星獣祭前夜
文字数 2,941文字
「レグロ・ヒューム」エーリカはしみじみ呟いた。「恐ろしいお方」
思案げで、嘆いているような、どこか諦めたような声音だった。エーリカの執務室には今はコブレン自警団団長グザリア・フーケがいて、その言葉を聞いていた。グザリアとはコブレンの戦後処理について話し合っていたのだ。エーリカは話し合いに疲れ、席を立ち、窓辺に立っていた。
空は薄く赤く色付いていた。これが最後の一日になるかもしれないと思うほど、緩慢な日没。
エーリカは決してレグロを過小評価していたわけではない。だが寄せ集めの月環同盟軍をこれほど急速に進められるとは思っていなかった。レグロは予期せぬ日没や夜明けという、兵士の動揺が最も大きくなる時間を突いたのだ。その時刻に突撃を仕掛けることにより、自軍の兵士に戦争のこと以外を考えられないようにした。
日輪連盟軍はライラ丘陵で蹴散らされ、今はレライヤ城砦に閉じこもっている。レライヤ。都の本来の地名だ。都は今もレライヤと名乗るべきなのかもしれない。エーリカは考えた。私が総督の座に着くことがあれば、
長い沈黙があった。グザリアはグザリアで、彼の思案の虜となっている。必要とあらば、その内容を語るだろう。
だが、沈黙を終わらせたのはグザリアでもエーリカでもなかった。
扉が叩かれた。
「エーリカ様、私です」
ララセルだ。至急の要件らしい。エーリカは窓に背を向けた。
「入りなさい」
専属護衛兼侍従長のララセル・ハーティ大尉が部屋に入ってきた。
「コブレンで――」
押し殺した声で話し始めたララセルは、扉を閉めると、ソファに身を沈める眼光鋭いグザリアの存在に気付き、言葉を止めた。
「お言いなさい」
ララセルに歩み寄る。
「コブレンで何があったのですか?」
「ですが」
「フーケ殿のことはお気になさらず。改めてお呼び出の上同じ話を繰り返す必要はないでしょう。コブレンで何が?」
「はっ。コブレンに保管されていた星獣兵器が全て破壊されました」
固まるエーリカとグザリアに、続ける。
「もう一件。北ルナリア副市長ジェレナク・トアン氏が殺害されました」
エーリカは胸が高鳴るのを抑えながら、ソファのほうへララセルを
「一つずつ話しましょう」
ララセルを座らせると、エーリカは最初の質問をした。
「その二つの情報は、いつ誰によってもたらされましたか?」
「岩塩道路を渡ってきた伝令によって、一時間前に総督府に伝えられました。現状をしたためた書状を検め、間違いなくコブレン司令直筆であることを確認したのちエーリカ様にお伝えしに参りました」
「このことをアランドも知っていますか?」
「既にお耳に入っているものと思われます」
「先を越された……」
グザリアとララセルが、視線でその意味を尋ねてくる。
「もし私が星獣兵器の弱点をいち早く押さえることができていれば、ダーシェルナキ家は連盟に対しもっと強く出られたという意味です」
「それはまだわかりません」
グザリアは真面目くさって答えた。
「いかにも星獣兵器を全滅させた者は、その弱点を押さえたからこそ成し遂げたのでしょう。ですが、連盟が同じ弱点を既に把握しているとは言い切れない。違いますか?」
エーリカが答えあぐねていると、ここぞとばかりにグザリアは押す。
「エーリカ殿下、我がコブレン自警団に、コブレンに対し隠密を派遣する許可を願います」
「何をなさるおつもりなのかしら?」
「北ルナリア副市長の死について声明を出しましょう」
冷たい殺し屋の目でグザリアは言った。
「コブレン自警団の声明ではありません。他の暗殺組織の犯行声明です」
「つまり、でっち上げですね」
「戦後のコブレン平定の下地となるでしょう。いいえ、しなければならない」
エーリカは同じくらい冷たい目でグザリアを一瞥してから、ララセルと向き直った。
「ジェレナク・トアンの死因は?」
「毒殺です。青酸によるものと医師は見立てております」
「犯人は」
「不明です。毒味役の少女が最有力候補ですが、当人は急性砒素中毒によって死亡しております」
「他殺?」
「自殺と見られますが、不明です」
「その最有力候補者は、青酸を所持しておりましたか?」
「いいえ、その痕跡はありませんでした」
「タターリスがいい」グザリアが言った。「タターリスの名で声明を出そう。コブレンの殺し屋市場の元締めです。高純度の青酸を抽出する技術力は、市内ではコブレン自警団とタターリスしか持っていなかった」
「その元締めを、日輪連盟に潰させると?」
「これ以上の好機はありますまい。殺し屋市場は壊滅です」
「あなた方に」エーリカはまだ湯気を立てている紅茶に一度目を落として尋ねた。「星獣兵器に何が起きたか探ることはできますか?」
「必ずや」
「具体的には?」
「オーサー師を送り込みます。七十を過ぎておりますが、現役の武術師範であり経験豊富な暗殺者です。それに弟子のレンヌを同行させます。まだ少女です。油断させて検問をくぐらせましょう。そして市内に残留する特殊部門の三人と接触させ、星獣兵器崩壊の当日に何が起きたか捜査する。ハーティ大尉、星獣兵器全滅当日の様子は書状に記されていましたか?」
「いいえ、フーケ殿」
次はエーリカが尋ねた。
「現在都に保管されている星獣兵器の様子は?」
「現在、至急の検数と検品が行われております」
「よろしい」
エーリカはグザリアに顔を向けた。
「コブレンに人を送るがいいでしょう。人選はお任せします。ただし、必ず生きて戻り、成果を報告すること。いいですわね」
「はっ」
グザリアは立ち上がり、一礼すると、部屋を出ていった。
その姿が消えると、エーリカは強張っていた肩の力を抜いた。ティーカップを取る。カップに左手を当てても、エーリカの心身が温まることはなかった。
「ララセル、星獣兵器はいつ実戦に投入されますか?」
「レライヤ城砦の防衛に運用する旨、総督閣下は今朝正式に署名されました」
「そう」
茶を啜る。ハーブの香り。エーリカは安らぐことがない。
カーラーンと同じ愚を犯さないためには、日輪連盟軍は都への退路を断つしかない。コブレンでは各区画を結ぶ橋が下ろされたままだったため、防衛用の堀が機能せず、混乱が起きたのだ。もっとも、星獣兵器の威力の前には結果は変わらなかったろうが。
「エーリカ様。同盟側が星獣兵器の弱点を既に把握している事態を想定しなければなりません。至急」
エーリカは頷いた。日輪連盟の上級将校たちに任せておくつもりはなかった。彼らは都の安定のために何の努力もしなかったのだから。ララセルの胸は痛む。どれほどのものを、エーリカ様は背負わなければならないのだろう?
しかも、明日からは星獣祭だ。最終日にはオロー伯を婿に取る。
「……よろしいのですか? エーリカ様」
「何がです?」
「あなたがご自由に使える時間は、残り僅かです」
「そう? 既にない、と私は思っていたけれど」
エーリカはまだ十八歳なのだ。
「私は将来の自由と引き換えに、十分に贅沢な暮らしと教育を享受いたしましたわ」
カップを置く。
「あとは、なすべきをなすのみです」
カップの中身はほとんど減っていなかった。