異状
文字数 2,924文字
川幅の広い運河には輸送船の一つもなく、雲を映して灰色に眠る水面には、風が
後ろから誰かが走ってきた。驚かせるように、両足を揃えて軽やかに跳び、プリスの隣に並ぶ。
プリスは本当に驚いた。
エルーシヤだった。
「駄目だよ!」咄嗟に非難が口を
エルーシヤは首を振った。微笑んでいるが、目は真剣だ。プリスは自分の態度を少しだけ後悔した。
「心配して追いかけてきたの?」
だとしたら最初から後ろにいたのだ。エルーシヤは都に来てからの時間の大半をプリスの家で過ごしており、土地勘がないのだから。
「……そっかあ」
無邪気なエルーシヤと手を繋ぐ。この寒さの中、彼女は手袋もしていなかった。
「仕方ないなあ。じゃあ、今日は早く帰るよ」
だが、エルーシヤはまたも首を横に振る。不意に物憂げな目つきとなり、その目を運河に沿って走らせた。
「どうしたの?」
それから、プリスの手を引いて、道を急ぎ出す。
「待って。急いだら危ないよ」
水の上を走る風に髪を乱されながら、プリスはエルーシヤの後ろを早足で歩いた。
女の子の、ただならぬ喚き声が聞こえてきた。それが耳のいいエルーシヤの気を引いたようだ。
声の発生源はプリスが何度か通りかかったことのある三角屋根の建物だった。何の工場なのか気にしたこともなかったが、古い高い煙突からは今日ももくもくと煙が吐き出されている。煙は強い風に押され、斜めに倒れて市街に流れていた。
工場の裏が声の発生源だった。鉄柵が開き、手押し車が運び込まれ、小さな子供が大人の男女を相手に駄々をこねていた。
「だってここまで運ぶのすごく大変だったんだよ!? どうして他の人はいいのに私はいけないの!?」
道の反対側からやって来た二人一組の警邏の騎兵たちも、
「買って! 買って! 買って!」
風が吹くたびに、おが屑が手押し車を覆う麻布の下からこぼれていく。
「買ってよおおおおっ!!」
「お前からは買わん!」ついぞ、中年男が子供の肩を蹴りつけた。「帰れ! 薄汚い乞食め!」
息をのむプリスの前で、子供は肘をついて後ろ向きに倒れた。幸い頭は打たなかったが、子供は感情を爆発させ、甲高い奇声を放ち、手足をばたつかせた。汚れた頬を涙が濡らしていく。もつれた黒髪に、おが屑が一つ二つとくっついていった。
気付けばプリスは開いた鉄柵の内側に乗り込んでいた。
「やめなさいよ、子供相手に!」
見るともなしに状況を見ていた通行人や近所の人々が、新しい展開に注目した。子供に手を焼いていた二人の男女は初めて気がついたようだった。プリスと、衆人環視と、二人の騎兵の姿に。
目に見えて男女の顔が
騎兵が一人、馬の鞍から降りてプリスを紳士的に諌めた。
「お嬢さん、ここは私が」
育ちがいいのだろう。騎兵はプリスと泣き止んだ子供の隣を颯爽と通り抜け、不釣り合いな男女、『ゼフェルの後継軍』のコル及びリグリーと、その素性も知らずに対峙した。
「ここは『五匹の魚』の蒸留所ですね。従業員の方ですか?」
もう一人の騎兵も、相棒の馬を引いて蒸留所の敷地に入ってきた。十人ばかしの目がなりゆきを見守った。子供も泣くのをやめ、視線を研ぎ澄ませた。自分を蹴った大人の窮地を見たいのだ。
言葉は丁寧だが威圧的な態度の騎兵に、コルは警戒しながら答えた。
「そうですが?」
「現在、都では軍に酒を納める契約を交わした蒸留所以外の稼働は認められておりません。この蒸留所も営業停止を命じられているはずですが」
「契約なら交わしている。帰って調べたらどうかね?」
「だったら軍から営業許可証が発行されてるはずだよね」
発言したプリスに視線が集まった。
「見せて」
「なんであなたに見せなきゃいけないの?」
リグリーが反発する。そこでプリスはマントの前を
「私は陸軍広報部のプリシラ・ホーリーバーチ少尉です」
これには、プリスを「お嬢さん」と呼んだ騎兵も度肝を抜かれた様子だった。リグリーが声を失う。
「軍の営業許可証の提示をあなた方に命じます」
そのときプリスはぞっとするような快感に心身を貫かれていた。ああ、命令するのはなんて気持ちがいいのだろう!
折良く、または
経営者の病弱な長男が、人々が立ち働く内部から血色の悪い顔を覗かせた。
「あの、何かあったんですか?」
その姿越しに内部を覗き込み、プリスは凍りついた。
※
場の空気がおかしいことを察知して、顔色の悪い青年は、戸の内側から初めて外の様子をよく観察した。プリス、子供、二人の陸軍騎兵、蒸留所を取り囲む十数人の目、しかも増えつつある人の目を認識し、ヒッ! と恐怖の声を発した。そのときには、騎兵たちも蒸留所内部の異状に気がついていた。
プリスに話しかけたほうの騎兵が、騎兵用の鎧を鳴らしながら裏口に走り寄る。青年は慌てて扉を閉ざそうとした。コルとリグリーは目配せをして、同時に建物を迂回して姿をくらました。
戸が閉まる直前、騎兵が戸と
「逃げろ!」
青年の上擦った叫びが、戸の向こうから聞こえてきた。
「みんな表から逃げて! 早く!」
サーベルを
騎兵は不意に戸が軽くなるのを感じた。思わぬ助っ人だった。子供が、小さな手を戸の隙間に突っ込んで、一緒に戸をこじ開けようとしていたのだった。
戸は開いた。相棒の騎兵が突入しながら青白い顔の青年を体当たりで押し倒した。
外と変わらないくらい冷たい空気の屋内には、蝋燭の灯と、一まとめにして寝かせた槍、壁に立てかけた様々な長さの剣、弩と、奥の壁際に訓練用の的があった。的は人の形をした布袋の額と胸に取り付けられ、周囲の壁には十本ばかしの、胸の的には二本の太矢が突き刺さっていた。
「ここで何をしていた!」
騎兵が怒鳴りつけても、青年はうーっ、と呻くばかりだった。
「言え!」
だがプリスには、抵抗しているのではなく、上に乗られて本当に苦しんでいるように見えた。
「武器がいっぱいだあ!」
子供は大喜びで、他人の悪事を吹聴するために走り去っていった。
入れ違いに近付いてくる声。
「どいておくれ! アタシは産婆だよ! 通しておくれ!」
プリスは倉庫の奥の闇から目を逸らせない。
「ちょいとごめんよ、お産が近いんだ! 通した通した!」
産婆の声を聞きながら、倉庫へと足を踏み入れる。騎兵たちは大人しくなった青年を引っ立てて外に出て行った。
騒動から一時間後。
産婆が駆け込んだ民家から、その家の人々の恐怖と絶望に彩られた悲鳴が外へと放たれた。