残り十二人
文字数 4,144文字
荷馬車が一台、一台、また一台と、フクシャ近郊の小さな町に吸い込まれていった。列をなす商人たちは、商会ごとに異なる紋章を衣服に縫い付けていた。日が暮れ、彼らは酒場に集まった。情報交換が行われた。
「カーラーンはもう終わりだな」
厨房の奥の出入り口に寄りかかって立つ用心棒の女が、長い睫毛に縁取られた青い宝石のような目をホールへと向けた。
あるテーブルでは、シオネビュラを訪れているソラートのミサヤ・クサナギ二位神官将補の噂が囁かれていた。
タルジェン沖は航行禁止になっているとのことだった。
ヨリスタルジェニカ艦隊が姿をくらました、と。
また別のテーブルでは、短期間で立て続けに起きた奇妙な暗殺事件の話で持ちきりだった。
「で、どうもよ、殺された連中に共通してるのが、ここ五、六年の間に星獣がらみの取引だの研究だのでリジェクに行ったことがあるんだと」
女用心棒は、高く結い上げた夜空の色の長い髪を後ろに払った
噂話は続く。
「直近の三件ほどは人目につくように行われてね。犯人はそう……創世……創世ナントカ……なんて言ったかな」
「『創世潰しのミスリル』」
皿洗いの少女が呟いた。赤茶色の髪の少女だ。
だが。
用心棒と皿洗いの関心は、今しがたカーラーンの名が飛び出したテーブルに向けられていた。そのテーブルで、女が立ち上がらされた。隊商には不似合いの、パッとしない、若い主婦であった。そのせいで、テーブルに注目するのは店の裏方の女たちだけではなくなった。
「おい! みんな聞けよ」三十そこそこの商人も、並んで立ち上がった。「この人はカーラーン・ダーシェルナキに市民兵として働かされてたんだ。まだ
テーブルの男たちは、露骨ににやけている者こそいないものの、どこか浮ついて見えた。
「もうコブレンにはいられないから俺たちが保護したのさ。さあ、コブレンで見たものを話してくれ」
用心棒が腕組みして見つめる中、女は青ざめ、震える唇で呟いた。
「星獣……」
震えているのは唇だけではなかった。
「なんだ!? 聞こえねぇな!」
野次に硬直する女に代わり、商人が答えた。
「星獣さ! 日輪連盟軍は星獣を使ってコブレンの市街地を制圧したんだ」
静まり返ったホールで、商人は一つ咳払いし、精一杯重々しい声で付け足した。
「星獣を使ってコブレンの二重城壁を攻略したんだ」
「星獣は攻城兵器にゃならねぇよ。
「自ら歌う星獣だ」商人は髭面の男に
ホールは一転、笑いに包まれた。
「戦争は変わる!」
その叫びで笑いは収まった。
「新しい星獣が戦場を変えるんだ!」
「待て、待て」髭面の商人は、半笑いで手をひらひらさせた。「仮によ、そんなものを市街地に投入したら何が起きる?」
「それはこの人が語ってくれる」
注目の中、女は蒼白な顔で俯いていた。髪で顔が隠れ、顎と口だけ見えていた。
「市街地で星獣たちはどうした?」
テーブルの下で商人が彼女の足を踏む様子を、女用心棒の、睫毛の影が落ちるサファイアの瞳が照らし出した。
「え? 言ってみろ」
「星獣は」長い沈黙の後、女はやっと答えた。「完全に日輪連盟軍の制御下にありました」
「あの人は『星獣が市街地で市民を虐殺するんじゃないか』と聞いたんだ。どうだ?」
「市民への虐殺は――」
荒い呼吸ゆえに、女の胸と肩は大きく上下している。
「――起きませんでした」
それきり崩れ落ちるように椅子に座り、テーブルに突っ伏した。
「そう。俺たちが見た星獣は市民を誰一人傷つけなかった。なのに無害で高価な星獣を襲い、奪い去ろうとした連中がいる」腕を広げ、「コブレン自警団をはじめとする無法者どもだ」
何人かの商人たちが話しに興味を失うなか、用心棒の目の光が、睫毛の奥で冷たく鋭くなる。
元の喧騒が戻りつつある中、商人は熱弁を振るい続けた。
「自警団の建物は日輪連盟軍が占拠した。あの街の他の無法者もだ。殺し屋市場は壊滅だ。だがコブレンは良くなる。新しく安全な
用心棒が動いた。長身の女だが、ほとんど誰の気を引くこともなく流れるように縫い歩き、椅子と椅子の間を通って店の出入り口に向かった。今まさにその出入り口から、三人一組の客が出て行こうとするところだった。
「お客様」用心棒が声をかけると、一行は半開きの扉の前で振り返った。「お代を頂きませんと」
身なりのいい壮年の男が一人。あとの二人は護衛兼従者といったところだろう。皿洗いの少女は走って裏口から出て行った。従者の一人が用心棒の肩に硬貨を投げつけた。
「釣りは取っとけ、女」
だが。
「いいえ」硬貨が落ち、床を転がりゆくのにも構わず、女は晴れやかな笑みを見せた。「お金じゃないんです、議長」
