残り八人
文字数 3,295文字
星獣が
もうじきその脚に蹴り倒されるであろうというとき、逃げ切れぬことを悟った少年は根性を見せた。
足許に転がる木の枝を拾い、星獣と向き直るや、枝を振りかぶったのである。
その
少年に覆いかぶさり、自らも土に倒れ込みながら伏せさせた。ミュゼは木の枝を回避すべく顔を
星獣は、二人の上を通り過ぎていった。
「よう、
ミスリルは少年の頭に手を置きながら膝立ちになる。
「強くなりたいか?」
土を水のように蹴立てながら、ミュゼの星獣は大地を滑り、着地の衝撃を殺す。森の木々にぶつかる直前、体全体に力を込めて動きを止めた。
少年はまだ半ば呆然としながら頷いた。
「うん」
星獣はミスリルの知らない歌を歌う。体に刻まれた動く模様が唇を開き、口ずさむ歌によって自らを制御しているのだ。
こんな星獣は見たことがない。
信じられない思いを抱きつつも、目の前の現実を冷静に処理した。
「……なに? お前」
ミュゼが星獣の首を返す。
ミスリルは問いかけを無視し、
「だったら良いこと教えてやるよ」
少年の頭から手を離した。
「攻撃するときは声を出すな」
その手を腰の
「力が逃げる」
えっ? と、少年が戸惑いの声をあげた。ミスリルが
戻ってきた棍を左手で掴む。今度は反対の端の錘が、もう一つ、砂の城の模様を壊した。
「……へえ、いいじゃん」
錘が空を切る。
星獣が後退しながら体の向きを変え、頭を下げて二本の角をミスリルに突きつけた。
「お兄さん、遊ぼうよ」
二本の角に挟まれて、額に描かれたワンピースの少女の模様が、悪夢のように真っ黒い口を開けてハミングしているのが見えた。
体が動くに任せて真横に飛び
「こっちへ」
リアンセの声。だがミスリルにかけた声ではない。彼女はミスリルの後ろで少年を誘導しようとしていた。
手綱を握るミュゼと、一瞬、目があった。その一瞬が果てなく引き伸ばされたかのように、病んだ、攻撃的な目つきがミスリルの瞳に焼き付けられた。
三節棍を振るう。
木登りをする子供の模様を破砕する。
すぐには止まれない星獣の上で、ミュゼは弩の狙いをミスリルに定めた。
時の流れが淀む感覚。
蹴り上げられた土の匂い。
夜明けに口にした固いパンの味の余韻。
体を締める帯。
足の指先に当たる靴の裏側。
磨き込まれた鉄製の棍に自分の体温が移っている。
乾いた風が鼻の奥を乾燥させる。
ミュゼが。
弩のレバーを、指で。
引いた。
バシュッ!
音がして、時の流れも、過度に鋭敏になっていた五感も元に戻る。だがそれも一瞬だけ。ミスリルが首を右に倒し、肩の真上、左耳の横を矢が掠め飛ぶと、低く下がった一対の角が目に飛び込んだ。
角が、大きくなってくる。
永遠の彼方に、実際には一秒未満の時間の先に死が迫っていた。突進によって星獣の角がミスリルの腹を突き破ろうとする、その直前、どうしたらいいかわかった。
体を斜めに傾ける。
右手から地面に垂らした三節棍を引き寄せる。
左腕を伸ばし――角を掴んだ。
聞こえるはずのない音、まさかという思いに打たれたミュゼが息をのむ音を確かに聞いた。
地を蹴る。
角を掴んだ左腕を支えにそのまま倒立。星獣はミスリルを振り落とそうと、後肢で立ち上がった。
ミスリルは星獣の額めがけて足を振り下ろした。全体重を乗せた右の踵が、ハミングする少女の模様を打ち砕く。
少女は
合唱。重唱。輪唱。ボイスパーカッション。その他模様の口から放たれていた歌が全て、朝日を揺らす悲鳴に変わる。
蹴りつけた勢いで足を上げる。
左腕を軸に体を左方向へ回転させながら、角を手放した。
あんぐり口を開けていたミュゼの、その喉が微かに動くのを見るや、ミスリルは空中で三節棍を横薙ぎにして標的のこめかみを打ちのめした。
錘が、ミュゼの頭蓋骨の側面の継ぎ目にのめり込んだ。周囲の皮膚がめくり上がり、衝撃に顔全体が波打ち、内側から眼球が押し出される。
脳にまで食い込んだ錘を、自らの体の重みでミュゼの頭の中から引き出しながら着地。
右手首を振って棍を引き寄せ、三本ともを握りしめる。
「こっちは遊びじゃないんでね」
その背後で、ミュゼの体がどさりと地に落ちた。
※
「滅茶苦茶だわ」
ミスリルの視線が弩にあることに気付き、リアンセは肩を竦めた。
「使わなかったわね」
「持っとけよ。いずれ使うさ」
リアンセは弩を上げ、両腕で支えながら、ミスリルの後ろに向けて撃った。前脚を振り上げた姿勢で硬直していた星獣は
「歌おうとしたんだ」ミスリルは帯に三節棍を挟んだ。「一撃で
流水で武器の汚れを洗わなければならない。
「子供は?」
「無事よ」
「撃たれた人は?」
「残念ながら」
顔色一つ変えぬものの、リアンセは残念そうにした。ミスリルも、振り返り、ミュゼの
「わかった」
「行きましょう」
「ああ」
二人は森へと歩いていった。
「今度の標的からは話を聞けるといいな」
「そうね」
集落に背を向けながらも、ミスリルの胸にはわだかまりがあった。罪のない女性が命を落とし、子供が孤児になった。その責任の一端は間違いなく自分にある。
振り向いた。
何か、黒いものが見えた。
「……は?」
つい間の抜けた声が出た。
俺はあるがままの現実を、見たままを受け入れられる人間だ、と自認していた。
空が落ちてくるまでは。
リアンセも隣にいて、「ええ……」と声を上げる。
困惑よりも呆れ。むしろ文句を言いたげな声で、ミスリルも彼女と同じ気持ちだった。
南の空から黒が押し寄せる。
色彩としての黒ではない。
全ての色が死んだ結果としての黒。
朝の爽快な青空が、きらきら輝きながら、死んだ色彩の辺縁でこぼれ落ちていった。
落ちてきた空の破片が刺さったら、痛いだろうか。
そう思ったときだった。
空を覆う死の拡大が急加速した。
条件反射の行動。
最も身近にいる自分よりも弱い者を、ミスリルは、その黒さから守ろうとした。
リアンセに覆いかぶさる。
だが、空から人を守れるはずがない。
どうしたらいいか? 今度はわからなかった。
(肆ノ歌集へ続く)