哀れな被造物たちよ
文字数 2,538文字
「で?」
リージェスが掘り起こした月の前で、ミスリルは皮肉っぽく願望を口にした。
「何も起きないから解散、ってか?」
月は包まれもせずに埋められていた。掘り起こされても、好奇の視線に晒されるそれは何の変化も起こさなかった。
灰白色の、大小の破片に砕け散った、土にまみれた月。
球体だったそれは、一番大きな破片を底にして、椀を重ねるように積み上げられていた。リレーネが屈んで月の破片に手を触れた。
積み上げられた形が崩れ、土に散らばっただけだった。
困惑と吟味の沈黙。
マナが歩み出た。
「タルジェン島にこれがあったとき、砂の書記官は意志を持ってこれをミスリルごと自らのもとに呼び寄せた。神殿に残る聖遺物の転送装置を使って」
「何をするつもりだ?」
リージェスが尋ね、マナが答える。
「同じことができないか、確かめる」
「よせ」ミスリルが割り込んだ。「ここには月環同盟軍の指揮官クラスの人間がいる。勝手にどこかに飛ばすのは――」
「黙ってくれ。私情で言ってるんじゃないのなら」
「私情があって何が悪い! 俺だって人間だぞ」
ミスリルとリージェスが険悪に睨み合う。二人をよそに、マナは片膝をついて月の破片をひとつ手に取った。土を払う。
「――これ」
破片がマナの膝の周りに散乱している。
「この欠片に隣接する部分なの、欠けているのは。今、私になっているのは」
「そのままでいい!」ミスリルは堪えきれず叫んだ。「戻ろうとするな! お前はいなくなるなよ!」
マナはほとんど無表情の、哀愁が漂っていなくはない目つきでミスリルを見つめた。琥珀の瞳。琥珀の髪。ミスリルは改めて思い知る。俺の娘だと。
「マナ、お前は本当に嫌じゃないのか?」
答えがないので、ミスリルは言葉を続ける。
「お前は、本当に俺が十一歳のときに生まれた俺の娘でいい。誰にどう思われようが知ったことか」
「私は本来、生まれるはずじゃなかった」
「『月』と『砂の書記官』とに戻ったら、お前はまた千年も砂の中で一人ぼっちなんだぞ!」
「『砂の書記官』との交信を開始します」マナは宣言した。「私の本体と」
言葉を失うミスリルをよそに、シンクルスが皆に解説した。
「宙域の地球艦隊を用いて南西領言語の塔と中継しているのであろう。『砂の書記官』は、もとは大気の組成を監視するための聖遺物であるから、この近辺にも書記官の器官が隠れているのであろうな」
黙れクソ神官。ミスリルは心の中で毒づいた。殺すぞ。
マナは月の破片を胸に当て、立ち上がった。
目を閉じて、十秒。
口火を切ったのはシンクルスだった。
「質問を初めても構わぬか」
マナのものとは思えぬ、無個性で感情のない声が答えた。
『構わない』
だが確かにマナの口から発せられた声だった。
「砂の書記官よ、月がこの時空とは異なるアースフィア、平行宇宙からもたらされたという説は
『真である』
「別大陸にいるはずの地球人たちはこの事態を把握しているか」
『このアースフィアに地球人はいない。一人もいない。別の宇宙へと逃げ去った』
「逃げ去った? なにゆえに」
『この宇宙の熱的死から逃れるために、別の若い宇宙へと旅立つべく、時空の破れ目を探す漂流の旅に出た。
「それは、地球人が言語生命体を囲いの大陸に封じ込めてからどれほど
『百一年後の出来事だ』
「わからない」ミサヤが割り込んだ。「どうしてそんなに大事なことを我ら神官に隠していた」
『隠していたのではない。聞かれなかったのだ』
沈黙。
シンクルスが質問を変えた。
「月を元あった時空に送り返すことは可能か」
『否』
「何故できぬ」
『その宇宙は死に、新生した。無理に送り返せばその宇宙を論理破綻によって崩壊させることになるであろう。お前たちは自らが生き延びるために、別の宇宙を滅ぼすか』
これにはシンクルスも答えあぐねる。
次に質問をしたのはシルヴェリアだった。
「異次元の月がこの世に存在していることと天の巡行の異変には、どのような関わりがあるか答えよ」
『別の宇宙の産物というありえないものがあることによって、この時空の〈時間〉と〈空間〉という軸に対し、新たに〈可能態〉という奥行きの軸が加わったと想像してほしい。
この奥行きの軸が深くなれば、熱的な秩序は崩壊し、全ての可能態が現実態へと移行する』
「たとえば?」
『たとえば、か。アースフィアの公転が止まり、地上の万物が宇宙空間に投げ出されるというシナリオはどうだ?』
「よせよ」
ミスリルは呟いた。そんな話をマナの口から聞きたくはなかった。
「では、書記官よ。世に言われる創造主の裁きだの罰だのいうのは全くの世迷いごとか?」
『世迷いごとと断じて構わない。新しい生命に関しても、人間の意識の届かぬところや目に見えぬ微小な生物はこれまで通りに繁殖している』
「最初の異変が天に現れたのは何故じゃ?」
『天にある最大の宗教的象徴』
天球儀。
今、囲いの大陸に生きるすべての者の頭上に輝いている。
『それが人の意識を天に向けさせ、不安が夜であったり、昼であったりという可能態を現実態に移行させたのだ。地球人が残した時計などの物品には異変が影響していない事実に注目せよ』
「まるで天球儀が物品ではないかのような言い種じゃの。あれも天の巡りに合わせて輝きを放ったり消したり変化しているではないか」
『天球儀が物品ではないという事象も
可能性としてあり得る
』「私はそのような返事は好まぬ」シルヴェリアの靴底が土を
『それはお前たち言語生命体がどのような可能態を選び取るか次第だ。現在の天球儀は、存在すると同時に存在しない、重ね合わせの状態にある。私はこの世界の月となり、お前たちの選択を見守ろう』
マナの姿が消えた。瞬時にして月が彼女になりかわり、息をのむミスリルの前で、男の声で言い残した。
『お前たちの世界の可能性を、慎重に選び取るが良い。言語生命体。哀れな被造物たちよ』
月が、昇っていく。
「マナ!」
ミスリルは捕まえようとした。その指先をすり抜けて、月は急上昇。
力なく見上げた空には、久しく目にする満月が輝いていた。