愛する世界の歌
文字数 5,184文字
「それでは皆さん、休憩時間が近付いてまいりました。次のお話で今日はおしまいにしたいと思います」
再稼働した陶房の作業所で、製品の選別作業に勤む少女たちが朗読者に声をかけた。
「聞かせて!」
少女たちと朗読者の声は、作業所の裏の通りにまで聞こえていた。
「ええ。それではこれより私がお話するのは、言葉を魔法のように操る『言葉つかい』の物語。楽土を求めさまよう死者の巡礼団と、処刑刀を手にそれを追う、言葉つかいの青年の話をいたしましょう……」
補修され、殺戮の痕跡が跡形もなく消されたコブレンの舗道には、太陽の光が惜しみなく降り注いでいた。月も星も太陽も、滞りなく巡っていた。何事もなかったかのように。
何事もなかったわけがあるだろうか?
レミは作業所の裏の四つ辻に屈んで花束を置いた。こうした花束は、コブレン市街のどこにでもあった。新しいコブレンは花であふれるがいい。レミは願った。弔いの花であっても、殺し屋であふれるよりはずっと素晴らしいじゃないか。
「ここなんだな」後ろからテスが声をかけた。「アズとトビィが死んだのは」
「うん」
黄色いミモザの花束が、そよ風を受けて揺れた。手招きしているようだった。コブレン自警団本部の庭で摘んだミモザだ。二人の頭上で昼星が鳴き、小鳥たちが逃げていった。
「この場所で」
レミはミモザの小さな花びらに人差し指をあてた。
「この場所で、二人は、命を」
眩しさに目を細める。
「命を……」
歌語りが厳かな調子で続いている。レミは沈黙した。彼女は泣いたりしないことをテスはわかっていた。
レミはコブレン自警団の新しい団長となっていた。グザリアを失ってコブレンに帰還した自警団には、新しいリーダーが必要だった。若く、将来性のある者が。レミは期待に応える。できる、とテスは思っていた。レミ自身もだ。
ミモザから指を離し、レミは立ち上がった。
「……繋いだんだ」
※
南西領は王国として独立すると『女王』は宣言した。かくて多くの批判を浴びたダーシェルナキ家の親衛連隊は、王室親衛連隊として再編成されることとなった。連隊長はマグダリス・ヨリス大佐。
彼の妻ユヴェンサはこのところ妊娠の兆候を示していた。妻を休ませ、ヨリスは休暇をとった部下たちを自ら自宅でもてなした。
「俺の新曲聴いてくださいよ!」
ダイニングでクラウスが目を輝かせた。
「王室親衛連隊の歌の叩き台にしようと思ってるんですけどね、歌いますよ、『輝け、希望の――』」
「黙れ」と、ユン少佐、四ヶ月前まで上級大尉だったクラウスの上官が遮った。「街頭で歌うときのためにとっとけ」そしてキッチンに声をかけた。「ヨリス大佐、新しいワインを開けてもよろしいでしょうか?」
「君は私の家で酒を飲むな」ヨリスは左腕にボウルを抱え、プリンタルトの生地を作りながらキッチンから顔を覗かせた。それから訂正した。「飲んでも構わんが、服を脱いだらつまみ出す」
ヨリスは長かった髪をばっさり切っていた。もう伸ばすつもりはない。彼は自分の新しい顔を見つけ出しつつあった。子供が生まれたら、その顔はいよいよはっきりと現れるだろう。
「俺たちが経験したことは結局なんだったんだろう」
ヨリスの副官ミズルカが、苺を砂糖に浸しながら上の空で呟いた。
「やめてくれ」とリーン。「散々話したぞ。根掘り葉掘り聞かれたじゃないか」
「女王陛下御自らにね」アイオラはため息をついた。「話し飽きたわ。蒸し返すのはやめましょう」
新しいワインをボトルに注ぎながらアウィンも同意した。
「俺たち、あと百回は同じ話を繰り返さなきゃいけない気がするぜ」
「そう」ユヴェンサが頷く。「女王陛下がことの全貌を明らかにするまではね」
彼女はどこか満足そうに自分の腹に手を当てた。キッチンではヨリスが一人、タルトの型に生地を流し込みながら嘆いていた。
「俺はあと何回プリンタルトを作ってやらねばならんのだ……」
※
あの戦いと月を巡る一連の現象の全貌を解き明かすことは、いかにも南西領の新しい『女王』の使命だった。重要な証人であるリレーネ・リリクレストをいつまでも南西領に留めおくことはできず、春の訪れと同時に護衛武官パンジェニー・ロクシもろとも北方領へ送り返さなければならなかったのだが、急ぐことはない。ことの究明にはどのみち時間がかかる。
