残された時間
文字数 3,496文字
シオネビュラ神官団二位神官将レグロ・ヒューム率いる月環同盟軍はシオンの丘を横切って、ミナルタ市の戦力と合流した。同盟軍はミナルタと都の間に横たわる平原、コブレン地方の山岳と森の裾野、日輪連盟軍との緩衝地帯であるその場所で合同訓練を開始した。
訓練は和やかだった。まるで狩りにでも来たかのような、だがしかし本物の武器を手にした軍事訓練で、しかも少しずつ都に近付いていた。近付きすぎているとユヴェンサ・チェルナー上級大尉は感じていた。今や丘一つ隔てた向こうから、日輪連盟部隊の野営の煙が見える。
ユヴェンサもまた訓練された前線指揮官として月環同盟軍に同行していた。
「挑発にしても危険な領域ではございませんか」
ニコシアの部隊本部であるテントを訪れて、ユヴェンサはニコシアに問いかけた。彼女自身、日輪連盟の斥候の姿を幾度となく目にしている。
斥候たちは連盟の威力を示威することはなかった。ただ丘の上から同盟の合同訓練を見下ろし、同盟諸都市の足並みの揃わぬ突撃訓練や、的を外してばかりの弓兵たち、言うことを聞かない馬や、頭を抱える士官たちの様子を指差して(嘲笑っているのだろう)帰っていく。
足並みを揃えるどころか、シオネビュラを筆頭とするこの寄せ集め部隊が合同で訓練に臨むのは初めてだった。ましてや実戦闘など叶うはずもなく、しかも嫌なことに、都でエルーシヤが歌い踊っているこの時間、太陽はまさに都の背後へと沈んでしまった。
ニコシアは精悍だが冷たい印象の顔をまっすぐにユヴェンサに向けた。
「連盟の陣地に寄りすぎだ、と?」
「いかにもそう思われます」
いきなり夜になったので、ニコシアは明かりを出さなければならなかった。ユヴェンサに背を向け、腰をかがめて行軍用の
「ならば返事はこうだ」
ニコシアは胸の高さに石を掲げた。
「我らシオネビュラ神官団に『やりすぎ』の語はない」
ユヴェンサは諦めに似た心持ちでニコシアのテントを後にした。兵士たちが慌てて篝火を焚く野営地で、幼き公女ウィーゼルとその参謀ピュエレット・モーム大佐がいるテントへと帰還する。軽く一時間は経ったが、まだ太陽は持ち直さない。
六歳のウィーゼルはテントの外に出て、直立し、ある方角にじっと顔を向けていた。そこはミナルタ市とソレリア民兵団及び南部ルナリア独立騎兵大隊の合同部隊が野営しているところ、つまりシルヴェリアがいるところだ。
ユヴェンサはウィーゼルのもとに歩み寄り、その前に膝をついた。
「殿下、どうかテントにお戻りください。冷たい風はお体に障ります」
「チェルナー上級大尉、私たちに時間はどれほど残されておりますか?」
ウィーゼルはユヴェンサを見もしなかった。
「……時間とは?」
「太陽が二度と戻らなくなるまでにかかる時間です」
ただ一つの希望を見出そうとするかのように、シルヴェリアがいる方向から目を背けない。
「殿下、それは誰にもわかりません」
「姉上が本懐を果たされれば、私たちは滅びを免れ得るかもしれません。そう思いませんか、上級大尉? 姉上が、地球人たちの大陸にたどり着くことができれば――」
テントが内側から開き、モーム大佐が姿を現した。シオネビュラで暮らしている間に、大佐は少し太ったとユヴェンサは思った。過食気味のようだ。ユヴェンサ自身は、逆だった。食欲がない。流し込むように飲み食いはするものの。
ウィーゼルの問いにはモーム大佐が答えた。
「もしもこの異変がアースフィアだけのものでなく、宇宙全体の時間と空間に及ぶものであれば、一宇宙生命体にすぎない地球人にも打つ手はないでしょう」
「それでは、私たちにはなんの望みもないのですか?」
「そのようなことを仰ってはなりません」
モーム大佐はウィーゼルの冷たい頬を両手で挟み込み、自分の厳しい顔を見つめるようにした。
「殿下、少なくとも兵士たちの前では決してそのようなことを仰いませぬよう。あなたはこの南西領の公女、南西領の希望なのですよ?」
ちょうどそこへ、シオネビュラ神官団の伝令兵が駆けてきた。モーム大佐が素早くウィーゼルから手を離す。自ら伝令と向き合った。
「何事ですか?」
「はっ。同盟指揮部隊より、モーム大佐殿を除く総員ただちに食事のうえ休息せよとの指令です。大佐殿には指揮部隊に御足労いただきます。次の突撃訓練の時刻が変更となりました」
「いつですか?」
伝令は、なんとも不安になる答えを口にした。
「次に太陽が昇り次第となります」
それでは永遠に休むことになるかもしれないとユヴェンサは思った。レグロは何を考えているのだ?
