星獣戦(1)
文字数 6,567文字
シオンの戦い、都の反乱、それらが行われる前のこと。
グロリアナでミスリルたちと別れたアズ、トビィ、レミの三人は、それから五日ののちに北ルナリア市を見おろす丘に到着していた。
北ルナリアは、『
その都市は高架道路だった。橋脚は五、六十階建てに相当するという触れ込みの塔であり、内部には、住居はもちろん、文明退化以前の都市生活に必要なあらゆる施設が存在したという。その橋脚が五本あり、今の文明レベルでは破壊不能な強度の大道路を支えている。
ルナリア山脈の北側を巻くこの道路は、全体が地球人の手による聖遺物であり、地球人たちが去った後はリジェク神官団の管理下に置かれた。神官領でないにも関わらず、地球人の遺構であるゆえに神官団の庇護下に置かれざるを得なかった北ルナリア市は、必然的にリジェクの支配を受けた。
橋脚の居住地は大部分が閉鎖され、残された区域でも、人は耕作可能な土を求めて塔を降りていった。狭い地域で一千万の口を潤すという
それでも一部の人が残り、土地の改良に専念した。千年経った現在も都市として機能しているのは、その人たちの語られ得ぬ努力があってのことだ。
第一橋脚の基部は、丘の斜面に据えられていた。リジェクを通過した隊商が最初にたどり着くのは、日のある間、塔の影が時計の針のように動き回る村落だ。一日を通して日当たりのいい南側では農耕が行われ、家々は塔を巻いて広がる。
橋脚は灰白色の冷たい質感で、その威容は大部分が霧に隠れていた。隊商は荷を下ろし、基部の周囲に散乱するように建てられた家々を見下ろしながら、丘の上で炊事を始めた。北ルナリア側の受け入れ時刻が過ぎていたからだった。
隊商には商人以外の旅人も同行する。一人や少人数で行動するよりも安全であり、道も知らないならばなおさらだ。旅人たちは、隊商の荷馬車から少し離れたところに固まって、めいめいくつろいでいた。アズは草の上に座り込む双子の兄弟の姿を見つけ、柔らかい草を踏んで近付いていった。
トビィは夜に備え、長い柄に刃物をつけているところだった。先端に槍の穂がつき、その横に
「行こう。第三シャフトの位置がわかった」
アズは立ったまま、仲間たちに唇の動きだけで伝えた。北ルナリアの副市長の署名が入った手紙では、第三シャフト側なる名称の出入り口から市内に入るよう指示されていたのだ。橋脚と橋脚の間には城壁がある。アズは城壁のどの辺りに目指す門があるかを商人たちに教えてもらったのだった。
トビィの肩に顎を乗せて作業を覗き込んでいた赤目が、アズを見て舌を出し、嬉しそうに目を細めた。耳の後ろを撫でてやると、トビィが尋ねた。
「近いの? 夕方までにたどり着けたらいいんだけど」
「ああ。二十分ほどかけて橋脚の北西側に回り込んだところらしい。
レミが立ち上がり、荷物を背負いあげた。日除けの帽子が草に落ちる。アズはそれを拾い、レミに渡してやった。
荷運び用の
「もう少しの辛抱だ」
「大丈夫だよ、アズ」
レミが帽子を右手にぶら下げた。帯に潜ませた彼女の鎖が音を立てた。
「夜までだって歩けるよ。やっと寝床で寝られるんだもの」
旅人たちが顔を向けてきたが、場所を変えるだけだと思ったのか、誰も干渉してこなかった。
商人たちはアズに本当のことを教えたが、夕方までに市内に入るのは無理そうだとじきにわかった。
基部に近付くと、まず地面から突き出した白いブロックが三人を出迎えた。足首ほどの高さで、すでに辺りは薄暗く、うっかりすると
様々な高さの壁を組み合わせて城壁としているのだった。それも、ひと繋がりの壁ではなく、いくつもの長いブロックが、十分な奥行きを持って配置されている。明らかに現代より高度な文明によって建造されたものだ。兵が押し寄せればどのような混乱が起きるかは想像に難くない。攻め落とすのは難儀だろう。
日が沈みつつあり、霧が茜の最後の光を拡散した。空を這う天球儀の網も今は見えない。ブロックの迷路を少しでも早く抜けようと、三人は黙々と歩を進める。
進むうち、赤目が足を止めた。首を右に向け、臭いを気にしているようだ。トビィと目線をかわしてから、ある方向へ向かっていく。
草を踏む音に気をつけながら、三人は後を追った。赤目がブロックの陰で立ち止まり、振り返る。
アズは屈んで赤目の首を抱き、向こう側を覗き込んだ。黒い小山が目に映った。人が何人かいた。小山は四つ足の動物のようだ。霧の中で黒と銀にぼやけるその体は、背中が大小の尖ったイボに覆われ、頭が大きい。
