平原
文字数 3,325文字
ミスリルとリアンセの二人組が南部ルナリア独立騎兵大隊の無人の元野営地に立った翌朝、またも別の二人組が同じ冬枯れの草原に立った。とはいえ最初は一人だった。南部ルナリア独立騎兵大隊第一中隊隊長カルナデル・ロックハート大尉、リアンセがリタと名を偽って関所を訪れた際に応対した二十五歳の親切な青年将校は、今や無力感に
僅か三日で跡形もなくなってしまうとは。土塁もテントも。
そして蹄の跡。とりわけ中で大人が寝転がれるほど巨大な蹄の跡。
星獣だ。
奴らもまた去ったのだ。
澄み切った朝空の下、北風がちぎれた枯れ草を運び、馬の鼻をくすぐった。
ああ、めんどくせぇな。馬のくしゃみを聞きながら、カルナデルはしみじみと思った。ご丁寧に口にも出した。
「めんどくせぇなあ」
なんでこんな面倒なことになったんだろ。ギゼルの命令を蹴っときゃよかったのか? だが、馬上で猫背になってため息をつく彼は慰めを見出してもいた。元野営地に流血の痕がないことだ。
さて、どうしよう? 部下も上官も消えてしまった。南ルナリアに戻ろうか。部隊の痕跡を追うべきか。だがギゼルはこうなることを予測して警告したではないか。姿をくらませと。
いつまで? 戦争が終わるまでか。それはいつだ?
北に進むか南に進むか、決めかねて手綱を握るカルナデルの目が動くものを捉えた。
草原を、人が歩いてくる。
その人は馬上のカルナデルを見て一度足を止めた。遠目にも手に取るようにわかる逡巡を挟み、また歩く。カルナデルのほうへ。
女性だということがだんだんわかってきた。その遅い歩みで自分のもとにたどり着くまで待つのも億劫だ。
「めんどくさっ」
カルナデルは馬の腹を蹴った。
一分以内に、二人は手を伸ばせば触れ合うまでに接近した。馬上から見下ろせば、薄紫の髪を二つ結びにした、まだ少女の面影がある若い娘だった。薄曇りの空を背景にしたカルナデルのしかめ面を、目を細めて見上げている。
「ここは」と、娘は意外にも
「
だった
」娘は一度口をつぐみ、草原の彼方に視線を飛ばすカルナデルの険しい顔を注視すると、今度は名乗った。
「私はアルマ・ペレと言います。シオネビュラのセレスタ・ペレの妹で、万一の際はここに来て大隊長ギルモア中佐に救いを求めろと」
カルナデルは彼女に冷たくするつもりはなかったが、返事も口調も冷たくなってしまった。
「そいつはアテが外れたな。残念だけど」
「あなたはここにいた騎兵大隊の方?」
心折れた様子も見せず、アルマはカルナデルの顔に眼差しを向け続けた。
「何があったんですか?」
アルマの眉間は白く
何があった? それはオレが知りたい。オレが知っている僅かなことはここで話されるべきなのか?
オレは話す。
カルナデルにはわかっていた。話すんだ。
でなければ、オレが後ろから刺された後で、誰が一連の出来事を記憶しておける?
