終わりの前に
文字数 4,187文字
空は晴れているが、都の方面から厚い雪雲が押し寄せてくる。風が強いから、天気が変わるのも早いだろう。
「うっずらー、うっずらー」
ミスリルは機嫌がよかった。
「うずらんらん」
肉にありつけるからだ。
森の端で土を掘り、石を雑に組んで作った即席の竃に
リアンセは火に小枝を投げ込んだ。
「何その歌」
「即興!」
川で手を洗ったが、ミスリルの手には
「うずらのら、うずらのら、らんらんららら、らんららん……」
ミスリルは飯盒の中身をひと掬いし、口に運んで小麦と汁をすすった。
「美味い!」
「ねえミスリル」
「短調でも歌おうか」
「いいから」
ミスリルは無視して、今度はいかにも悲しげな調子で口ずさむ。
「うずらぁーんらら、うずらーららー」
リアンセは自分の
「貸しな。よそってやるよ。で、今何か言いかけたか?」
「ミナルタはガチョウ料理が美味しいことで有名なの。着いたら奮発してみない?」
ミスリルは目を丸くしながら、半分に分けたスープをリアンセに渡した。
「どういう風の吹き回しだよ?」
「いいじゃない。私だって美味しいものに興味がないわけじゃないわ」
皿を受け取ったリアンセは、肉の多さに驚いた。汁気がほとんどなく、ミスリルが獲って捌いた鶉で溢れかえっている。
「もしかしてさ」湯気と煙を挟んでミスリルが尋ねた。「今のうちに美味いもの食っておこうって魂胆か? 世界が終わるから?」
「そうかもね。でも今は鶉」
匙を使って食べると、しっかりと火が通っており、だが固くなるほど熱せられてはおらず、ちょうど食べ頃だった。噛むと肉汁があふれた。口を火傷しないようにゆっくり噛んで、呑み込んだ。
「世界が終わる前にミナルタで仕事しないと」
ミスリルを見る。彼は飯盒の前で瞑目し、ほとんど声を出さずに祈りを捧げていた。大地の恵みに感謝する、異端の信仰者の祈りだ。
リアンセは見つめながら肉の二切れめを食べた。
ミスリルは目を開けて、改めて飯盒に頭を下げた。それから匙を口に運んだ。
「そういえばあなたたち、生きていくのに余分な食料は口にしないって言ってたわね」
「飽きるほど食べるのは良くないってだけさ。どの程度守るかは人によるよ」
ミスリルは、腰掛けた切り株から長い足を伸ばした。
「それに、満腹時に敵襲があれば空腹時より苦戦する。見習いのときにいやってほど教えられたさ。お前は好きなようにしな。俺のことなら気にするな」
「じゃ、好きにさせてもらうわ」
そう言って、リアンセは身を乗り出して飯盒を覗きこんだ。汁気を吸って膨れた小麦と、肉の欠片が二つ三つあるだけだった。
リアンセは自分の皿から大きな肉を飯盒に移した。
驚いた視線を受けながら座り直す。
「これくらいじゃ満腹にならないでしょ。もっと食べなさいよ。あなたガタイがいいんだから」
ミスリルは何か考え込んでいたが、ふと笑みを漏らすと、次は大きな肉を口に運んだ。
食事の時は和やかに流れた。ミュゼとの戦いを経験する前よりも、ずっと和やかに。二人は当面の方針についてアエリエと同じような結論を出していた。つまり、何が起きたか今すぐ知ることはできない。ゆえに今まで通りの行動をとるが、異変には目を凝らす。
二人が満足して口を拭くと、葉を落とした木々の枝が強風に煽られて音を鳴らした。木漏れ日が揺れる中で、火に当たりながら話をした。
「なあ、そろそろグロリアナのゼラ・セレテスが何をやらかしたか教えてくれてもよくないか?」
リアンセは無表情になり、空になった皿を落ち葉の堆積に置いた。
「最初にやらかしたのは弟のテオ・セレテスよ」
「シオンの戦いで死んだんだっけ?」
「そう」
始まりは六年前。
「グロリアナの浚渫工事。ゼラの領民からの支持を確たるものにして、聖遺物を川底から引き上げて、数名の行方不明者を出したクソッタレ工事」
全てはそこからだった。
「あなたも知ってる通り、この工事でゼラは父から総指揮を、十七歳のテオは財務管理を一任されていた。健康状態に不安があった領主は、そろそろ息子たちに責任を負わせてもいい頃合いと思ったのでしょうね。
その頃、噂を聞きつけたシオネビュラの事業家が新しく土木商会を立ち上げた」
「ああ」ミスリルは頷いた。「大体読めた」
「テオは入札手続きを経て、浚渫工事の案件をその土木商会に発注した。その会社の入札条件は常に最低価格。入札した案件は全て受注した。読みの通り?」
「ああ」
「じゃあ、これは? その商会の名はセレスティア土木技師職人商会。休暇旅行先のグロリアナで商機に飛びついたシオネビュラの事業家は、セレスタ・ペレの父親よ」
今度は、ミスリルは首を横に振った。
「さすがに読めなかった」
「セレスティア土木技師職人商会の受注価格は全て不当に水増しされた金額。受注した工事はリジェクとグロリアナの下請けに丸投げし、何も知らない下請けの技師や職人たちは一般的な金額をセレスティア商会に請求した。水増ししたお金は全てテオとペレの懐へ」