星獣で、その原型はカエルだった。黒い体には銀色の線が何がしかの模様を描いていた。そして、人間は見える範囲で六人いた。
アズは音を立てずに後ずさり、仲間に場所を譲った。トビィが、最後にレミが、アズと同じものを見た。
「知ってる奴がいた」
レミの唇が興奮気味に動く。
「コブレンにいる連中だよ。『三つ首蛇』の一味だ」
「薬物の独自の販路を持っていたな。確かか、レミ」
「うん。似てるなんてレベルじゃないよ。姉さんが目をつけてた奴らが三人揃ってる」
「あの星獣をコブレンに連れ込むつもりかな?」
トビィのその言葉も、声を伴わぬものだったが、アズとレミの緊張を高めるには十分だった。
「今のうちに潰しとこうよ、アズ。ここでなら私たちが関与したって物証は残らない」
アズは浅く頷いた。
「二手に分かれよう。トビィ、レミ、赤目を連れてあいつらの後ろのブロックに回り込めるか?」
「三分あれば」
「俺が星獣を引きつける。その間に蛇の連中を片付けてくれ」
「一人であの大物を相手にするなんて無茶だよ」
そう言うトビィの両目をじっと見返して、アズはゆっくり首を横に振った。言い争っている余裕はない。トビィは目をそらし、提案を受け入れる意思表示をした。
「星獣の売人は?」
「やむを得ないなら」
三人は身を屈めたまま、めいめい胸に手を当てた。服の下に護符が隠されているのだ。目を伏せ祈る。
『
レミとトビィが目配せしあい、ブロックに沿って移動し始めた。赤目が後についていった。アズは動かず三分待った。それから立ち上がり、取引が行われる広場へと、ブロックの陰から一歩踏み出した。
わざと靴底で砂を鳴らす。
そこにいる全員の目がアズに向けられた。
身を翻す。
「誰だ!」
大きな足音を立てながら広場から遠ざかった。
見立て通り、アズの追跡に放たれたのは星獣だった。
湿った重いものを叩きつける音が頭上でした。ちらりと目をやると、カエルの星獣が壁の上にいた。吸盤のついた脚でブロックの上からついてくる。巨体であるがゆえに、人間一人を追うにはゆっくり歩めばいいようだ。その吸盤が、壁の内側に下りてくる。
アズはブロックの角を曲がった。
予期せず広い空間に出た。
そこは人が住む区画になっていた。許可を取ってのことかは知らないが、ブロックに密着して窓も出入り口もない土壁の建造物が作られていた。それは話に聞く要塞化された集落の典型。外壁を共有する家々が、切れ目のない防衛線の役目を果たすのだ。侵入者は外壁を壊したところでどこかの家の一室にしか入れず、内部を知り尽くす住民によって迎え撃たれることになる。出入り口は屋根に設けられ、梯子や縄がかけられているのが目に入った。干しっぱなしの洗濯物が縄にかかって揺れていた。住民が無精なのか……それとも皆、出払っているのか。
アズは走る。身を隠せるところはなさそうだ。背後遠くであの湿った音がした。振り返る。星獣との間合いは十分にある。
と、思いきや、黒い波のようなものが一瞬目に入った。同時にそれを腹に受けた。重い衝撃に薙ぎ払われ、広場へと弾き飛ばされる。体が地面をバウンドし、うっ、と声をあげた。地面は土ではなく固い石畳になっていた。
態勢を崩されたときに寝たままでいることは死を意味する。転がって、着地位置から距離をあけた。重量物が着地位置に振り下ろされた。沈む太陽の最後の光が、それが纏う粘液を反射した。
カエルの舌だ。
それは出現したときと同じく突然視界から消えた。アズは近くの壁に身を寄せて膝立ちになり、マントの内側に両手を差し入れた。それぞれの手が半月刀の柄を握る。立ち上がりながら抜刀。広場の向こうの通路から星獣の姿が消えた。すぐに土壁の上からその着地を示す鈍い音がした。振動が、石畳を通して体に伝わってくる。
体の大きさと重さに反してあまりに俊敏だ。
広場の中央のアズは、直感で身を翻して半月刀を振るった。体の真横をカエルの舌が掠め、それを深く切り裂く。
『痛ぇっ!』
予期せず人間の男の声がして、アズは息をのんだ。身を伏せ、土壁のほうへ滑り込むアズの頭上で、鞭のように舌が暴れる。舌は広場中の空間を、高低を問わず素早く舐め回した。住居の屋根の上の梯子、縄と支柱と洗濯物をあらかた薙ぎ払い、ようやく動きを止めた。
『やってくれるじゃねえか! あっ!?』
