もう一人の追跡者
文字数 4,215文字
ニコシア・コールディー帰還の祝賀ムードがシオネビュラの街路から消えた頃、リアンセはシオネビュラ市の南神殿の扉を叩いた。リアンセを迎えたのは、ウィーゼル・ダーシェルナキの事実上の後見人であるピュエレット・モーム大佐。この五十代の士官は女性ながら軍人らしく、体格も顔の形もいかつかった。金色の髪はオールバックにし、肩と胸に様々な
「ホーリーバーチ中尉。あなたは大変な冒険を経て
リアンセは一切の装飾のないブナ材のテーブルを挟んで、「仰る通りです」と答えた。
「しかしながら、命令を破るべきときを判断することも士官の仕事のうちでございます。陸軍情報部は
それを聞く間も、モーム大佐は眠たげなほど柔和な微笑を浮かべたままだった。リアンセは知っている。モーム大佐が陸軍本部の参謀室に勤務していた頃、この柔和な笑顔でぞっとするほど冷酷な作戦命令の数々を下していたことを。
やがて大佐は厚みのある唇を開いた。
「……初めて会ったとき、あなたは西方領から出奔したばかりの、傷ついた少女でした」
大佐の声は柔らかいが、油断はならない。
「立派になりましたね」
リアンセはソファにかけたまま、背を傾けて一礼する。少しの沈黙があり、物の少ない室内に、時間だけが流れた。
「ところでリアンセ」モーム大佐が母親のように呼びかけた。「都を日輪連盟の手から取り戻すには、我々はどうすべきだと考えておりますか?」
「正当な総督であるシグレイ・ダーシェルナキ公を牢から救出し、長男アランド及びパンネラ公爵夫人を裁判にかけるべきです」
「公爵閣下を救出した後は?」
「現時点で、シグレイ・ダーシェルナキ公爵閣下が復位される見込みはない考えております」
リアンセの返事を聞き、モーム大佐は目に面白がるような光を浮かべた。
「まず、無事救出されたところで、救出までに月環同盟の軍事力に頼りすぎたとの批判は免れ得ません。この
シグレイがしばしば将官の妻を奪うことは広く知られた秘密だったが、そんなことよりも致命的なのは、若き新トリエスタ伯を侮辱したことであろうとリアンセは考えていた。第二公女エーリカを妻に求める伯を、シグレイは他の諸侯の面前で罵倒したのである。
「大佐殿もご存知の通り、民衆とは、今まで通り治めてくれるなら誰でもいいと思うものであり、また、月環同盟が煽るように、市民が見境なく奴隷として売られるようなことは現実にはないと分かっています。控えめに申し上げても、今、連盟の手勢によって投獄された閣下に敢えて復位頂く必要はないのではありませんか?」
「では、次の統治者には誰が?」
「シルヴェリア・ダーシェルナキ公女殿下が適任と考えております」
モーム大佐はしばし黙考した。
「いかにもあなたは『公女の剣』……」
しばらく
「……ところで、リアンセ。そのシルヴェリア殿下は、北方領から持ち込まれた『月』の行方を大層気にかけておりました。殿下は『月』がタルジェン島に保管される前提で動いておられましたが」大佐は背を傾けて、リアンセにやや身を乗り出した。「実際に、何が起こったのです?」
リアンセは見聞きしたことのほぼ全てを話した。船でのミスリルとの出会い。彼と二人の仲間が『月』の運び手だったこと。『月』とミスリルたちが消えた朝の様子。その後の徹底した捜索の様子。
だが、髪に差した飾り物、それに託されたロザリアの密書については黙っていた。
それはシンクルスからの依頼。
『コブレンに赴き、ミスリルたち三人の所在ないし痕跡を確認せよ』
シルヴェリアは、シンクルスに対して「好きに使え」とリアンセを送った。だが、秤にかければシルヴェリアの安否確認と救援のほうが優先順位が高いことは言うまでもない。
「あなたのお話はよくわかりました」
耳新しい情報はなかったろうに、モーム大佐は落胆を顔に出さなかった。
「
「何ですか?」
間を置き、リアンセは重く告げた。
「ある方と合流したいのです」
「誰です?」
「反乱によって消滅した第一公女親衛連隊の、マグダリス・ヨリス少佐です」
モーム大佐には、いささか意外だったようだ。
「何故彼を?」
「現在身柄を拘束されておらず、かつシルヴェリア殿下の居所を突き止めうる能力を持つとされる人物だからです」
「彼の居場所は私も知りません。ですが、彼についてなら、私よりも語るに相応しい人物がいます」
言葉を終えて立ち上がり、モーム大佐は重い片開きの扉へと歩いて行った。扉に手をかけて振り向いた。
