動揺
文字数 3,114文字
追っ手はアズじゃない。
突きつけられた事実は、今、確かに手の中にあった。テスに宛てられた書状を、ともすれば握りしめそうになる。
黒い森に少しだけ入り込み、二人は木の根元に座り込んだ。リアンセが
「テスはどうするつもりなのかしら」
それはミスリルが知りたかった。
「さあな。俺は二十五年あいつと一緒にいたけど
もしかして、自警団は俺を殺してまでマナを取り上げるつもりはないんじゃないか? だから、説得のためにテスを送ったのか?
抱きかけた期待を自らの手で粉砕する。
信じるな。こいつになら裏切られてもいいと思える相手以外は。
にしても、テスはどういう手段で俺を追うつもりだ?
ミスリルは考える。追跡の手法はいくつかあるが、都市を出て広大な原野に踏み出した人間を追う方法は限られてくる。
一つは犬を使うこと。だがトビィが追跡に加わっていないならこの手は有り得ない。
他に有効な手段は、追跡対象そのものではなく、追跡対象と同じ目的を追うことだ。テスはきっとこの手段を選んだだろう。問題は、何をミスリルの目的と考えたかだ。
黄鉄鉱が火花を散らす。ミスリルの思考は加速する。
俺がマナを連れて人里離れて暮らそうと考えるとは、まさかテスも思わないだろう。あり得るとしたら二つ。俺がリージェスとリレーネを追うと考えたか、または、俺がマナを何とかする手段を探すと考えたかだ。
後者の場合なら、追跡対象は(俺は)南西領言語の塔に向かったと考える可能性が高い。他に手がかりがありそうが場所は思いつかないからだ。だが季節が問題だ。ほぼ身一つでコブレンを出た俺たちが山中で冬を迎えようとするわけはないとさすがにわかるわけだ。
じゃあ、正解である前者の場合は?
俺がリアンセに同行して『月』やあの二人に繋がる糸口を見つけようとしているように、あいつにも何か、思いもよらない
ランプの芯に火が入った。
ミスリルは頭を切り替える。
封印を割り、封を開けると微かにさわやかな香りがした。一見して白紙の書状をランプの火にかざすと、文字が浮かび上がってきた。
『十一月十七日以降、我々は自警団本部を放棄し山中を南部に向かって移動している』
見覚えのある、グザリア・フーケ師の筆跡だった。
『非戦闘員や山中の移動に耐え
リアンセに見守られながら紙面に目を走らせる。
『生き残っている特殊部門の人員は、お前を含めて三人しかいない。この書状は見習いたちに持たせて各方面の教会に送っている。
我々が自警団の本分を果たすのに、今はあの少女の存在は重要ではない。ついては書状を受け取り次第都へ向かわれたし。
お前の二人の兄弟子のことで話がある。
グザリア・フーケ』
ミスリルはその文面を二回読んだあと、握り潰し、ひねり、先端に火をつけた。さわやかな香りも故郷の気配も、焦げ臭さに置き換えられていく。火が指先に迫ると、ミスリルは書状を土の上に落とし、踏みにじって消火した。封筒も同じように処理した。
リアンセは優しい無関心を決め込み、沈黙を保っていた。
ミスリルは爪先に転がる紙の燃えかすに目を注ぐ。
こんな書き方をされたらテスは矢も盾もたまらず都へ向かうだろう。だが、アズもトビィも死んだのだ。他にどう読み取れる?
彼らと戦わずに済んだとしても、安心する気になどなれなかった。体の力が抜けていく。
集落で、祈りの鐘が鳴った。
「いい時間ね」
そそくさと立ち上がったリアンセが、剣帯のずれを直しながら尋ねた。
「あなたはどうするの?」
「先に行っててくれ」
目を上げ、ランプの火を映すリアンセの目を見返しながら答えた。
「十秒で追いつく」
「そう」
枯れ葉を踏んで駆け去るリアンセの足音を聞き届けると、ランプを消し、ミスリルはたった一人で胸に下がる護符を握りしめた。
何の祈りの句も浮かんでこなかった。ただ、心も思考も沈黙し、静かだった。
目を開けた。
俺は何もしなかった。
それが、心に最初に浮かんだ言葉。
コブレンで産み捨てられ、自警団に拾われ、コブレン市民に貢献するよう教育を受けた。一般市民には望むべくもない高い水準の教育を。
あらゆる技能も、知性も、教養も、全ては自警団員として市民を守るためのものだった。
なのに。
一番大事なときに、俺はコブレンにいなかった。
ミスリルは立ち上がる。リアンセを追いかけた。空はほぼ夜空。森に背を向けて走れば西方の雲が最後の光を吸って真紅に染まっていた。
枯れ草の急斜面で、二人は腰を屈めた。斜面の上の道を四人連れが一列になって歩いている。ミスリルが本気で駆け上がれば十秒強で到達する距離だ。
四人のうち、標的は誰か。
一番前と一番後ろはあり得ない。真ん中の二人のうちどちらかが標的、歌流民専門の人身売買業者の男である。もともとは歌流民が必要とされる仕事の斡旋業者だった。何がきっかけで道を踏み外したのかは知らない。
彼らは暗殺の手を恐れ、街道沿いの町や村を離れてリジェクに向かうとの情報をリアンセが得た。諜報員同士で連絡を取り合っているとはいえ、その情報の真偽は誰にも保証できない。
極限まで近寄るのだ。
近寄って、相手を確かめて――。
曇る夜空を背景に歩く一行、その手の明かりを見つめていたミスリルは、足首に受けた違和感に対して反応が遅れた。
滅多なことでは仕出かさない種類のやらかしだった。
それを今、よりによって今、やらかした。
書状のせいか。書状の内容のせいか。どうして言い訳できようか。足首にものの絡まる感触を受けてから、足を引くのに時間がかかりすぎた。
まずい、と思ったときにはもう
思考が止まる。
だが体は動き、半歩前を先行するリアンセの二の腕を後ろから掴んだ。
四十歩か、または五十歩か、その程度の距離を挟んだ斜面の上で、旅人たちが一斉に荷物を投げ捨てて、武器を取るのが見えた。
集落の人々が野盗を警戒して仕組んだ罠に違いなかった。
こちらは急斜面の途中。相手は斜面の上。こちらは飛び道具を持っていない。相手は持っている。
標的を前にして、ミスリルは背を向けざるを得なかった。一瞬だけ集落に背を向けると、物見
耳が、連弩の発射音を捉えた。敵がこちらに撃ってきているが、矢は届かなかった。暗さと傾斜のせいで距離感がわからないのだ。
ただ、走る。暗闇の森へと。
男たちが斜面を駆け下り、追ってくる。怒声。命を狙われていたことに気付いた者が、己を奮い立たせる声。
迫る森を見つめ、ミスリルはふとこんなことを思い浮かべた。
アズだったら、こんな失敗はしなかったんじゃないか?
そのとき足の真横の土に弩の矢が突き立ち、後ろでリアンセが倒れた。