帰趨
文字数 2,893文字
保安局本部は、今や市街戦の最前線となりつつあった。アセルには保安局を諦めるつもりなどないはずだった。必ず押さえておかなければならない重要地点だった。コルが余計なことをしなければ、この堅牢な構造物を、月環同盟軍のために確保しておくことができたはずだった。
で、コルを止められなかった責任は誰にある?
自分だ。
「ロアング中佐、エーリカ殿下が面談をお望みです」
リャン・ミルトが知らせに来たとき、アセルは、エーリカは自宅と戦場の区別がつかないのかと思った。外では狩りが始まっていた。誰が何を狩るか? 日輪連盟軍が、都解放軍とゼフェルの後継軍を狩っているのだ。家族もだ。
捕らわれた市民――同志の家族――の解放に出向いたいくつかの分隊が全滅したとの知らせを既に受けていた。月環同盟軍が都に食い込むにつれ、都解放軍は活躍の余地を少しずつ失い、それぞれの拠点に押し込められる部隊が出てきた。
アセルもまた、そうした拠点、なんの変哲もない民家で指揮をとっていた。この家の暗闇で息を潜めていれば、外を走り回る敵兵の臭いを嗅ぐことさえできた。もう何日も洗濯していない服、汗、髪に振った
「話したければここまで来いと言え。私は暇ではない」
「既に裏口においでです」
アセルは照明のない、窓に鎧戸がされたままの部屋で、テーブルに広げた地図から目を上げた。
「目隠しを解いて差し上げても良いでしょうか?」ミルトは率直に言った。「我々の同志と出会って以来、殿下はここまで目隠しをして歩いてこられたのです」
仕方なくアセルは聞き返した。
「何人で来たのだ?」
「エーリカ殿下ご本人と侍従長のお二人です」
かなりの覚悟らしい。
「私が裏まで行こう」
エーリカは家の裏口、閉ざされた扉を背に立っていた。ララセルもろとも目隠しをされたままだ。ここにも照明はなかったが、マントの下から乗馬ズボンを履いた細い脚が伸びているのが見えた。
「南西領総督アランド・ダーシェルナキが姉、エーリカ」
堂々と名乗る彼女の前に立ち、アセルは手ずから目隠しを解いてやった。
「都解放軍アセル・ロアング」ララセルの目隠しも取ってやる。「有意義な面談を望みます」
「私は調停者ではありません」エーリカは言った。「私たちは平和を祈りながら殺しあうことができます。矛盾なく。今は弁舌のときではございません。ですが我々は互いの意思を耳にすることができるでしょう」
「一体何を仰るのです?」
「我々は立場を異にしながらも、状況に応じて協調し、都の安定を可能な限り維持して参りました。今また私があなたに心を開けば、あなたは受け入れてくださるでしょうか?」
アセルは返答に詰まった。エーリカが何を考えているのか全くわからなかったのだ。
エーリカを恐れているかと、これまでに問われたならば鼻で笑っただろう。今は違う。
暗闇の中でもエーリカの両目は冴え冴えとしていた。
「あなた方は、よくぞ都の門を内側から開いたものです」
エーリカは沈黙を受け、続けた。
「わからないのは、その後の火災のことです。月環同盟軍の突入に、焼け死に焼け出される市民が必要でしたか?」
「あの火災は断じて我らの手によるものではありません、殿下」
「決して?」
「決して」
「都の門を開いてみせたように、あなたには火災の責任を追及する能力がおありだと信じてもよろしいかしら?」
アセルは、よく考えてから答えた。心を開く、と、エーリカは言ったのだ。
「たとえ陸軍情報部特務機関局の事務所が二度と手に入らなくとも、私は必ず火災の原因を突き止めて、犠牲の責任を負わせましょう」
「私が必要としているのは、中佐殿、正義を行う者です。少しでも善いことを」
ダーシェルナキ家に正義はあるのか? アセルは問いたかった。日輪連盟に? まさか。ないからエーリカはここに来たのだ。かと言って、月環同盟や都解放軍に正義をあてこむようなうぶな小娘であるはずがない。
アセルは理解した。問われているのは俺なのだ。俺個人の資質なのだ。
「殿下は心を開くと仰られた」アセルはようやく答えた。「私には受け入れる準備ができております」
「コブレンからの増援は来ません」
「そうでございましょう」
「この戦、日輪連盟に勝ち目はございませんわね」
本当に、エーリカはコブレンからの救援をあてにしていたのだろうか? アセルは考えた。俺はゼフェルの後継軍をあてにしたか? ああ、少しはあてにした。で、このざまだ。
南西領の都を失ったところで、日輪連盟には他の戦場がある。ダーシェルナキ家にはない。ゼフェルの後継だって、ある意味では日輪連盟と同じようなものだ。都を失っても、いずれ別の時代、別の地域でわらわらと湧き出て鼻クソみたいな理想を吠えるだろう。だが、奴らが都を荒廃させて去ったあと、おかたづけをするのはアセルたちなのだ。
出し抜けにエーリカは宣言した。
「私、第二公女エーリカ・ダーシェルナキ、侍従長ララセル・ハーティ大尉及び侍従十一名は、この場であなた方都解放軍に降伏いたします」
これにはアセルも度肝を抜かれた。
ララセルが、隣で深々と頭を下げた。殿下を頼みます、というように。
エーリカは勝ち馬に乗りたいのだろうかと少し思った。それとも、勝った後の理想を描いているのか。
「宣言をお受けいたします」アセルは即答した。「して、殿下はこれから何をなさるおつもりでしょうか?」
「総督府に戻り、アランドを説得します。戦闘の
「ならば一刻の猶予もありますまい」
アセルはミルトをちらりと振り向き、言った。
「ミルト中佐、殿下がお戻りの際にはもう目隠しは必要ない。侍従たちのところまでお帰ししろ」
「はっ」
「必ず戻って参ります」エーリカは言った。「うまくいっても、いかなくても」
混沌たる市街の暗がりを縫い、エーリカは侍従と馬を待たせている地点まで戻った。そこから総督府への帰還が始まった。侍従の一人が先触れとなり、エーリカの乗る馬を通させた。
彼女がずっと平和のために走り回っていたことを知る陸軍の兵士たちは、走り回るのをやめ、道を開け、
その中を、エーリカは、松明に頬を染めながら颯爽と進んでいく。
総督府や議事堂がある都の中枢部にいたる道路には、跳ね上げ式ではない、地球人統治時代からの二つの橋があった。
星獣兵器に失望した日輪連盟の将兵たちは、役立たずのそれよりもっと素敵なもので、橋を通る月環同盟軍の足止めをしようと考えた。片方の橋に、殺された月環同盟軍や都解放軍の兵士とその家族の生首を、もう一つの橋にその胴体を遺棄したのである。
その犠牲者の一人は、ヴァンだった。