起爆
文字数 4,109文字
「聞き返しはするまい」
それが、しばし黙り込んだのちのレグロの第一声。
足の下では歯車装置が音をたて続けていた。床が完全に上りきっておらず、わずかに残る隙間から音が漏れてくるのだ。
マナは目を閉じた。
「……懐かしい歌」
アエリエにはどうしても、それは歌に聞こえなかった。
「ここで一つ、フーケ殿が知らない話をしよう」
海風が吹いた。レグロの姿の向こうでは、港に次々と船が入り、カモメたちが鳴き騒いでいた。
「タルジェン島はそもそも地球人のための療養施設であり、ヨリスタルジェニカ神官団は本島及び離島に散るそれらの施設を聖遺物として守護する役目を負っていた。その設備には島と本土の間で人や物を転送する装置も含まれているのだが、フーケ殿、あなた方がタルジェン島から姿を消したその日から、南西領言語の塔の聖遺物である『砂の書記官』が機能を停止している」
はっ、と息を吸って、マナが目を開いた。
「このことは南西領守護神殿からの通達でわかった。聖遺物『砂の書記官』の役目は大気や水中に含まれる物質のデータを取りまとめ、宇宙艦隊に送信すること。それとも解説はご無用か」
「
私
は言語生命体たちの文明退化が順調に進んでいることを、宇宙空間に向けて千年報告し続けてきました。それは記憶の彼方」「記憶の彼方とは
「人間の体を得るにあたり」マナはこめかみに指を当てた。「必要のない膨大な過去のデータは引き継ぎませんでした。記憶の彼方という表現も、感覚的には正しくても事実としては不正確です。マナとして、人であるこの私として、地球人と交信を行ったことは一度もありません」
「では、
マナはレグロを見つめ返しながら黙っている。アエリエは迷ったが、結局助け船は必要なかった。
「そういう事件があったという知識はあります」
「罪悪感も引き継いだ」レグロは断言した。「……ほう、図星のようだ」
静かに目を伏せるマナの顔を鳥の影が
「償いをしたかったの」
目を上げず、呟いた。
「代理戦争の償いを。深い砂の中で、千年願っていた」
「もし可能であれば、あなたの発言が誇大妄想ではない証拠を見せていただきたい」
レグロが明朗な声で仕切り直す。
「南西領守護神殿はアースフィアに現存する聖遺物及び『月』の素性について『砂の書記官』に問い合わせた。あなたが『砂の書記官』であれば、その回答がどのようなものかご存知であろう」
「“『月』にまつわる記録は過去四千年にわたって存在しない。
私は太古歌の領域を探そう。
ここに至り、やっとレグロの顔から笑みが消えた。
沈黙。
アエリエの耳に、はっきりと歌と音楽が聞こえた。
シオネビュラの市民たちの口から歌が湧き出たのだ。
楽団までついている。
アエリエは振り向き、市街の様子を確かめた。
この北神殿へ至る大通りに、市民たちの頭が見えた。黒い髪、赤い髪、黄色い髪。音楽の発生源を覗き込んでいる。
「ああ……」
パレードが来ていた。マナが目を細めた。
「壊れた太陽の歌だ」
「いえ」アエリエは耳を澄まして否定する。「星獣奏の
「アエリエにはわからないの?」
戸惑いを押し隠す。わからない。レグロが尋ねた。
「して、見つけられたのか」
マナは答えず、体の向きを変えてアエリエのほうに来た。レグロに見つめられながらアエリエの手を取る。
「コブレンを出る直前に、アズたちと庭で話したことを覚えてる?」
腰を屈め、聞き返す。
「どんな話だったかしら」
「『月』が原因なく存在することはよくない。ゆえに私は『月』を取り込み、『月』の管理者として人間になった。人間には存在する原因があるから。親が産んだという原因が」
「ええ」
「ミスリルは親になってくれた」
パレードの風が吹き、マナの顔を赤茶の髪で半分隠す。
「だけど、やっぱり無理がある」
ミスリルと同じ色の髪を左手で払い、マナは繋いだ手をほどこうとした。
反射的に、アエリエは手に力を込めた。
「リレーネという名の少女が語る通り、『月』が
予期せず少女らしい笑いかたをした。
「止めたかったな」
「何をするつもりなの」
「レグロ・ヒューム二位神官将」
マナが強くアエリエの手を振りほどいた。幼さの残る顔は今や強張り、
「歌を止めていただけますか?」
レグロはただ訝しみ、「歌など――」
