公女シルヴェリア
文字数 2,390文字
「まあ座れ」
手と剣を洗い、シルヴェリアに勧められるまま、乾燥して座面がささくれ立った古い椅子に座った。テーブルも椅子と同じようなありさまで、天板の木材は収縮し、つなぎ目に穴が空いている。一息つくと、ないよりはマシといった程度の外れかけたドアの向こうで雨が降り始めた。あの戸の向こうで流された血を洗ってくれるだろう。
岩肌をくりぬいて作られた、ゴンドラ作業員たちの古い休憩所。それを隠れ家とするシルヴェリアは確かにただの上流貴族の娘ではない。しかし、どこにいようとも、また娼婦のように肌を露出する衣服を好もうとも、品格は本物だった。
歳は
シグレイは陸軍を私物化しようとしている、と指弾する声は少なくない。ただ公爵家の親衛部隊などは珍しいものではなく、南西領においても過去に存在したものだ。何故今それを再編成するかといえば、理由は単純。大きな戦に備えているからに他ならない。
「北方領の『月』に関してロアング中佐が話したじゃろうが」
シルヴェリアはいきなり本題に入った。
「はい、殿下」
シルヴェリアは銀髪をほどき、後ろに立つフェンに好きにさせるがままだった。フェン・アルドロス少佐。数ヶ月前まではシルヴェリアの副官で、師団長を退任するにあたり引き抜かれた人材の一人だった。容姿端麗、頭脳明晰、剣の腕は立ち弁舌は滑らか。ただし素行がよろしくなく、行く先々で情事に絡むいざこざを引き起こし、中央司令部においては職場の人間関係を完全に崩壊せしめ、ついには前線送りとなった経緯を持つ。今は上機嫌にシルヴェリアの髪を二つに分けて、ツインテールにしようとしているところだった。
「最後に『月』の所在が確認されたのがどこかは知っておるか」
「鉱山街コブレンであると伺っております」
「左様。ところでこの『月』を探し回っておるのはリジェク・北ルナリアも同様でな。コブレンに潜入した間諜によると、北ルナリアの市長がコブレンの自警団を呼び出しておる。コブレンで起きた『月』にまつわるいざこざについて知りたいとな」
「『月』にまつわるいざこざとは、どのようなものでしょうか」
「あの『月』は歌の作用に干渉する力があるようでな。とある馬鹿が自警団の団員に向けて星獣をけしかけたところ、それは化生になりかけて自滅した。ところがだ」
シルヴェリアは何故か仏頂面だ。
「その事件が起きた日には、『月』の持ち主の男女はもコブレンにおらなんだ。わかるかえ?」
「
「残していったのか、自警団が何も知らずに奪ったのか、またはコブレンを出城したのが偽物だったのかはわからんが、とにかく自警団の連中が翌日コブレンを出たことは確認が取れておる。男二人と女一人と、犬一匹だ」
「犬でございますか」
「奴らが何を考えているかはわからん」
シルヴェリアの指がテーブルを叩いた。ツインテールはリアンセから見て右側が完成しており、フェンはもう片側を仕上げにかかっていた。
「私にも父にも廃墟を増やす趣味はなくてな。コブレンの市長には未だ何も告げてはおらん。もし自警団の連中もこれ以上関わり合いたくないと思っているのなら、『月』をさっさと北ルナリアなりリジェクに差し出して街に引きこもるじゃろう」シルヴェリアは一度、唾をのんだ。「だが、奴らは『月』を北ルナリアまで持って行かんかもしれんな」
身を乗り出すリアンセに何も言わせず、すぐに言葉を継ぐ。
「『月』が南西領に入った時点でシオネビュラとは連絡を取り合っておってな。シオネビュラの働きかけもある。コブレンの自警団は神官たちの戦争に関わり合いたくないはずじゃ。だとすれば北ルナリアにもシオネビュラにも『月』を持って行かぬ。かといって自分たちで保管するのはもっと恐ろしい。ではどうする?」
「安全に保管できるところへ持って行こうとするでしょう」
「それはどこじゃ?」
「歌の作用に干渉するのであれば、まず人や星獣がいない、または少ないところ。聖遺物への知識がある神官たちがいるところ。リジェク・北ルナリア・シオネビュラとは距離をおいているところ――」
「該当するのは?」
口からつんのめるように言葉が飛び出した。
「タルジェン島ヨリスタルジェニカ神官団」
シルヴェリアは頷き、初めて笑みを見せた。
「
「はい、殿下」
リアンセもまた、己の口許に笑みが浮かぶのを感じた。姉さんに会える――。だがすぐ気を引き締める。シルヴェリアも笑みを消した。
「そして正位神官将シンクルス・ライトアローはそなたの幼馴染であり、我が父とも良好な協力関係を保てておる。自警団の連中がもしタルジェン島に向かわずとも、そなたにはそこで仕事があろう」
ちょうどツインテールが完成した。シルヴェリアが静かに立ち上がる。副官に指揮杖を持って来させた。その先端の飾りがテーブル越しに突きつけられ、リアンセは立ち上がり、床に
「そなたは私の剣となれ」
ヤマネコの意匠の飾りが肩に触れ、リアンセは深々と
「光栄でございます、殿下」
「タルジェン島に向かえ」最初の命令が下された。「私がよいと言うまで帰ってくるでない。そこで見聞きした全てのことを私に報告せよ」
「承知つかまつりました」
騒ぐ胸中とは裏腹に、至極冷静な声音でリアンセは受け答えた。