おとぎの国から来た月は
文字数 2,398文字
「神官連中に介入されたくないんだ。わかるように答えてくれよな」
月に歩み寄ろうとするリレーネを視線の力で制し、
「でなきゃ、お前らを神官どものもとに突き出す」
「それが神官どもの言う聖遺物じゃないのは本当だ」答えたのはリージェス。「盗んだわけじゃないことも」
「だったらどうして追われている?」
「言い方が悪かったな。少なくとも『神事局庁に登録されている聖遺物』ではない」
聖遺物。それは地球人が囲いの大陸に残していったオーバーテクノロジーの産物で、その全てが神官たちの手によって保管される。言語生命体たちの世界で文明が退行し、科学技術が失われ、歴史と神話が融合すれば、
聖遺物は、今ではどのような原理で動作ないし存在しているのかわからないものばかりだ。中には何のために存在するのかわからないものもある。たとえば寝室に浮遊する月のような。
「本名は?」
話がややこしくなる前に、ミスリルは質問を変えた。
「リージェスが本名だ。リージェス・アークライト。その娘の詮索はやめてくれ。月に関してなら答える」
「お前はこれを何だと思う?」ミスリルは月を顎で指した。「何だと認識してるんだ?」
「本当の意味の聖遺物で間違いないと俺も思っている。つまり、囲いの大陸の文明レベルでは解き明かせないという意味で」
「これをどこで見つけた?」
「見つけたんじゃない。『それ』のほうからやって来たんだ」
「お前のところに? リレーネのところに?」
沈黙。
「私のところにですわ」
ようやくリレーネが、やや低い、震えを殺す者に特有の
「それは発見されたものではありません。いろいろな神殿と神官の元を訪ね歩きましたが、きっと新しく来たものですわ」
「どこから」
少女は狂気に侵された素振りもなく答える。
「太陽の王国から」
「どうしてそう思うんだ?」
うんざりした口調にならないよう気を付けながら、ミスリルは問いかけを続けた。
「太陽の王国だなんて、『
沈まぬ太陽が支配する、
そのような場所はアースフィアのどこにも存在しない。
アースフィアの自転が止まりでもすれば別だが。
「それに、聖遺物を作れるのは地球人だけだ」
「作ることができるなら、壊すこともできるだろうな」
リージェスのその言葉は受け答えになっていなかったが、そのときミスリルの注意は、月に歩み寄るリレーネに向けられた。
華奢な少女だった。ほっそりした白い腕が月に向かって伸ばされると、蒼ざめた月は天井付近の暗がりから少女の
ミスリルは視線を落として月の破片を凝視する。
「……壊れたのか?」
リージェスは面白くもなさそうに吐き捨てる。
「まさか」
「それ以上何も聞くな」
テスのものでも、ましてジェスティのものでもない男の太い声が、戸口からかけられた。
体格のいい、五十がらみの男がそこにいた。部屋着の上に腰帯を巻き、誇示するように、黒塗りのダガーを差している。もとは黄色かった髪は白っぽく色が抜け、もとは青かった瞳は、灰色になっている。いずれも加齢によるものだが、全身の筋肉は立派で、その体を駆け巡る生命力には若さが感じられた。
「団長」
若干の抗議を込めて、ミスリルはグザリア・フーケ、己の師であるその男に呼びかけた。
自警団長はゆっくり、しかしきっぱりと、首を横に振った。
「それ以上知るな。厄介なことになるぞ」
「尋問は終わりか?」リージェスは、もう苛立ちを隠そうともしない。「じゃあ次は俺たちにどうしてほしい?」
「明日の朝一番で出ていってくれ。今出ていかれたらまた面倒を起こされるからな」
リレーネが、しゃがみこみ、慣れた手つきで月の破片を集め始めた。リージェスが頷き、ややあって答えた。
「わかった」
※
翌朝、客人たちは命じられた通りに出ていったが、それによって館内は二人の噂で持ちきりとなった。ジェスティは、見たものについて秘密を守った。なにせ、本当のことを言い広めればがっかりして沈静化するという種類の出来事ではない。
客室は、二人の客の痕跡をかき消すように掃き清められた。そのときに、リレーネの白い指の間からこぼれ落ちた月の破片が一つ、箒に当たり、採光の乏しい部屋のさらなる暗がり、ベッドの下に押し込められたことを誰も知らなかった。
「どうして追われているのに城壁のあるコブレンを通ったんだろうな」
塔の裏手の水場で、ミスリルはアエリエに意見を求めた。彼らの足許には数羽のニワトリが餌を求めてうろついていた。
「コブレンの入城証明が必要だったかもしれないわね」
北方領からの旅人は、西方領を通過して南西領に入ったのならば、
「じゃあ行き先は都か……」
「都か、もっと南方か、でしょうね」
どちらともなく黙り込む二人の頭上、掃き清められた客室で、月は床板の上で自ら動いて微かな音を立てる。
角が取れ、その中心部が盛り上がり、破片は自ら丸くなる。完璧な球体となり、ベッドの下のわずかな空間、垂れ下がる
もちろんこのこともまた、まだ誰も知らなかった。