「いいから!」
金切り声。
「止めて!!」
絶叫がシオネビュラの空に響き渡った。アエリエは少女の細い肩に手を置いた。
「マナ?」
揺さぶった、そのときに、パレードの喧騒が群集の悲鳴に変わってマナの声に乗った。
混乱の合唱。
始めたときと同じくらい唐突にマナは叫ぶのをやめ、頭を抱えて蹲った。
「ここで待たれたし」
レグロが言い、視界から消えた。床が四つに分割され、彼の乗った部分が屋内へ降下したのだ。
マナが黙っても、群集は黙らなかった。取り残されたアエリエは、通りに集まっていた人々が、毛細血管のように入り組んだ細い道に広がっていくのが見えた。
大通りでは、色彩が暴れている。
「アエリエ」
星獣が後ろ脚を蹴り上げ、街灯を一撃でひん曲げるのが見えた。その
「ごめんね」
制御を失った星獣は一頭だけではない。アエリエは市街を見るのをやめた。足許ではマナがまだ蹲っていた。
「マナ」アエリエは屈み、背中に手を置いた。「どこか痛む? 吐き気は?」
「……例えば」
青ざめるマナは、吐き気を堪えるかのように、右手を口に、左手を喉に当てる。
「『言葉つかいの語歌』というのがあるけれど、一連の語歌の世界では、言葉が魔法のような力に変容する。
太古歌が変容すれば世界が変容するの。平行宇宙のいくつものアースフィアに生きるいくつもの魂が、太古歌の領域で、鏡のように互いを映しあう」
「待って、マナ。悪いけど理解が追いつかないわ」
眼前の少女が、急に知らない人になってしまった気がした。
「まずあなたは、太陽の王国や言葉つかいの語歌の世界が本当にあるという前提で話しているの? 言葉つかいが本当にいて、おとぎ話の世界から『月』がやって来たって」
「言葉つかいは一つの例。彼らはいない。このアースフィアには。だけど私たちは歌を通して言葉つかいを知っている」
「ただの物語じゃないの?」
「人に作られた物語じゃない。
アエリエ、さっき私はヒューム神官将に答えなかった。でもわかったの。『月』がどこを通って来たのか」
マナの背中から肩へ、アエリエは両手を動かす。優しく力を込めた。
「教えて」
「語歌、『壊れた太陽の王国』の世界。そこは外宇宙を繋ぐ私たちの集合無意識の接点。
太古歌の領域。
こことは違う時空のアースフィアに繋がる通路だよ」
※
問題は、タルジェン島に帰るべきか否かだ。
居留地の住人たちの浮かれた様子が目に焼き付いて離れない。あり得ない。馬鹿な。そんな。
ゾレアが立ち止まる。
居留地から急ぎ足で遠ざかっていたミサヤは、ゾレアに後ろから腕を引っ張られ、彼女が足を止めたことに初めて気がついた。
振り向けば、歌流民の少女の顔色は蒼白。民家が路地に影を落とすので、なおのこと精彩を欠いて見えた。
「どうしたんだ?」
ゾレアの凝視の対象が、ミサヤの顔から北神殿がある方角へ移る。
その方角で悲鳴が湧き起こった。
※
「どうしてわかったの?」
「装置」
短く答え、マナが立ち上がる。ふらついてはいない。レグロが消えた空間、眼下の、北神殿の最上階の部屋を指さした。
「この装置は聖遺物。地球人の耳や、歌に関する特別に鋭い感性を持つ言語生命体には、あの装置のたてる音が歌に聞こえるの。
流れていたのは壊れた太陽の歌だった。
それでわかった」
アエリエの耳は、マナの言葉と同時に星獣がたてる破壊の音も拾い続けていた。
兵を率いて二位神官将が出動したのだ。
『月』は星獣に作用し、化生に堕とす力を秘めていた。これまで二つの聖遺物、『月』と『砂の書記官』の融合物であるマナが星獣に作用を及ぼしたことはない。
今になってそれが起きたのは……もしも市街の騒乱にマナの存在が関与しているのなら……マナという人間、現に人体が存在するという事実を
「因果を持たずに存在――」
言いかけたマナに両手を伸ばし、アエリエは強く抱きしめた。
胸の中でマナの言葉が途切れる。
「大丈夫」
マナは息をしていた。
体温があった。
鼓動が感じられた。
「何があっても大丈夫」
人間だった。
「必ず守るから」
マナの驚きと緊張が、その体の固さから伝わってくる。アエリエはマナの頭頂に頬をつけた。目線はシオネビュラ市街の果て、北の城壁まで飛んだ。
緊迫した声で囁く。
「逃げるわよ」