それに、大陸全土を覆う戦いは新たな局面に差し掛かっていた。王領を中心として大陸を一つの王国にまとめ上げるやり方は、とうの昔に限界を迎えている。南西領の独立宣言は大陸全土に衝撃を与えた。既にいくつかの地方があとに続こうとしている。対立の構図を月環同盟軍と日輪連盟軍という枠に収めることはもはや不可能だ。
「陛下、よろしいですか?」
控えの間に侍従長が姿を現したとき、『女王』は口角を上げて頷いた。戴冠式のこの日に放つ第一声は、民衆に向ける演説に取っておくと前日から宣言しているのだ。
「では、参りましょう」
侍従長は『女王』の手を取った。
二人は暗い廊下を進む。王宮となった総督府の二階のバルコニー、演説台へ。
旧南西領、レライヤ王国独立の日は、天候に恵まれていた。まだ春先だというのに初夏のような陽射しだ。素晴らしい日光の中へ、『女王』は姿を現した。
侍従長ララセルが声を張り上げる。
「我らが王国の女王、エーリカ・ダーシェルナキ陛下に万歳!」
広場を埋め尽くす民衆から歓声が湧き上がった。さまざまな帽子と旗が自分のために振られる光景を、戴冠演説を始めるまで、ドレスに身を包んだエーリカは、満ち足りた気分で見下ろしていた。
※
「本当によろしかったのですか?」
シオネビュラの港でフェンはシルヴェリアに尋ねた。
「あなたは新しい王国の女王になれる人物だったのですよ?」
「権力が惜しいなら、フェンよ、大陸に残るか?」
その意地の悪い質問に、フェンは嫣然たる微笑みで答えた。
「いいえ」
「こんな古くさくてくたびれきった王国などくれてやるわ」
「古くさい? 今日は新生王国の女王の戴冠式の日ですのに」
戴冠式の日は、新大陸へ向かう最初の船団がシオネビュラから出発する日でもあった。途中でヨリスタルジェニカ神官団の艦隊と合流し、シンクルスとその妻ロザリアが所有する古の海図を頼りに新天地を目指すのだ。
そこに地球兵器があれば、使うことができるなら、そしてここ囲いの大陸に送ることができるなら、戦争は予想もつかない様相となるだろう。
だがそんなことは、新大陸についてから考えればいい。エーリカはまるで追い出すように、出航の日を戴冠式の日と重ねたのだ。
シオネビュラの港では神官団自慢の艦隊が勇姿を見せつけていた。市民たちは都を見下ろすあらゆる建物によじ登ってまで、新世界へ向かう船と人々とを一目見ようと押し寄せていた。
「じゃ、私は行くから」
リアンセ・ホーリーバーチは見送りに来たミスリルとマナ、そしてアエリエに、親しみを込めて手を振った。
「元気でね」
「ああ、お前こそな」
ミスリルも微笑み返す。
「お姉ちゃん、クレープ買ってきたよ!」
そこへ、共に旅立つ妹のプリスがクレープを両手に駆けてきた。
「この大陸で食べるで最後のクレープだよ。船に乗る前に、はい!」
「そんなこと言わないで、戻って来ればいいじゃない」
アエリエ言葉に、クレープを受け取りながらリアンセは目を細めた。
「いつになるかわからないわ。私たち、ここには一生戻ってこれない覚悟があるの。まず新大陸に辿り着けるかどうかさえわからないし」
「そうね」
「無事を祈るね」マナが、ミスリルに作ってもらった陶片の護符に手を当てて言った。「ときどきでいいから私を思い出してね、
ママ
」「この子ったら!」
そのとき、乗船開始を告げる喇叭が高らかに鳴り響いた。
私は行くんだ。プリスの胸は高鳴っていた。怖くないと言ったら嘘になる。でも、ヴァンが与えてくれた勇気がある。この胸に燃えている。ヴァン、エルーシヤ、ハルジェニク。三人のことを思うと胸が締め付けられる。立ち直ったとはとても言えない。でも、前に進める。
「共に行けぬのが残念だ」
シオネビュラ神官団正位神官将ヤン・メリクルが、ソラートから使節として派遣されたミサヤの隣で呟いた。
「新大陸を目指すことを私も考えました」ミサヤは答えた。「ですが、やはり私はソラートの大地を愛しています。そこで息子を育てたい」
「私もだ」と、メリクル。「新天地を目指すには、歳をとり過ぎたらしい」
