺旋階段が壁を巻き、上れば光が見えてくる。
出口から差す日光だ。
三本の棍を大きな右手に握りしめ、城壁の上に飛び出した。
そこに、なるほど
短い四肢。
ずんぐりした身体。
垂れ下がった腹と、鎧のような皮膚。
蹄はそこだけ透明無色であり、たゆたう波の模様。
透き通る胴体は八角形のタイルを敷き詰めたようで、それが真紅の色彩の正体だった。
真紅の八角形のそれぞれが、混乱を誘うように、何らかの模様を渦巻かせている。ミスリルは模様から注意をそらし、太く鋭い牙に目を移した。
銀に輝くその牙に、ただ一人対峙して立つミスリルの姿が映っていた。その姿が、己の武器を見せつけるように、右腕を前に突き出した。
男は歌いながら後退しはじめた。その歌はまだ、唸るような声の、不明瞭な旋律でしかなかった。