壁際で屈んでやり過ごしたアズへと洗濯物が降り注ぐ。頭に降りかかった布を払う。それは下着だった。
星獣はアズの頭上を跳躍して向かいの建物に移った。舌を、今度はゆっくり伸ばしてくる。アズの眼前で舌を裏返せば、その柔らかい肉に埋もれるように、人間の目玉があった。
瞼もなく、睫毛もない。
二つの小さな穴と一つの大きな穴は、鼻と口だろう。半月刀の斬撃を受けた箇所からは臭い液体が滴っている。
蛇が鎌首をあげるように、舌を上げた。おぞましくもカエルの舌と一体化した人間の顔がアズを
『てめぇは
アズは立ち上がり、肩と頭に乗った洗濯物を払いのけて答えた。
「コブレン自警団のアザリアス・オーサーだ。見ての通り下着をかぶっている」
『最っ低な自己紹介すんな!』
「最低な自己紹介のついでに」左腕を伸ばし、半月刀を目玉に突きつける。「最低な殺し合いをしよう」
アズが顎を引くと、アメジストの瞳がきらりと光った。蹴り上げるように跳ね、左腕を振るう。恐ろしく鋭利な刃が肉に沈んだ。
半月刀は形状からして刺突には向かないが、斬撃の威力は高い。アズの半月刀は刃を重くして、威力をさらに高めていた。そのぶん手の中で回転しやすくなり、扱いは難しくなるが、長く使い続けることでその欠点は補える。
専用の武器を特注することは、特殊部門に配属された団員の特権だった。同門のテスもまた半月刀二刀流を習得しているが、テスが使う半月刀は体格にあわせて小ぶりだ。その代わり、アズの半月刀にはない変わった仕掛けがあるのだが。
カエルの舌に埋め込まれた目玉を半月刀が
もはや発音不能となった亀裂から、大きいが力のない叫びが漏れてくる。舌の先端は力をなくし、アズを捕らえようとする付け根の動きにあわせてぶらぶら揺れるのみとなった。その動きを避けながら、カエルの舌を切り刻んでいく。
汗が滲み、息があがる。激しい動きのせいだけではない。傷を受けた腹部の痛みから気をそらそうと、ゆっくり息を吸い込んだ。
心を鎮め、口を開く。
『死者ヲ呼バワル
土ノ
古い歌。街道の捨て子の歌。
カエルの舌先が落下した。それは石畳に触れるや輪郭を失い、黒い砂ないし粉末と化して散る。
『深キニ眠ル 憧レノ
月ハ涙ヲ
舌が引っ込んだ。
星獣が動き、べしゃ、べしゃ、と音を立てて吸盤を建物の外壁に張り付ける。イボだらけの背中を晒し、頭を下にして外壁を下りてくるかに見えた。動きを止め、姿を消す。
外壁を蹴って跳んだのだ。
入れ違いに、アズは星獣が張り付いていた外壁まで走る。
直後、背後に星獣が着地して、広場は揺れに見舞われた。
『涙ヲ流シ 欠ケ』
左足を軸に振り向く。
『タエテ叢雲ナカリセバ』
カエルの尻が視界を埋めた。左手の、次に右手の半月刀で深い傷を刻む。
『春ノ命ノ 凍エザラマシ』
黒い肌に浮かぶ銀色のまだら模様が動き始めた。細く引き伸ばされ、一つに繋がり、鎖のように体全体を巻く。
この現象は
宥めるように歌いながら、アズは星獣の体を刻み続けた。銀色の筋の中に記憶が見えた。
緑色に濁った水。
カエル。カエル。たくさんのカエル。アマガエル。ウシガエル。そして蛇。アメンボ。水に飛び込む。その水の生ぬるさと生臭さが幻覚のように感じられた。水の中にはカジカ。タナゴ。水をかき分ける人間の手。
これらの光景は、水の中を泳ぐ人間の目で見られたものであり――。
アズは理解する。
この星獣は、人間だったのだ。
人間が星獣になるなどありえない……ということになっているはずだが。
絶え間ない斬撃から逃れようと、星獣が身を屈める。跳躍の予備動作だ。
「アズ!」
トビィの叫び声がどこからか降ってきた。顔を上げたアズは体を強張らせ、大声で危険を知らせようとした。トビィがいたのが、星獣が飛び移ろうとしている建物の上だったからだ。
だが、星獣よりもトビィのほうが先に動いた。
月牙を振りかざし、屋根の縁を蹴る。その姿は星獣の体に隠れて見えなくなったが、月牙がカエルの目に直撃するのを見逃さなかった。
頭部が消失し、粉になって散る。星獣の体を巻いていた銀の模様が溶け、ついで四肢が消失した。
背中のイボの正体が、薄暮の下で明らかになった。
ミニチュアの村だった。
全ての小人が目を剥いて、
『地獄に落ちろ!』
ひとりの男の声で吼えた。
『俺は先に行って待ってるぞ、アザリアス・オーサー!』
呆然とするアズの隣で、トビィがようやく「趣味