正位神官将の座をレグロに譲るとは言ったものの、当のレグロは二位神官将補メイファを伴って新大陸に行ってしまう。夢の隠居生活は当分お預けだ。
「私がお支えします」繰り上げで二位神官将に就任したニコシア・コールディーが言った。「我が補佐官ミオン・ジェイルと共に」
ミオンは密かに皮肉な笑みを浮かべた。彼は、この大陸を発つ船団の第一波が新大陸に到達したら、第二波に乗って行ってやろうと心に決めているのだった。
「お姉さん! みんなが行っちゃうよ!」
夜明けとともに新しい歌を高らかに歌ったゾレア、役目を終えて歌流民であることをやめたゾレアがミサヤの手を引っ張った。
「ゾレア、そう興奮するな」
船の甲板で、船乗りたちが太鼓を打ち鳴らし始めた。そのリズムにあわせてシオネビュラの民衆が手を叩き、踊り、それぞれが好きな歌を歌い始めた。
「……それじゃ」
いよいよリアンセはミスリルたちに手を振った。
「ああ」ミスリルは笑顔で顔の高さに拳を掲げた。「頑張れよ!」
リアンセはクレープを左手に持ち変えて、右手で拳を掲げ返し、ウィンクした。
マナは首にかけた護符を握りしめる。
祝福がありますように。
神がいるのかどうかはわからない。地球人たちさえ、一人としてそれは知らなかった。けれど、どうか、どうか、人々の間に勇気と希望の絶えることがありませんように。
※
リアンセたちが去ってから五日後の朝だった。シオネビュラ近郊の村外れの一軒家で、ミスリルはアエリエに叩き起こされた。
「ミスリル、起きて! すぐに!」
かぶっていた毛布をひっぺがされ、寝癖がついた琥珀色の髪をかきながらミスリルは不機嫌に起き上がった。
「なんだよ……」
「これ」
鼻先に紙を突きつけられる。
ミスリルは紙をひったくり、文面に目を走らせた。みるみる眠気が飛んでいき、不機嫌どころではなくなった。
マナの筆跡だった。
『親愛なるミスリル、アエリエ
世界に私がいることを認めてくれてありがとう。それと、身の回りのいろいろなことを教えてくれたことも。
ずっと心に決めていたことなのだけど、私はあなたたちから自立します。
月とも砂の書記官とも関係のない、ごく普通の人間に私はなりたかった。
それはできると信じています。それが、私が私になる唯一の方法なのだと確信しています。
だから、私は行きます。
普通の人々の中で働いて、普通の人として生きていきます。
これまでにくれたお小遣いを持っていきますね。
あなたたちには感謝してもしきれません。
愛を込めて。
マナ』
「どうする?」
呆然としながら、ミスリルはアエリエに聞き返した。
「どうするって言ったって……」
「朝方に外に出る物音を聞いたの。トイレに行ったと思ったんだけど……仕事を探すならシオネビュラに向かったんじゃないかしら」
マナの自立を阻む口実はいくらでもあった。だって、あいつはまだ世間知らずで、人間を善良なものだと思っているし、一人で買い物に行かせれば散々カモにされて帰ってくるし、大した小遣いを持ってるわけじゃないし、火を起こさせれば火傷するし、自炊なんてもってのほか、針で指を突き刺さずに服のほつれを直すことすらできなくて……。
ミスリルは頭を抱えた。
「急いで追いかければ間に合うわよ」
アエリエのその言葉にミスリルは頭を抱えるのをやめる。
そして決心する。
※
なだらかに下るシオン丘陵から大都市シオネビュラを見下ろすことができた。都市の数えきれない尖塔の間に太陽が照っている。都市はすっかり目覚めて、工業地帯からはいく筋もの煙が上っていた。
マナは明け方から二時間かけてこの丘の頂きにたどり着いた。だがもしミスリルが本気を出せば、三十分とかからずにマナに追いつくだろう。
爽やかな風吹き抜ける草原で、マナは一本道を振り向いた。
視野一面に広がる、羊たちが草を
誰も追ってきてはいなかった。
首から下げた護符を指でつまみ、マナはミスリルとアエリエの家がある方角にそれを掲げた。
誰にともなく微笑んで、体を前に向ける。
もう振り向かない。
燦々と降り注ぐ陽射しの中、都市へ、人々の暮らしの中へと、マナは大きく一歩を踏み出した。
〈完〉