「ありがちだな」
「どうしてバレたと思う?」
「セレテス家の家訓は質実剛健。次男の身なりが急に派手になったら親父と兄貴が気付くだろ」
「その辺りかもね。でも頼みの父親と兄はテオを止めるのが遅すぎた。
テオとペレは共謀してありもしない技師団体による虚偽の入札書類を作成。応札したらセレスティア商会が最低価格を提示したような外観を作り、グロリアナ市議の購買承認を得ていた。
でも、金が不正に一箇所に集まれば他のところの金がなくなる。仕事があればあるほど、働く時間が長いほど、何故か暮らしに満足感がない。それどころかグロリアナは全体的に困窮していってるみたい。それで、誰かがおかしいと思い始める……」
「やりすぎってことか」
その後の諸々で当時のグロリアナ領主は病の床に伏し、ゼラが弟を締め上げたとて時すでに遅し。テオが不正で得た負債は、父の死後、セレテス家当主にして新しいグロリアナ領主のゼラが抱え込むことになった。
「そこに、リジェク神官団お抱えの歌流民たちがゼラを訪ねてきた」
火が小さくなっていくのを見ていたミスリルは、鋭い目を素早くリアンセに動かした。
「歌流民?」
「殺された情報部員は取引の内容を掴んでいた。言語生命体を酩酊させ、実際に肉体に癒しや苦痛を与えうる歌……その
効きをよくする特別な薬
を流通させる手助けをしてほしい、と」「さぞお高い報酬だっただろうな」
「ゼラがやらかすのはここからよ。彼は詳細がわからずとも
薬
がヤバいものだと察していた。だからだと思うけど、それを極力「カルナデル・ロックハート大尉だ」ミスリルは即答した。「俺とお前が再会した時、お前はその大尉に用があって関所にいた」
「さすがね」
リアンセは唇を吊り上げたが、目は暗かった。
「ゼラは南部ルナリア独立騎兵大隊ギルモア中佐の協力を得て、
薬
を実際には存在しない軍事関係の団体に直送」「要は循環取引か」
リアンセは頷いた。
「ギルモア中佐は注意義務を怠ったけど、循環取引であると認識していたことを示す直接的な証拠は発見されていないの」
「その中佐は公女殿下のリストに載ってるのか?」
「要注意人物として載ってるわ。殺害の必要は様子見」
「でも、そんな取引絶対バレるだろ」
「だからでしょ? ゼラが領地から姿をくらまして、南部ルナリア独立騎兵大隊が急いで駐屯地から逃げたのは」
ミスリルは黙り込み、話を咀嚼した。二度三度と頷く。
「なるほどな」
石組みの中で、火は小枝と松葉をわずかに覆う程度の小ささになっていた。
「でも、どちらかと言えばゼラは薬を流通させないためにそれをしたんだろ? 殺さなきゃいけないのか? それに、セレスタ・ペレは?」
木立の外から風が吹き込んだ。ミスリルは火にくべようと思って近くの松葉を一つかみしたが、思い直して手放した。
「蒸し返すようで悪いけど、セレスタは本当に殺さなきゃいけない奴だったのか?」
「殿下の敵であらば」
頭上から小さな物が落ちてきた。それはミスリルとリアンセの視界を縦に突っ切り、石組みで守られた火の中に落下した。オレンジ色の火花が
松かさだった。
見上げたミスリルは、目を見開き、息をのんで立ち上がった。
「なに?」
答えず、頭上を覆う裸の枝々に目を凝らす。それから自分の足許に目を落とした。
リアンセが待っていると、彼は慎重に口を開いた。
「俺が竃を組んだ時と木漏れ日の角度が変わってない」
自分で言いながら、疑っているような口ぶりだった。
「俺たちの影の長さ、食事を始める前から変わってなくないか?」
言われてリアンセも腰を上げたが、ミスリルの言う通りかどうか確信は持てなかった。
もし言う通りなら。
太陽が動いていないことを意味する。
疑いに満ちた目を天に向けた。木の枝を透かして、半透明の天球儀が空を覆っていた。
暗雲が流れてくる。
今は遠い。だが、確実にここに来る。
二人はまだ晴れている空を仰ぎ続けた。先にやめたのはミスリルのほうで、彼は気持ちを切り替えて疑問を口にした。
「さっき、ゼラは薬を
極力
回収しようとしたって言ったよな」二人は目を合わせた。瞬きもしない。
「回収できなかった分はどこに行った?」
「怪しいのは南部ルナリア独立騎兵大隊のギルモア中佐。抜き取る機会はいくらでもあった」
「どれくらいの量を?」
「薬といっても、私たちが想像するような形のものじゃない。それが歌であり、かつ物理的に存在するものなら譜面じゃないかしら。だとしたら一部あれば十分だと思うけど」
歌流民たちは門外不出の、暗号化した譜面を使うと聞く。
「欲しいわ」
リアンセが唸った。
「ぜひとも手に入れたい」
ミスリルは薄々わかっていた。
唸るように望みを口にしたならば、リアンセはそれを叶えることを。