我々は負けたのだ
文字数 2,464文字
間もなく大劇場の周囲から日輪連盟軍は撤退し、劇場と図書館と裁判所を月環同盟軍は手に入れた。
夫に会ったら胸の内の愛をどれほど伝えられるかユヴェンサにはわからなかった。実際には、溢れ出るのを止められないのだとわかった。煤と惨めさにまみれ、都解放運動に身を投じた元強攻大隊の仲間たちが肩を落として歩いてくるのを見たときに。
先頭に立つのはかつての部下、アウィン・アッシュナイト中尉だった。兵たちが占拠する図書館を離れ、ユヴェンサは彼らのもとに駆け寄った。
「ヨリス少佐はどこ?」
アウィンにアイオラ、リーン、ミズルカ、ユンとクラウスの六人が一組となっていた。
そのうちの誰も答えなかった。
ユヴェンサは髪の毛が逆立つような恐怖に捕らわれた。
「私の夫はどこ!?」
ミズルカが、無言のまま右腕を上げた。
ヨリスの居場所を指したのだ。
崩れゆく巨大な月を。
※
歌が一斉に沸き起こった。星獣兵器にぶち当たったのだろう。月環同盟軍はいよいよ総督府を攻め落とそうとしている。同盟の団結は固い。士気も高い。
都の高級ホテルの裏手で、リアンセはそこで行われた殺戮の現場を見つけた。殺し屋たちが倒れるなか、壁に背をつけて一人の若者が座り込んでいた。若者は生きていた。うなだれ、すっかり意気消沈しているが。
ミスリルだった。
リアンセは転がる死体を避けてぬかるみを歩き、ミスリルのもとに歩み寄った。彼の隣には、一つの死体だけが丁寧に横たえられていた。胸で指を組み、顔にはチュニックがかけられている。
ミスリルは押し黙っていた。顔を上げようともしなかった。
「その人は誰?」
目を開けたまま眠っているのかと思った。だが、そんなことはなかった。ミスリルは暗い声で答えた。
「父親だ」
どうしたものかとリアンセは途方にくれた。が、ここまできてどうもこうもあるだろうか?
腰を屈め、ミスリルの二の腕を掴んだ。逞しかった。
「立って」
同情を見せずに言った。
ミスリルはしばらく腕を掴まれたままでいたが、やがて片手で舗道を強く押すように腰を浮かせると、リアンセ手を振り払い……内心の思いも振り払って……先に立って歩き始めた。リアンセは足を早めて隣に並んだ。
総督府へ。
※
議事堂広場への奇襲を成功させたとき、アナテス少佐の胸の内を正しさの感覚が支配した。日輪連盟の軍装のまま、腕章だけを外し、そこを襲撃せよと命令を受けたときには罪の意識に苛まれていたはずだったのに。結局、勝てば官軍なのだ。これでよかったのだ。
エーリカの命令によって、アナテスは議事堂及び議事堂広場で捕らえた日輪連盟の兵士たちを武装解除させた。負けを受け入れた連盟の兵士たちは、次から次へと両手を上げて議事堂から出てきた。議事堂の最上階には、捕らえられた市民の一団がいた。
その人たちの縄を兵士が解いていくのを見ながら、結局はこれでよかったのだとアナテスは納得することにした。
戦後の処理が始まるまでは。人々が抱き合って無事を喜び合っているあいだは。正しさの感覚が続くうちは。
※
議事堂が陥落するさまを、アランドは総督府の最上階から見ていた。議事堂の屋根から日輪連盟の旗がするすると下され、次に、月環同盟の旗が上がった。彼の頭にはエーリカの言葉がはっきり残っていた。陸軍を引っ込めろとエーリカは言ったのだ。
『できなければ、これ以降の兵士たちの死を総督の個人的な責任として問うこともできます』
アランドは窓に背を向けた。執事が後ろに立っていた。
「もう一度総督公邸に行く」
執事は身じろぎした。
「何をなさるおつもりですか?」
「私が一度でもお前の仕事に質問や口出しをしたことがあったか?」
それで、執事は質問をやめた。
アランドが執事を伴って執務室を出ると、警護に立っていた廊下の兵が、焦燥と不安に耐えかねて尋ねた。
「閣下、どちらへ行かれるのですか」
「持ち場を固守せよ!」アランドは少年ながら、総督らしく命じた。「割り当てられた持ち場を誰も離れてはならぬ、よいな!」
廊下の右端から左端まで、はっ! という返事、敬礼が埋め尽くした。虚しい気持ちでアランドは階段を下りていった。
総督府のエントランスでは、アランドに差し入れる軽食を入れた籠を腕に下げた、美しい女性秘書が歩いていた(母がどのような意図でこの秘書をあてがったにしろ、アランドが手を出したことはない、断じて)。
「閣下、外で誰かが歌っています。なんの歌でしょうね」
星獣兵器のことなどなにひとつ知らないこの女の質問に、アランドは不意に怒りを覚えた。
「月環同盟軍の勝利の歌だ。いよいよ総督府に攻め込むために」
びっくりする秘書にアランドは重ねて言った。
「他に何がある? 誰が何故歌うというのだ?」
エントランスを警護する兵が聞き耳を立てているのをわかっていながら、アランドは捲し立てた。
「君たち日輪連盟の連中は都で何を見た? 夢か? 夢はいい。ただで見れる。安上がりなことこの上ない」
「閣下?」
「君は楽な仕事で甘い汁を啜り――」
アランドは、さも「私傷つきました」という顔の秘書をもっと侮辱しようとしたが、思いとどまって一旦口をつぐみ、首を横に振った。
「――我々は負けたのだ」
静寂の中を横切って、アランドはエントランスを出た。執事が重い両開きの扉を開くと、確かに歌が聞こえた。この歌が、噂の、星獣兵器に対する秘密兵器か。あまり長く聞いていたい響きではなかった。
公邸へ続く一本道を歩き、たどり着くと、アランドは総督の寝室ではなく、子供の頃からの自分の部屋へ執事を伴って向かった。扉を開け放つと、懐かしい眺めが広がった。壁一面を埋める本棚。天蓋付きのベッド。何故毎日同じ建物内にある寝室で寝起きしているのに、この部屋を懐かしく思うのだ?
たぶん、もう戻ってこれないからだろう。
失意のうちにアランドは命じた。
「旅行鞄にありったけの本を入れてくれ。気に入りの本だけでなく、読んだことのない本も」
牢で過ごす時間は長かろう。アランドは言った。