「待っていなさい、リアンセ」
言われた通り、リアンセは座って待った。目を閉じ、僅かな時間に心身を休ませるよう務める。
十分は過ぎただろう。扉の開く音がして、ぱちりと目を開けた。
戸口に立つ人物を見つめながら、リアンセは立ち上がった。その人物は女性で、背がリアンセよりも一回りほど高かった。肩幅ががっしりしているので、なおさら大きく見える。その肩に、
「リアンセ・ホーリーバーチ中尉」女性は礼を省いて語りかけ、歩み寄ってきた。「陸軍西部方面軍歩兵部隊所属のユヴェンサ・チェルナー上級大尉と申します」
机を挟んで儀礼上の握手をしたとき、リアンセは思い出した。ミナルタで会ったのだ。この少し低い声で、ユヴェンサという女性はこう言った。
『この人を怒らせないで』
あのとき、黒髪を長く伸ばした男が一緒にいたはずだ。
ユヴェンサは、モーム大佐がいたソファに浅く掛けた。リアンセも腰を下ろした。
「西部方面軍のどちらにいらしたのですか?」
「都に。情報部勤務ということでしたら中尉殿も同じと思いますが」ユヴェンサは肩にかかる髪を後ろに払った。「昨年の星獣祭はご覧になりました?」
「ええ」
リアンセは目に力を込めて頷いた。符丁だ。
「護符をこんなに授かりまして」
腰帯に下げた鞄に手を入れ、クルミの殻を取り出した。
色とりどりに塗られた五つの殻に、ユヴェンサは視線を落とした。それからユヴェンサも彼女に与えられたクルミの殻を出し、リアンセに見せた。
数は同じだが色の組み合わせが違う。
追う任務と横の繋がりが違うのだ。
「
互いに定型句を口にして、二人は殻をしまった。
「ところで上級大尉殿は、マグダリス・ヨリス少佐という方をご存知でしょうか。私はその方と是非ともお会いしたいのですが」
「ヨリス少佐は私の夫です」
リアンセは目を
「姓を分けているのですよ。中尉殿のご事情はモーム大佐から聞いています。シルヴェリア殿下を探しているが、協力者がいない、と」
「その通りです」
「期待を裏切るようなことを言うようですが」ユヴェンサは前置きして肩を竦めた。「あの人は今は殿下を探してはいないかもしれない」
「今何をしておられるのか、上級大尉殿もご存知ではないのですか?」
「彼は本来の業務とは別に、殿下から仕事を請けていたんだ」
急に砕けた口調になって、ユヴェンサは膝の上で指を組み、目を伏せた。
「中尉殿、どうか緊張なさらずに。私もそのほうが話しやすい。……私は休職中だったけど、夫の仕事に協力して領内の中部から南部までついていった。一区切りつけて都に戻って、しばらくしたところで謀反が起きたんだ。
私とあの人は別々のところにいた。私はモーム大佐やウィーゼル殿下の近衛兵と合流して都を脱出したけれど、あの夜幕舎に詰めていたあの人には、ついぞ会えなかった」
「それは……。胸中お察しします」
「あの人のことは心配してないよ。あの人なら大丈夫。でも」
ユヴェンサが唾をのんだ。口の中が渇いているようだ。言葉とは裏腹に、緊張しているのだろう。
「あの人の性格からして、今のような場合、シルヴェリア殿下の追跡よりも、請け負った任務の遂行を優先すると思う」
「その任務が何か、差し支えなければお聞かせいただけますか?」
緩慢な動作で、ユヴェンサはもう一度クルミの殻を取り出した。
「簡単に言えば、都を薬物汚染から守るための調査」
分厚い掌の上から、真紅に塗られた殻を選んでテーブルに置いた。リアンセが持っていない色だ。
「そんなの専門部隊を編成してやればいいっていう顔をしているね。私も最初はそう思ったよ」
「では、何故」
「ちょっと難しい案件でね。今まで出回ったことのないものだけど、どういう性質かわからない。それが日輪連盟の手に渡るのを阻止したかったんだ。まだリジェクとかあの辺りが月環同盟を脱退する前だったけど、兵を送るのは難しかったし、殿下はこれを内密に行いたがっていた」寂しげに微笑んだ。「今はもう明るみに出てしまったから、君に話すわけだけどね」
「その薬物にリジェク市が関与していると?」
「リジェク神官団が」と、訂正した。「ところでリジェクの近隣には、こういうものの闇取引に強い街がある」
「コブレン」
反射的に呟いた。
はじめ、ユヴェンサは肯定も否定もしなかった。だがリアンセが黙っていると、同じように呟いて認めた。
「そう。コブレン」
結局、コブレンにいかなければならないのか。
「あの人と同じ物を追うなら、きっとあの人に会えるよ」