とにかく、休める限りは休まなければならない。都に戻れると信じて。
都に、そこに夫がいると、愛する人がまだ生きていると信じて。
※
永遠に休む必要はなかった。ユヴェンサは
「再開!」
「訓練再開だ!」
歩哨たちが仲間を起こして回る。
「総員配置につけ!」
ユヴェンサは誰とも話さずにテントに戻り、軽鎧を身につけ、サーベルを
他の部隊は概ね配置についていた。ユヴェンサとモーム大佐は右翼後方の予備部隊を任されている。西の空はすっかり赤く明るかった。なだらかに上る丘の斜面に、月環同盟軍はほぼ陣形を整えていた。左翼に戦力を集中させ、指揮部隊であるシオネビュラ神官団を左翼後方においた斜行陣形だ。今回の訓練は特別らしい。斜行陣形だと? そのような訓練はメニューに含まれていなかったはずだ。聞かされてもいない。
「モーム大佐、この訓練はなんでしょうか?」
「仕事に集中なさい、チェルナー上級大尉」モーム大佐は何も説明しようとしなかった。「我々の役目は予備部隊の管理。いいですね?」
「はっ」
左翼から右翼へと、前衛から後衛へと、布陣が整っていく。ユヴェンサは、元の位置まで戻ろうともがく太陽へ目を向けた。その方角に都がある。都には夫が、マグダリス・ヨリスがいる。
攻撃部隊全体が静止した。陣形が整ったのだ。ただ後方から、輸送部隊がテントを畳む音だけが聞こえてくる――。
左翼後方から
「これより突撃訓練を開始する」号令がかかった。「全軍、前進!」
またも旗が波打つ。左翼側から右翼側へ、全ての旗が下りきったとき、突撃訓練が始まった。
冬枯れの草原に、土埃が舞い上がる。
右翼後方を支える重歩兵部隊の鎧の音が、最後列のユヴェンサの耳にまで届いた。全隊が丘を上り、下り、次の丘を上り始める。斜面を埋める前衛部隊の長槍のきらめきを見上げながら、ユヴェンサは恐れていた。接近しすぎだ。この丘の向こうはもう、日輪連盟の野営地なのだ。挑発にしても度を過ぎている。
ついぞ最前列の弓射部隊が丘の頂に立った。
停止の合図。
全世界が停止したようにユヴェンサは感じた。無論そんなわけはなかった。ニコシアの言葉が頭に甦る。
――我らシオネビュラ神官団に『やりすぎ』の語はない。
次の瞬間、ユヴェンサは叫び出しそうになった。丘の上の弓射部隊が一斉射撃を開始したのだ。
耳を聾する弓矢の唸りが風に乗って飛んでくる。
「予備部隊、右回れ!」
モーム大佐の号令だった。旗手が旗を掲げ、その指示の通りに、ユヴェンサも兵たちも体を右に向けた。体に叩き込まれた動きだった。
「我ら月環同盟軍第一軍はこれより都奪還に向けて総攻撃を開始する! これは訓練ではない! 繰り返す! これより総攻撃を開始する! これは訓練ではない!」
ああ、このためにモーム大佐は呼ばれたのだ。このために休息を命じられたのだ。
「予備部隊、右翼後方へ。最右翼ソレリア民兵団を支援する!」
鬨の声が聞こえる。前衛が弓射部隊から軽歩兵部隊へと交代し、突撃が始まった。丘の斜面の反対側の惨状を、ユヴェンサはまだ想像するしかない。
「進め!」
両翼を騎兵部隊に支持されて、前衛部隊が丘の向こうへ消えていく。
そこへ行くのだ。
ユヴェンサは心を決めた。都へ。都を。
――必ず取り戻す。