ガチョウ
文字数 3,898文字
今度は
ミスリルとリアンセは、冬の日差しの下を四時間歩き、一時間休んだ。また四時間歩いた。陽のある間は歩き通す予定だったが、きりがないことを悟り、日差しの下で六時間ほど眠った。起きてもまだ昼だった。
思い出したように太陽が西へと落ち始め、万物の影が長くなる頃、二人は旧ミナルタに到着した。
街に着けば混乱が待ち構えているのではないかと身構えていたのだが、そんなことはなく、どちらかといえばうんざりした空気が支配的だった。
「お昼ご飯と言ったらお昼ご飯なんです! いいからさっさと食べてください!」
換気のために開けられた窓の向こうで女性が誰かに怒り、歯のない老人がむきになって反論するのが聞こえた。
高台に向かう紡績場では機織りの音がやんでいた。
「おかしいからってなんですか! 太陽が沈んでもきっちり時間通り働くまで家には帰しませんよ!」
「おかしいのはあんたよ! ババア!」
若い娘が金切り声を上げた。薄い板壁の向こうで大乱闘が起き、ほどなくして小柄な女性監督が大通りに蹴り出された。夕暮れ、鬱憤を溜め込んだ
「実際、今って何時だ?」
「知らないけど、お腹が空いたことだけは確かね。覚えてる? ミナルタ名物といったらガチョウ料理よ」
「はいはいガチョウガチョウ」
長い坂を上りきったところで、二人は西の方角を振り向いた。
雲が桃色に染まり、その切れ目に黄色から藍色へと変じつつある空が見えた。辺りは薄暗く、残照の底に、旧ミナルタ郊外で蠢く一個騎兵大隊の存在を確認できた。炊事の煙が幾筋も上っている。
「あれか?」
ミスリルは短く尋ねた。返事も短かった。
「ええ」
疑惑の人物バレル・ギルモア中佐。彼が率いる南部ルナリア独立騎兵大隊。
その指揮部隊が西の郊外から旧ミナルタ市街に入り込んでくる。
「本当に日輪連盟軍にいられなくなったんだな」
ミスリルはリアンセの耳に囁いた。
「それで、月環同盟への手土産は? 例の譜面か何かか?」
「いいえ」リアンセは言い切った。「それはないわ」
※
「それはないって、さっきは随分はっきり言い切ったな」
夜の
白い壁に小麦模様のタペストリーが飾られたレストランの個室で、ミスリルは空いた前菜(チーズとハーブを三種類のガチョウの生ハムで巻いたものだった)の皿をテーブルの端に押しのけた。個室といっても扉があるわけではない。二人は上品な若い夫婦のように小声で話していた。
「どうしてだ?」
「簡単なことよ。彼らが取引していた
薬
は、交渉の手札にするには強すぎるでしょ? 話題にも出さないわ。彼は殿下が循環取引の件を知らないと思ってるでしょうし」「でも、他の使い方を考えつくほどギルモア中佐は賢いのか?」
「そうね……」
人の気配が近付いてくる。
扉がない個室のアーチ型の出入り口に、若いウェイターが現れた。
「お待たせいたしました。本日二つめの前菜となります、ガチョウの肝臓のパイ詰めです」
リアンセの目が輝く。ウェイターが去ると、彼女は嘘偽りのない笑顔で小さなパイを口に運び、味わった後で答えた。
「そうね。例えば彼はリジェクの
薬
を解析し、星獣兵器に対抗する別の薬
を生み出すことができるかもしれないわ。しないと思うけど」「どうしてしないと思う?」
「そういう人物像が見えてこないからよ。ギルモア中佐のしたことは小悪党の域を出ないし、リジェクの技術を利用して民衆のカリスマになりたがるとは思えないわ」
「そもそも
薬
を持っていない可能性もあるんだよな」「ええ。でも、少なくともゼラがそれをどこに隠したかは知ってる可能性が高い。もし私がゼラを殺したら、ギルモア中佐は一人でそれを持て余すことになる」
「だったら、それこそシルヴェリア殿下に託せばいいじゃないか。旧ミナルタにいるんだろ?」
「私の知ってるシルヴェリア殿下なら」
パイをもう一口。
「
薬
を手に入れた瞬間、ギルモア中佐の首を斬るでしょうね」ミスリルは頭を掻いた。
「どうやってギルモア中佐と接触する?」
「あなたはまずパイを食べたら? 温かい前菜は冷めたら台無しよ」
それもそうだと、ミスリルは自分の皿に乗っている小さなパイを興味深く眺めた。
「ガチョウの肝臓って言ってたな」
「ええ。食べたことない?」
「本で読んだことさえないな」
リアンセは教えてやることにした。
「ガチョウの口に漏斗を突っ込んで、餌を流し込んで無理矢理太らせて作るのよ。おいしいんだから」
するとミスリルは何とも言えない顔をして、憐憫の目をパイに向けた。
「……あなた、人は殺せるのにガチョウには同情するの?」
レストランの玄関から、異様な気配が入ってきた。
