いい子になれなかった罰
文字数 3,746文字
「死ぬほど眠いわ」
シルヴェリアが身を潜める娼館の一階、閉鎖されて久しい酒場で、椅子に掛けたリアンセは首を仰け反らせて天井を見上げた。
並べた椅子の上に横たわるミスリルが、テーブルの向こうから答えた。
「死ぬほど眠ればいいさ」
「そういうわけにいかないの。公女殿下に接見しなくては」
天井付近には横長の飾り窓があった。破れた窓の向こうには、夜明けの気配が近い。
シルヴェリアは今、居室でゼラ・セレテスと話し合っている。その話が終わったら、間を空けずしてリアンセがシルヴェリアと接見する手筈となっていた。
「あなたは眠ればいいわ。殿下にお会いするのは、今は私一人でいいし」
「なんでギルモアを殺したんだ?」
予期せぬ質問であった。
「なんでって、なんで?」
「そりゃゼラをあっさり生きさせるところを見せられちゃ、ギルモアの死はなんだったんだって思うだろ?」
「ゼラさえ生きていれば、ギルモアを生かしておく必要はなかった。それだけ」
「思うんだけど、陸軍情報部って、俺らコブレンの暗殺者よりも簡単に殺す判断をするんだな。それとも『殿下の命令』か?」
「ギルモアを殿下の前に引き出しても同じ結果になるって、相手の全体的な態度から判断したのよ。殿下のせいにするつもりはないわ。……そうね。結局、私が気に食わないから殺したの。私のありようの問題、望むありようの問題よ」
それにしてもわからないわ、とリアンセは続けた。
「私たちが何を望んだせいで、世界のありようはこんなになったんでしょうね」
ミスリルが椅子から身を起こした。
酒場の隅に行き、土足でテーブルに乗ると、飾り窓から外を見た。
「いずれ天球儀は
「どういう意味?」
「
でも、もし昼や夜がずっと続くようになれば、天球儀は物語と同じ役を現実に果たす。この世界が、物語めいた場所になる」
リアンセは、ギルモアにしたのと同じ質問をミスリルにもしてみた。
「私たちの世界は、どうしてこんなにもリアリティを失ってしまったの?」
ミスリルに答えられるとはリアンセも思っていなかった。ただ独り言を言った。
「壊れていく世界の一つ一つの事象と毎日顔を付き合わせなきゃいけない」
天井を見上げていたリアンセは、今度は深くうなだれて、背中を丸めた。
「世界と私たちの間には断絶しかない。もう新しい命は生まれない。太陽は一度昇ったら沈むかどうかわからないし、沈んだら沈んだで、また昇るかどうかわからない。なんなの?」
「何かの行いの罰だって、俺たちは思いたいのかもな」
テーブルから飛び降りて、ミスリルは並べた椅子に戻った。だが横にならなかった。
「星獣兵器を作った罰、親であり神である地球人にとっての『いい子』になれなかった罰……そういう物語があれば人は安心できるのかもしれない」
「安っぽい。あまりにも」
「ああ」溜め息と共にミスリルは頷いた。「俺もそう思う」
リアンセは意味のない恐怖を感じた。それは今や大陸全土を覆っているものだった。顔から血の気が引くのが自分でもわかった。恐怖はリアンセの指先を震わせて、去った。リアンセは悟った。この恐怖がいよいよ本気で襲いかかるとき――破局がもはや鼻先まで迫っている、されど為す術はないということを悟り切ったときには――自分を含む全ての人間に、恐怖に抗う術はないことを。リアンセが知るどんな優れた人々にも。ミスリルにも、シルヴェリアにも、ヨリスにも。
それから長くは待たされなかった。
「あら、よく眠らずに待っていられたわね」
迎えにきたフェン・アルドロスはドア枠にもたれかかり、ついてくるようリアンセを促した。ミスリルは眠ったふりをしていたが。
娼館の最上階にあるシルヴェリアの居室に招じ入れられるまで、リアンセは、床に転がるゼラの死体を見ることになるのではないかと思っていた。そうはならなかった。ゼラは生きて退室したようだ。夜明けの空を背景に
カーラーン・ダーシェルナキだった。
「待ちくたびれたぞ。死ぬかと思うたわ」
それがシルヴェリアの第一声。カーラーンは振り向きもしないが、その黒紫の髪と後ろ姿は見紛うべくもない。彼が雪の森林を踏破してきたばかりで、汚れ、疲れきっていても。
だが、何故自分が今ここに呼ばれたのだ?
