娼館の君主
文字数 5,055文字
そういえば初めてコイツと会ったときもこんな感じだったぞ、と無駄な考えに意識を向けることで、リージェスは平常心を保つよう努めた。
ゼラが口火を切る。
「一人足りないな」
「心配してくれるのか?」
「心配?」見下げ果てた目で見てくる。「ふむ。慣れぬことをするものではないな」
「俺はあんたが心配だ」
どうする? 必死に考えながらリージェスも口を動かした。時間が稼げればなんでもいい。
「両手を自由にしておいたほうが落ちなくて済むんじゃないか?」
それを聞き、ゼラは肩を竦めたが、炎剣は収めなかった。リージェスは感心せずにいられなかった。こいつ怖くないのか。すごいな。
「小娘はどうした」
今更礼儀もへったくれもない。リージェスは吐き捨てるように答えた。
「田舎貴族ごときがあの方を小娘呼ばわりか。知らないというのは幸せなことだな」
「ゴシェ!」
鋭い声で、ゼラが後退しながら後ろの民兵に呼びかけた。
「星獣の向きを変えろ」
民兵の口から、返事より先に歌が飛び出した。よく訓練された兵だ。星獣が右前脚を上げ、首を曲げる。
「お前たちに話すことはない!」
星獣の鼻先がゴミ山を掠めたら、また崩落が起きる。
「その……そう大した話は」
リージェスの体験はこうだ。
『公爵令嬢の別荘で人殺しをしていたら公爵令嬢が現れて、裏の浜辺に月が打ち上げられているとかわけのわからんことを言うので見に行ったら本当だった』
以上。
「とにかくお前たちに付き合ってる暇はない、道を開けろ!」
旋律と声音が変わり、星獣がいきなり跳ねた。リージェスは尻餅をつきそうになり、手すりを掴む。振動が足の裏から脳天へと突き抜け、肩と腕に体重がかかった。
ゼラはいつの間にやら舗道に後退し、冷ややかな目でリージェスを見ていた。だがリージェスがゼラを見つけるには時間がかかった。
というのも、先の跳躍で星獣の向きが完全に変わり、今やテスがゼラのほうを、リージェスが道を塞ぐゴミのほうを見る形になっていたからである。
リージェスが鞍の上を横切ってテスを押し
「いい加減にしやがれ! この方を誰だと思ってやがる!」
「ただの田舎者!」
半ば
「田舎が嫌いなのか?」
リージェスは振り向き、質問を質問で返した。
「お前はやっと言う一言がそれか?」
「じゃあ、別のことを」
四人の男たちの目がテスに注がれる。
テスが口をすぼめ、鋭く息を吸う。何をするつもりか理解して、民兵は咄嗟に対抗しようとした。
リージェスは
跳躍の旋律。それが直進の調べと組み合わされば、星獣は大きく前に飛ぶ。
「領主様!」
二人の民兵が同時にゼラに飛びつき、庇う。彼らを飛び越して、着地。激震。舗道が割れる音がした。テスは歌う。跳躍の旋律。ゼラがあらん限りの声で左折の指示の旋律を重ねた。
星獣が左へ飛ぶ。ゴミ山の斜面へ。
テスが歌う。歌う。星獣のガラスのように硬いの蹄がゴミ山の凹凸を掻く。
「上がれ! 上がれ!」
歌も言葉も虚しく、重い星獣は脱穀機、テーブル、鏡台、
「この馬鹿!」
もっとマシなことは言えないのかとリージェスは己に絶望した。
崩落するゴミが立てる音の中から民兵が叫び返す。
「馬鹿だって!? この方は農地改革でグロリアナの生産高を十五パーセントも向上させたすげぇ先代の御子息なんだぞ!」
「それがどうした!」
テスが二の腕をつついた。顔を向けると、彼は柵の向こうを指差した。
滑落を止めようと、あわよくば這い上がろうともがく星獣は、ゴミ山を形成する傾斜と傾斜の谷間にいた。