カトラリーに伸びたミスリルの手が止まる。
複数の派手な足音。
威圧的な声が店の人間に何かを命じている。
「向こうから来てくれたみたいだぜ?」
ミスリルの目が鋭さを増していく。
闖入者たちの言葉は聞き取れないが、一方的な話し合いはごく短く終わった。ほどなくして闖入者はホールで喚き始めた。
「このレストランは現時点を以って南部ルナリア独立騎兵大隊が接収した! 一般客は直ちに退出せよ! 繰り返す! 一般客は直ちにレストランから退出せよ!」
「どう出る?」
「決まってるでしょ」リアンセは前菜に夢中だ。「向こうがこっちを無視できないようにしてやるわ」
足音が迫り、ついに彼らの個室にも二人組の兵士が姿を現した。
「このレストランは我々が接収した。一般客は退出せよ!」
リアンセはパイをよく噛み、のみこんでから「嫌よ」
凍りつく空気の中、ミスリルが立ち上がった。
「そりゃないだろ、お兄さん方。俺たちはミナルタのガチョウ料理をすっごく楽しみにしてたんだぜ」
「知ったことか! 腕づくでつまみ出されたくないなら――」
その言葉は驚きの悲鳴に変わった。
ナイフが兵士の頬を裂いたのだ。
武器ではない。食事用のナイフだ。
ミスリルが振り向いたとき、リアンセは音もなく立ち上がっていた。
「次はダガーが飛ぶわよ」
低い声で威圧したリアンセは、兵士たちの心にインパクトを与えようと思いついた。
ミスリルの皿に残っている一口サイズのパイを手掴みにする。
そのまま口に運び、平然と食べた。
ミスリルは控えめに抗議した。
「それ俺の」
「ウェイター!」
三人の兵の後ろでは、ウェイターが口を開けたまま絶句していた。
「今日の主菜は何?」
「ひっ! ほ本日の主菜は」両手を胸の前でひらひらさせながら「ガガガガチガチのモモンモンモンモモンモモンモンモモン」
「じゃあそのガチガチのモンモンを持ってきて頂戴。替えのカトラリーも、すぐに」
「ははぃっ!」
ウェイターが足早に去ると、入れ違いに黒髪の女性士官が現れた。リアンセは彼女を知っていた。肌の白さと優しげな垂れ目が印象的な、生まれついての性悪女。
ギルモア中佐の愛人兼副官、レナ・スノーフレーク少尉だ。
レナは気怠げに問いかけた。
「なぁに? 反抗的な客がいるわけ?」
「申し訳ございません、少尉殿。すぐに排除します。さあ、出ろ!」
ミスリルの腕を掴もうとした兵士は次の瞬間顎に肘打ちをくらい、よろめいたところに、胸に蹴りの追撃を受けた。軽鎧を通じて上半身に衝撃が広がり、顎がカタカタ鳴る。運悪く真後ろにいた仲間もろとも仰向けに倒れた。
「ちょっと」リアンセが前に出た。「やり過ぎないで。後が面倒になるわ」
「捕まえた!」
そのリアンセを、レナが背後から羽交い締めにする。
「そこの男! 大人しくしないとこの女を――」
リアンセは何ら動じることなく右手を上げ、右肩にあるレナの小指に手をかけた。そして、反対側に折り曲げた。
ポキ! という乾いた音。堪らずレナは羽交い締めを解き、左手を腹に押しつけるようにして庇い、体を折り曲げた。その口から呻きが漏れてくる。
「前言撤回するわ」
リアンセはレナの肩を押し、兵士二人と同様に仰向けに転がした。
「結局、どうしても面倒になるのよね」
その後ろには大皿を手にしたウェイターが立ち尽くしていた。リアンセの声が高くなる。
「あら、ガチガチのモンモンが来たわ!」
ガチョウのモモ肉のローストが来た。
大皿を受け取りに行くミスリルとリアンセを見比べて、痛みに脂汗を流しながらレナが立ち上がった。
「何なの、あんたたち」
「聞くのが遅いのよ」
皿を置いたリアンセはチュニックを締める帯から身分証となる木札を取り出した。見事な透かし細工が入ったものだ。
「私はシルヴェリア第一公女殿下付き情報士官、リアンセ・ホーリーバーチ中尉。あなた方の上官は、殿下にお会いする前に、まず私と話をしなければならないわ」
上気したレナの頬が、たちまち蒼白になった。
「あなたたちを大隊長のもとへ案内しろと……?」
「馬鹿なの? あなたたちの大隊長が私のもとに来るのよ。さあ、さっさと呼びに行きなさい!」
ウェイターは震えながら、新しいカトラリーを手に立ち尽くしていた。
何事もなかったかのように、リアンセは食卓につく。
「さて。デザートまで楽しみましょうね」
倒れたままの兵士に背を向けて、ミスリルは声を出さずに尋ねた。
『デザートの後、俺はどうしたらいい?』
唇の動きを読み、リアンセも同じく声を出さずに答えた。
『ゼラを探しに行って』
それから声を出した。
「ウェイター、カトラリーを頂戴!」