慈悲を乞う
文字数 2,571文字
「あの娘は死者の霊に体を貸しているのです」
エーリカは既に本来の指揮所を引き払っていた。彼女が指揮所と呼んだのは、広場の四方に幕を引いただけの、天井すらない、もう椅子もない、焚き火のあとだけ残る空間だった。
「純潔の乙女だけがそれを許されます。異端の信徒の行いですが、害はなく、これまでのコブレンでは黙認されておりました」
「これからはそうではない、とあなたは思ってらっしゃるのですね」
その通り。
北ルナリアの副市長は、リジェクの神官将は、目障りなものは斬る。耳障りなものも。その相手が無害な小娘だろうが関係ない。
幕の内側には、レミ、エーリカ、専属護衛の陸軍人ララセルの三人だけがいた。ララセルは幕が二枚重なった出入り口の近くに立ち、存在感を消しながらも剣の柄に手を置いてレミのほうを向いていた。
「お久しゅう。ご無事で何よりですわ、レミ・イスタル様。ですが再会のご挨拶すら今は
いかにも忙しそうに素っ気なく、だができるだけ情がこもって聞こえるようにエーリカは言った。
「ですが、どうぞあなたのほうからお話になって。ご用件を伺いますわ」
レミは、正面の幕の真下に栗のイガが転がっているのを見つけた。誰かが蹴り込んだのだろう。
栗の木は、コブレン自警団本部の敷地にも生えていた。拾われてきたばかりの頃、レミは乱暴で、よく他の子に物を投げつけた。自分が捨てられたことを理解して、傷つき、動揺していたのだ。内気で臆病なアズは、二歳年下の女の子のレミを怖がって近付いてこなかった。トビィは違った。おもちゃを独り占めし、栗のイガを投げつけて威嚇するレミに歩み寄ると、大声で叱りつけたのだった。
「私たちコブレン自警団は、先の戦いで星獣の暴走から市民を守るべく奔走しましたが、その結果戦力の多くを失いコブレンを追われました」
時間がないエーリカのためにレミは本題に入った。
「我々には市民の生命、身体、及び財産を守る義務がございます。日輪連盟軍が市内に連れ込んだ星獣をやむを得ず傷つけましたが、それがリジェク神官団の怒りを買い、市内に取り残されたコブレン自警団の非戦闘員は見つかり次第縛り首にされています。このような状況では、我々は自警団としての責務を果たすことはできません」
「あなた方がただの自警団であれば、解散させて終わりでもよかったのでしょうね」
エーリカの声音が冷厳になる。
「ですが、あなた方は――」雪に目を細めながら、エーリカは
「左様でございます」
「謙遜をなさらぬ姿勢は好ましいものですわ。あなた方の仲間の非戦闘員が置かれた恐ろしい状況は私も存じております。ところで、他の生き残られた方々はどちらに?」
つまり、他の戦闘員は?
「それについてでございます」
固い声で言って、レミは改めてエーリカと視線をぶつけ合わせた。
「私は今日、コブレン自警団団長グザリア・フーケの申し出をお伝えいたしたく参りました。書状はございませんが――」
「お聞かせくださる?」
エーリカは遮った。本当に時間がないのだ。
コブレンでの視察の結果、エーリカはリジェク神官団及び北ルナリア市の代表者に二つの要求をした。
戦災に遭ったコブレン市民の救援案の提出。
市に対する補償をめぐる交渉への参加。
拒むなら、その結果はコブレン占拠の支援に必ず反映される。
結果は黙殺だった。
二日前、日輪連盟軍はカーラーンが森に放棄した備蓄を持ち帰った。その再分配はエーリカの立ち合いのもと、昨日終わった。エーリカはコブレンに留まる口実を失ったのだ。
無力を噛み締めて立ち去れというのだ。公女たるエーリカに。
「団長は」
レミは忙しいエーリカのためにきっぱりと告げた。
「コブレン市街からの星獣の排除を望んでおり、それは自警団の総意でございます。もしも殿下に星獣排除のお心づもりがおありでしたら、自警団の訓練された戦闘員は喜んで協力させていただきます」
一秒でも惜しいエーリカだが、これには二、三秒黙った。
「私と取引を?」
「滅相もございません。我らはただ、伏して慈悲を乞うばかりです」
「その宗教的な言い回し……」
エーリカは言いかけて、やめた。
「伏して慈悲を乞う、ですって? イスタルさん、私が何も知らずにあなた方を見くびっていると思っておられるのなら、それこそあなたの私に対する見くびりでございますわ。私が知っているもうお二方、オーサーさんと仰いましたわね、あのご兄弟が四十五人を数える武装商人と新型星獣五体からなる小隊を壊滅させたことを知らぬとでも?」
今度はレミが言葉を失う番だった。
「私も暗殺に怯える身。ときにあなた方自警団は、対暗殺者専門の暗殺組織という顔をお持ちですが」
エーリカはレミに歩み寄り、声を落とした。エーリカのほうが僅かに背が高かった。
「この通り名をご存じ?」
ララセルが一歩前に出た。彼女は明らかにエーリカとレミの接近を喜んでいなかった。
だがエーリカは十分すぎるほど近づき囁いた。
「『創世潰しのミスリル』」
「ミスリル?」
レミは顔に出さない。
ただ、黙るのみ。
「ええ。南西領コブレン以南において、新型星獣開発に関係した人間を暗殺して回る者がおり、そう名乗っていると」
ミスリル。ミスリル。レミは頭の中で繰り返す。
イスタル師はフーケ師と仲が悪かった。レミやミラに対して、フーケ師の
とにかく。
頭に浮かぶミスリルの面影は、
その目に問いかける。
ミスリル、一体何を考えているんだ?
「一つ、あなたにお伝えしたいことがございますわ」
エーリカは揺らぐレミの心を強く押した。
「あなたの二人のご友人、アザリアス・オーサーさんとトビアス・オーサーさんについてですが、ご遺体が見つからず、死亡が確認できておりませんの」
レミは奥歯を噛みしめて、動揺を隠す努力をした。
だが、もちろんエーリカには見破られていた。