偽装
文字数 2,768文字
その憐れな被害者は、コブレンの正式な治安維持組織である西部方面保安局コブレン支局の管轄区の、ちょうど境目に当たる川岸に投げ捨てられていた。そのため二つの管轄区の保安官が面倒な仕事を押し付けあって言い争い、無駄に時が過ぎたせいで、自警団のマントを纏ったミスリルとテスが駆けつけた時点でもまだ、川岸に投げ捨てられたままだった。現場は野次馬が群れをなし、護岸の手すりから身を乗り出していた。
「あたしゃ自分の倉庫に向かう途中でしてね!」
川岸では第一発見者と思しき男性が、耳が遠くなった人間に特有の大声と強い口調でまくしたてていた。
「まだ辺りは暗くてね! あたしゃここで一杯飲もうと手すりに寄りかかったんですわ。そりゃ明るくなってから倉庫に向かってもよかったんですわ。でもね、最近どうもね、倉庫からちょくちょく物が持ち出されとるようなんですわ。あたしが最近雇った若いのがどうも怪しいと睨んどってね、言うて真夜中に出歩く度胸があるわけでもなし」
「わかった」
と、保安官が遮った。
「最近雇った若者が怪しいのはわかった。早朝に盗みを働いてるんじゃないかと疑ってるのもわかった」
初老の男がなお口を開くのも、右手を上げて遮る。
「昔はこの川岸が酔った男女の社交場だったこともわかった」
「いや、社交場なんちゅう上品なもんじゃなくてね、まあ早い話アレよ、乱行――」
「わかった」
保安官はほとほとうんざりしているようだった。
「それで死体を見つけたとき、あんたはあんまり冷えるんで、その皮袋の中の葡萄酒をいっぱいやろうと思ったわけだ」
「そう。これな、真新しくていい皮袋だろ? この焼き印を見てくれ、トリエスタの――」
「で、護岸の手すりに寄り掛かろうとしてそれが血に濡れていることに気付いたと」
「そうそう、あんた、あたしゃ昔もこのあたりで死体を見つけたことがあってね。もっともその頃は保安局なんてものはコブレンにはなくってさあ」
「この手すりに至る道には血は落ちてなかったんだな?」
「当時はお針子の娘にぞっこんでね――」
「繰り返すが」
保安官が語気を強めた。
「ここに来る道すがらには、どこぞに血が落ちていたりついているのを見なかったんだな」
老人は少し黙り、知恵を絞るそぶりを見せた。
「……てことはアレかね。よそで殺してここに死体を持ってきたちゅうことだな。手すり越しに川岸に死体を投げ捨てたから手すりだけに血がついとったと」
「そういうことを考えるのは俺たちの仕事だ。あの被害者」
と、言葉の途中で死体を振り向いた保安官は、いつのまにか死体の真横にしゃがみこむテスを見つけて硬直した。
それから大声で、
「おいこらお前! 何やってんだ!」
「失礼」
掴みかかろうとする保安官の手を、憎たらしいほど冷静にテスはすり抜けて、川岸に降りる階段で待つミスリルのもとへと戻っていった。
ミスリルとテスは階段を上り、野次馬をかき分けて街路に戻った。喧騒に背を向けて自警団本部へと足を向ける。
道すがらミスリルは尋ねた。
「どう見た?」
「致命傷になったのは肝臓への一突きだ。あとの傷は浅かった。十中八九、物盗りに見せかけた暗殺だ。
「昨日追い払った奴らか?」
「わからない」
いずれ保安官たちは、倉庫街に残された戦闘の痕跡、舗道を濡らした血の跡を見つけることだろう。管轄を巡って争いにさえならなければ。
倉庫街へ続く日の射さぬ路地に入り、二人は不穏な気配に足を止めた。
路地で女が仁王立ちになり、道を塞いでいた。
肩まで伸びた飴色の髪が、建物の影の中でも鮮やかだった。三十前後の細身の美人だが、鋭すぎる目と歪んだ
開口一番言い放つ。
「こんなところで何をうろついているの? 保安官気取りとはご苦労なこと」
ミスリルは露骨に嫌な顔をした。
「死体が残ってる時点でお前らの仕業じゃないのはわかってるさ。用はないから消えな」
「協定のことはわかってるだろうね」
女は構わず、低い声で脅した。
「外患誘致は万死に値する。お前ら自警団が何に関わり合ったか知らないが、この街に余計な勢力を引き込んでごらん」光源もないのに女の目が鋭く輝いた。「潰すよ」
ミスリルが冷笑でそれに応じると、女は脇道に身を翻し、音もなく消えていった。
女の名はエーデリア・ハラム。この街で、コブレン自警団に次ぐ第二の勢力を誇る暗殺組織『タターリス』の幹部の一人だった。コブレン自警団とは当然のごとく敵対しているが、タターリスが他の弱小組織を締めているがために街の危うい均衡が保たれていることは、ミスリルとて認めざるを得ない。どんな依頼でも受けるような零細の組織が、例えば民兵団や商組合、悪くすれば神官団といった厄介な連中を敵に回さぬよう目を光らせる役割を、タターリスの殺し屋たちは担っている。
結局殺し屋たちがいなくならないのは、汚れた手の需要がなくならないからだ。
「大口を叩きやがって」
ミスリルは歩き出しながら毒づいた。
「その前に、俺らがお前らを潰してやるよ」
自警団本部に戻り、門をくぐれば、正面の建物の階段の上にレミが座り込んでいた。ワンピースの豊かな布に覆われた両膝に肘をつき、組んだ手に顎を乗せ不機嫌だ。
「ミスリル!」
階段の上から呼ばわる。ちょう見習いたちの授業の区切りを告げる小さな鐘が、レミの頭上、窓の向こうから聞こえてきた。
座学が終わり、道場への移動が始まる頃だ。
「アズとトビィに任せておけばよかったのに。三課の応急実習の担当はお前だぞ」
ミスリルは、本当は覚えていた。だがさもたった今思い出したとばかりにため息をつく。
「そうだった。ああ、面倒くさ」
立ち上がって尻を払うレミ・イスタルは、武術師範の一人であるイスタル師の二番弟子だった。
ミスリル・フーケを一番弟子とするフーケ師は、コブレン自警団の団長の座にある。
イスタル師とフーケ師は折り合いが悪かった。フーケ師は、いずれは団長の座にミスリルを推したいと思っているが、イスタル師は必ずレミか彼女の姉弟子を推挙する。
そんな二人の衝突に、度々付き合わされてきたミスリルとレミだった。
「ついでに、十一時からの見回り実習の引率もお前と私だ」
つっけんどんに言い放つ。
だが、口調や態度がどうであれ、レミは決してミスリルを嫌っていなかった。ミスリルもわかっている。
それに、フーケ師はまだ五十代の前半だ。もし団長の座を巡ってレミとミスリルが争うことになるとしても、十年以上も先の話のはずだ。