※
まず人。次に星獣。最後に狂騒。
『まあとりあえず示威の効果は抜群ってわけさ』
コブレンを征圧した部隊の一部がリジェクに引き返すと聞いたとき、
鈴打ち鳴らす象牙の歌、三原色の光輪が眼前に瞬く羽毛の歌。カルナデルの中隊は三日で十人の負傷者を出した。兵士たちは光に目をとられて土塁から転げ落ちたり、熱湯の入った鍋をひっくり返したりしたのである。カルナデルも負傷者の一人に加わるところだった。鈴の音に耳を傾けていると、気がつけば馬上で体を大きく体を左に傾けていたのだ。落馬まで残り数秒のところで正気を取り戻せたのは単なる幸運でしかなかったと信じている。
『なあ』
大隊副長ギゼル・シラー大尉のテントを訪れて、カルナデルは彼に尋ねた。十歳ほど年長の、昇進が遅い飲んだくれで、個人的には気を許せる友人であった。
『あいつら、オレらに嫌がらせして何が楽しいんだと思う?』
ギゼルはアルコール依存に陥りかけているのではないかと思うことがたまにあった。その夕方、ギゼルは砂まみれの顔で、軍靴を履いた両足を机に投げ出してリンゴ酒を瓶から直接
同じ机に尻を乗せて座り、兜を膝の間に置くカルナデルにギゼルは瓶を突き出してきた。
いらないと答え、カルナデルは顔をしかめた。
『あのさあ、せめて晩の点呼が終わってからにしろ』
ギゼルは友の忠言に気を悪くはしなかった。そもそも聞いちゃいない。無精髭に雫となって宿るリンゴ酒を指で
『シグレイ・ダーシェルナキが画策した大陸外進出は、神官団主導で行われなければならない』
『は?』
『奴らが腹ん中で唱えてるお題目さ』
瓶を机に置く。
『蓋しとけ』
『まだ全然飲みたりねえよ』
『いい加減にしろよ。お前はそれでも副長か?』
『カリカリすんなって。頭に響く。で、お前は何が知りたい?』
『全部』
自分の気持ちについて、カルナデルには要領を得た表現ができなかった。
『こういうことはいつから始まったんだ?』
『星獣のことか? 大陸外進出か?』
『とりあえず星獣』
『始まりは知らねぇ』ギゼルは左目にかかる前髪をかき上げた。『だが途中は知ってる』
『途中って?』
『塩だ』
ギゼルの手がリンゴ酒の瓶に伸びた。反射的に背筋を伸ばしたカルナデルが同じ瓶に右手を出す。
二人の男は酒を巡って静止し、牽制しあった。
何がきっかけだったかはともかくとして、二人はほぼ同時に素早く動いた。
瓶を引ったくったのはカルナデルの手だった。
カルナデルは口いっぱいにリンゴ酒を詰め込んだ。その甘酸っぱい液体を口の左側に動かして、音を立てて口をゆすぎ、今度は口の右側をゆすいだ。
口中のリンゴ酒が唾液と歯垢と歯と歯の間の食べかすで汚染されると、カルナデルは口をすぼめ、その液体をギゼルの顔面に噴き付けた。
※
「塩?」
アルマの青ざめた顔に冷たい風が吹き付けていた。だが彼女は寒そうな素振りも見せず、しっかりした目でカルナデルを見上げていた。
「塩がどう関係するんですか?」
カルナデルは彼にできる唯一の誠実な回答をした。
「知るかよ」
※
口論及び罵倒。不快で不毛なやり取りが殴り合いへと発展する直前に、カルナデルのほうから折れた。謝ったのだ、まあ、ひとまずは。それから近頃のギゼルの酒の飲み方についてどれほど心配しているかを懇々と言い聞かせた。頼むぜ。わかってくれよ。ちょっとでいいからオレの話を聞いてくれ。オレはお前が酒癖のことで悪口を言われたりどんどん嫌われていくのを見ていたくないんだよ。だってお前は立派で本当は優秀な男なんだ。オレは知ってるぜ。そうだろ?
懇願とおべんちゃらの混じった謝罪を延々聞くうちに、ギゼルも怒りを鎮めてカルナデルに教えた。チョロい。
『我らが偉大なる大隊長がした取引さ。ギルモア家はミナルタ製塩所の権利の一部を持ってたんだが、それをリジェクの神官将の親類に売ったらしい』
ミナルタ製塩所は都での反乱のすぐ後に破壊された。
『いつの話だ?』
『五月か六月だったと思うぜ。まだ少し肌寒かったからな。シオンの戦いより前だったこたぁ確実だ。例のクソ女が取引について大隊長と立ち話してんのを聞いたんだ』
ギゼルは大隊長バレル・ギルモア中佐のことを滅多に名前で呼ぼうとしない。大隊副官レナ・スノーフレークのことは更に輪をかけて嫌っていた。クソ女と言えばレナだ。誰もが彼女を嫌っていた。カルナデルも含めて。
『ミナルタの製塩所をぶっ壊せば都の民衆が受ける衝撃はデカい。でもそれだけじゃねぇだろ?』
カルナデルは察しがいいほうだ。つまり、製塩所の広い敷地には、どれほど多くの星獣を保管できるだろう?
リジェク神官団の星獣部隊は翌日も移動しなかった。その翌日も、翌々日も。