谷間は狭いが平坦で、
道が隠されていたのだ。
先に行け、と、テスが手の動きで指示する。リージェスは頷き、余計な振動を与えるのも構わず柵の上に手をかけた。
飛び降りる。
目を閉じたいのをぐっと堪える。板が迫り、その平坦な
「俺だって北方領に帰れば都の評議会議長の息子だぞ!」
続けてテスが降りてきた。
「それがどうしたんだ?」
「うるさい!」
歌い手を失った星獣がゴミの斜面から消えていった。二人は立ち上がり、道の塞がっていないほうへ、すなわちミナルタ旧市街のほうへ走り出した。
音を立てて、ゴミ山は崩れ続けた。
その音は収まるどころか、むしろ大きくなる。
走りながら振り向いて様子を確かめたリージェスの視界に、ゴミの斜面から、大きな物体がせりあがってきた。
星獣だ。
大きく前脚を上げ、跳ね上がる。
御者席にはゼラがいて、冷たい表情、それでいて熱く燃える目で、リージェスをひたと見据えていた。
二人の民兵を背に乗せて、木道を激しく揺るがせながら星獣が着地した。
※
リレーネはすぐに旅の仲間の心配どころではなくなった。
旅でいくらか鍛えられたものの、とうに息は上がり、ただ引きずられないように必死に足を上げるばかり。だが、慣れてくれば、この男もリレーネの身体能力に極力合わせて駆けていることがわかってきた。足場も選んでいる。手首を掴む力も、苦痛に思うほど強くはない。
遠くで再びの崩落。
リレーネは初めて男を拒絶し、立ち止まって膝と踵に力を込めた。砂礫に跡を残し、リレーネは停止する。男もすぐに立ち止まり、意外にも手を放した。リレーネは支えを失って、砂の積もった橋の上に膝をついた。
心臓が脈打っている。顔も体も熱く、息はすさみ、喉は痛み、一度膝をついてしまった以上、もう立てないと思うほどだった。
だが男は命じる。
「立て」
リレーネは顔を上げず、沈黙によって命令を拒んだ。ゴミ山は崩れ続ける。ひどく遠く聞こえる。かなり走ったようだ。
殴られるかもしれないとリレーネは思ったが、男はリレーネの息が整うのを待っていた。
「あの方は」
息の切れ目に言葉を吐く。
「あの方たちは――」
未だ名を知らぬ男は、感情の窺えぬ声で静かに問いかけた。
「死んだと思うか」
強くかぶりを振る。
「ならば立て」
「何故あのようなことを」
「足止め程度は当然のこと。彼らを殺すつもりがあるのなら最初からそうしていた」
この男は口先だけでなく、実際に、彼らに打ち勝ち得たのだろう。テスのダガーを弾いたときの剣
途方にくれて顔を上げる。
見上げれば、男は無表情。
その顔の向こうに広がる曇天に、予期せず希望を見出した。
輪を描いてのんびり飛ぶ、一羽の大きな鳥。
昼星。
リレーネは立ち上がる。
「もうエスコートは結構ですわ」
毅然としていなくては。
リージェスたちは最善を尽くす。
自分もそうするのだ。
「自分で歩けます」
別段驚きを見せるわけでもなく、男はリレーネに背を向けて歩き始めた。もちろん、この男は決して油断していないことを、リレーネはわかっていた。
星獣に乗っていたときは気がつかなかったが、道はゴミの陰に隠れながらもいたるところで分岐していた。先導者たる剣士は体を斜めに傾かせて狭い隙間に分け入り、迷いなく、緩やかにカーブする下りの道に入っていく。
人の気配がするようになった。
左右を圧迫するゴミ山が低くなる。
異臭の中に焚き火の匂いが感じられるようになった。誰かが魚を焼いている。