「申し訳ございません、シルヴェリア殿下。その――」
「生臭坊主の金は手に入ったか?」
「はい?」
「トリエスタ修道院のアウェアクじゃ。ギルモアの軍を養うのに使うであろう?」
「はっ。財産の在り処は密書にてお伝えした通りであり、手形は私が肌身離さず身につけております。ところで殿下――」
「我が弟が気がかりか?」
寒気のする猫撫で声に、カーラーンが顔を上げる。
「カーラーンや、立ってよいぞ。あれが先に話したリアンセ・ホーリーバーチ中尉、陸軍情報部にある我が剣じゃ」
立ち上がり、体の向きを変えたカーラーンがリアンセに向ける目は冷ややかだ。
「貴様がホーリーバーチ中尉か」
「左様でございます、カーラーン殿下」
「我が麗しの姉がこの地に
「私はシルヴェリア殿下のお命じにより――」
「よい、リアンセ。カーラーン、そのようなことはお前の知る必要のないことじゃ」
「しかし、姉上」
「それより、お前のコブレンでの武勇を中尉に聞かせてやるがよい」
カーラーンの目に喜色が宿る。単純な、あまりに単純な――まだ少年だった。
「はい、姉上。中尉よ。私はコブレン防衛戦において、複雑な地形の上で巧みに騎兵と長槍兵を運用し、戦を有利に進めていた。敗因はただ一つ。コブレンの森に潜んでいた星獣兵器だ」
「そしてカーラーン、お前はコブレンに籠城した」
「はい、姉上。私の呼びかけに応えて多くのコブレン市民が勇敢に戦いました」
「だがコブレンの二重城壁も、市民兵も役には立たなんだ」
「星獣兵器は人間にとって初めて立ち向かう存在でした」口調が言い訳がましくなる。「あのようなものを相手取った経験は誰にもないのです、姉上、誰にも」
「いかにも、指揮を執ったのが私であっても結果はわからなかったであろうな」
「そのようなつもりで申し上げたのでは――」
「コブレン市民の被害は激甚と聞く」
「市民たちは我らを逃すべく自ら盾となったのです。姉上、この戦を我らの勝利に終わらせたのちは、コブレンに彼らのための記念碑を建てるお許しをいただきたいと思っております」
「弟よ、美談は勝者が作るもの。我らはまだ大局において勝ってはおらぬ」
「申し訳ございません。早まったことを」
「ともあれ、お前はコブレンを捨てて逃げた」
「軍を壊滅させるわけにはいきませんでした」
「それから、どうした。私はお前の話はもう聞いた。中尉に聞かせてやるがよい」
カーラーンは改めてリアンセと向き直る。
「我らには星獣兵器に対抗する手段がなかった。なればすべきことは一つ。少しでも多くの兵力を温存し、姉上のもとへ届けることだ。エーリカめによって途中で食糧やコブレンの財を手放すこととなったが、それでも私はやり遂げたのだ! 多くの犠牲を払ったが、私は姉上のものとなるべき兵を守り抜いた」
「カーラーンよ」
「はい、姉上――」
優しげな声に、カーラーンがシルヴェリアを振り仰ぐ。
瞬間、指揮杖の仕込み刃が現れた。
一跳びに台座を飛び降りて、シルヴェリアの長髪が銀色の軌道を描く。
さしものリアンセも目を疑った。
その刃が本当にカーラーンの胸を貫くとは思っていなかったのだ。
カーラーンの体が折れ、二歩、三歩とよろめいた。
「貴様の愛など要らぬ」
刃が抜かれ、カーラーンがくずおれた。意識があるのかないのか、呻き声を発し、だがそれもすぐに止んだ。
「フェンや、拭いておけ」
突き出された指揮杖を、ニコニコしながらフェンが受け取った。リアンセはまだ立ち尽くし、目をしばたたいていた。
「殿下、よろしかったのですか」
「こやつの連れてきた兵は要る。こやつは要らん。ところで中尉、例の『創世潰し』はどうしておる」
かわいがっていたはずの弟の骸に目もくれず、シルヴェリアは台座に腰掛けて尋ねた。
「ミスリルでしたら、今は眠っております」
「そのミスリルとやらと共にタルジェン島を訪れた殺し屋、マリステス・オーサーは我がもとにいた」
「はっ。連絡は受け取っております。ですが『いた』とは」
「ヨリスと共に都にやった。マリステスのことはミスリルに決して伝えるな」
つまり、ミスリルをリアンセの都合に付き合わせる時間を増やしてくれたというわけだ。
「はい、殿下」カーラーンの亡骸を挟んで、リアンセは恭しく頭を下げた。「決して」
ミナルタ市が中立放棄を宣言したのは、こうしてリアンセとシルヴェリアが再会を果たした十時間後のことだった。