そのとき、半開きだった扉が外から大きく開かれて、従者の一人が外の闇に引きずり出された。短くくぐもった悲鳴に続き、どさりと人が倒れる音がした。
もう一人の従者は口を大きく開け、だが声を上げることなく主人を庇おうとした。壮年の男は従者を押しのけて夜の
逃げ去る男はグロリアナの町議会議長だった。彼は路地の闇に身を浸し、直後、後悔した。暗闇こそは暗殺者の主戦場ではないか。だが幸い、路地の向こうに広場の光が見えていた。賑やかな音楽も。
隊商付属の楽団だ。
果たして闇を駆け抜けると、炎の明かりの中で、歌と踊りが繰り広げられていた。篝火の前の踊り。炎を挟んで楽団。町の人々も家を出て集い、子供たちも夜更かしし、手拍子を打つ。殺風景な小さな町の広場も、今夜は華やかだった。
男は二つの事実に気がついた。
一つ。奏でられる楽曲は、年末の星獣祭にて奏でられる楽曲の一つであること。
一つ。篝火を背に立つ男が、人の輪に溶け込みながらこちらを凝視していること。顔は逆光で影に覆われているが、視線があったことだけは、はっきりとわかった。長身で、体つきの逞しい男だ。であるにも関わらず、周囲の人々は、誰もその存在に気付いていないかのようだった。
その男、ミスリルは、火の粉と黒い人垣を背景に、グロリアナから来た男へと足を踏み出した。標的が腰の剣に手をかけたときにはもう、抜いても間に合わないくらい距離を詰めていた。
右手にダガーを握りしめ、左手で標的の顔を掴んで体当たりを食らわした。標的を路地の暗がりに押し込んで口を塞ぐ。
「グロリアナ町議会議長クロヴァー」すぐには殺さない。「理由を教えてやる」
男は口からミスリルの手を引き離そうとしながら、見開いた目でしっかりと視線を合わせていた。
「住民から詐取した財産をリジェク神官団に流した。以上」
喉から放たれる呻き声、そして左の掌に受ける唇の動きで、標的が何を問うているか、ミスリルは察した。
標的の鎖骨の間にダガーを振り下ろし、心臓から伸びる太い血管を断ち切った。左手の指の間から、生ぬるい液体があふれ、こぼれた。
「俺か?」
崩れ落ちる男へと、ミスリルは質問に答えてやった。
「創世潰しのミスリル」
この異名を決する直前の、リアンセとの会話である。
『新しい神話』焚き火に枯れ枝を投じるリアンセは、彼女を憂鬱にさせているものの正体についてようやく口にした。『どういうことだかわからないわ』
『だったら古い神話について考えてみたらどうだ?』
満天の星、白色光を放つ天球儀の下で、ミスリルは
『俺たちに与えられた公式の神話はただ一つ。神である地球人は言語生命体を創造し、惑星アースフィアで共に暮らしたが、言語生命体たちの愚かさと野蛮さに愛想を尽かして立ち去った』
『つまんないわ』
『ああ、つまらないさ』
沈黙の中を、風が吹き去っていった。
『あの性欲坊主によれば、リジェクの神官は現行の神話を否定したがってるようだったわね』
我々は新しく生まれ変わることが必要だ。
リジェクの神官たちはそう考えていたそうだ。
『何か、そういう突飛なことを考えさせる何物かがグロリアナで見つかった』
ミスリルは木の枝で土に疑問符を描き、矢印を引いた。
『その後、アウェアクを含む星獣研究に携わる人間が、学問の分野を超えて集められた』
次の矢印を引く途中で、ミスリルは手を止め、リアンセに鋭い目を向けた。
『リアンセ。どうしてお前はアウェアクにあんなことを聞いた?』
『どんなこと?』
『ヒト型言語生命体を星獣に作り変えることは可能かって聞いただろ?』
『星獣奏の
眠たげなリアンセの様子に、ミスリルは表情を和らげて肩を竦めた。
『新しくも神話でもないな』
『でも、星獣奏に含まれる伝承はどれも異色だわ。私はそう思う』
それに、と、土に広げたマントの上に横たわりながら、リアンセは続けた。
『リジェクが歌流民をかき集めているのは知っていた。星獣の量産体制に入ったんじゃないかって。でも、この時勢でそんなものを量産してどうするつもりなのか、誰も掴めていなかったわ』
『陸軍情報部でもか?』
『正確に言えば』リアンセは肘をつき、手に頭を乗せて支えた。『掴んだ人は殺された』
明日は我が身よ、と付け加えた。
今、ミスリルの手の中で、一つの命が息絶える。死体からダガーを抜いて、投げ捨てた――ダガーではなく死体のほうを。
ミスリルにはある狙いがあった。この異名が暗殺事件の噂と併せて広まれば、もし自警団が追っ手を放っている場合、必ず噂を聞きつける。
追っ手はアズだろう、と、ミスリルは考えていた。他に適任者はいない。どのような再会になるのか。再会の時は来るのか。ミスリルにはわからない。彼は走り去り、闇に声が残った。
「あと、十二人」