そしてリレーネは、ミナルタ旧市街に戻ってきた。
焚き火を囲って魚を焼く少年たちが、ゴミ山の間から現れたリレーネをニヤニヤしながら凝視した。通りの両側の建物は、二十階建てか、二十五階建てか、文明退化の浅い時期に造られた建物の例に漏れずとにかく高い。無個性の四角い窓にはガラスが割れずに残っているものもあり、中年の婦人が茶を飲みながらリレーネを見下ろしていたりもした。
高い建物の下には、横木を渡し、鳥を商う男がいた。小鳥たちは籠に入った状態で積まれているが、純白のオウムたちが足環もないのに大人しく横木にとまっているのがリレーネの目には印象的だった。
鳥の露店の隣は酢を売る店。つんと鼻を刺す匂いの中を、道の向こうから子供が荷車を引いてくる。乾燥した玉葱が積まれていた。
ここには秩序があった。覚悟していたほど恐ろしい街ではないのかもしれない。
男が左に曲がる。
高い建物の間は長い上りの階段となっており、顔を上げれば、階段の上に、緑色の鉄の門が見えた。
門の向こうには冬枯れの庭園と、白塗りの館。耳まで覆う帽子をかぶった老人が見張りに立っていたが、男の姿を見ると黙って門を開けた。訝しげにリレーネを見る。が、男が老人に何事か囁くと、黙ったまま、手だけで早く入るよう促された。
門の閉まる音を聞きながら庭園を横切る。アーチ型の両開きの扉から、館の中へ。円形の大理石のホールは吹き抜けで、扉の上の大きな窓のおかげで採光は十分。空が曇りでなければさぞ美しい光が注ぐだろう。
優雅な弧を描く二本の階段が、来客を上階へと
扉の先は一転して暗く、眼前に伸びる絨毯の緋が冴えるのみ。赤絨毯の廊下の両側には扉の開いた部屋が並ぶ。男について廊下を渡るリレーネは、何気なく部屋の一つを覗き込んだ。
カンテラの灯が揺らめく中で、
それを見て、ここがどういう施設なのかリレーネは理解した。
となると、閉じた扉の向こうから聞こえるささやかな声が気になって仕方がない。
リレーネは三歩先を行く男の背に垂れた長い三つ編みを見つめて考えた。
あの、つまり、あなたが私をここに連れてきたのは、こういう……。
その問いを口に出す覚悟がないまま奥の扉にたどり着いた。
扉の向こうは明るかった。大きな窓がある階段室だ。先に階段室に入った男は、振り返り、立ち竦んだように動かないリレーネの考えをすぐに見抜いた。
「何を誤解している。ここに君のための個室はない」
「では何故私をこの場所へと導かれたのです?」
「すぐにわかる」リレーネの顔色を見、「恐れることはない」
立っていても始まらない。最善を尽くすと決意してからまだ一時間と経っていなかった。とにかくリレーネは動き出す。足を前へ。
たとえ
五階へ上った。そこが最上階だった。廊下に出るとそこには大きな扉がただ一つ。男がノックすると、向こうからやけに色っぽい女の声がした。
「影」
男が鍵穴に向けて言う。
「
合言葉だ。すると、最初とは別の女の声が実に嬉しそうな響きを
「おお、その声はヨリスか! よくぞ無事に戻ったのう」
「
「門衛の合図じゃ二人おるそうじゃが、誰を連れてきたのじゃ?」
鍵が開き、ヨリスと呼ばれた男はゆっくり扉を押し開ける。
生地の薄いドレスから、褐色の太腿があらわになっている。
筋肉質でしなやかな腕。がっしりした首。耳を飾る金の
その女の好奇心に満ちた視線を受け止めるしかないリレーネの前で、マグダリス・ヨリス少佐は驚くべきことを口にした。
「北方領総督が御息女、リレーネ・リリクレスト殿下をお連れしました」