御託が長いんだよ
文字数 4,710文字
パンジェニー・ロクシの処遇という議題が加わったせいか、次の会議は昼を過ぎても終わらなかった。今日の会議は一番弟子たちも締め出しだ。昼どき、アズとトビィとレミの三人、ミスリルとアエリエとテスの三人にマナを加えた七人は、自然と井戸端に集い、噂話を始めた。
「最終的には出て行ってもらうことになるだろうな。時期が悪すぎる」
それが、パンジェニーの扱いに対するミスリルの意見であり、もっとも現実的な意見でもあった。
「まさかとは思うけど、彼女を同盟軍に差し出す決断もあるかしら。ねえ、アズ?」
アエリエが、壁に背を向けて考え込んでいるアズに話を向けた。
「何を考え込んでいるの?」
何かに気付いたように顔を上げ、アズは背筋をぴんと伸ばし、アエリエと目を合わせた。すぐにその目をマナに向けた。
「ないはずのものがあるならば、あるはずのものがなくなることもあるか。昨夜パンジェニーは話していた。
『月』がただ漂着しただけのものではなくて、まるで未知の力で言語生命体の領域にもたらされたと考えている人たちがいる。マナ。君もその一人だ」
マナはアズの視線をしっかり受け止めて、その顔を見上げていた。
「投獄されたシグレイ・ダーシェルナキが外洋進出を考え出したのは、海の向こうに地球人はいないのではないかと考えたから。『月』の漂着は、前総督のその考えを裏付け得るものだった。そして戦争が始まった。違うのか? マナ」
「戦争は人間が始めたもの。『月』は関係ない」
素っ気ない答えだった。アズは一番聞きたいことを直接聞くことにした。
「じゃあ、例えばこういうことは考えられるだろうか。人間が、消えてなくなるような。文字通りの意味で消失することは」
「人間すなわちヒト型言語生命体が消失する現象として最もよく知られるものが言語崩壊」
息継ぎをすることなくマナは言った。
「言語子の働きの異常によって、ヒト型に限らず全ての言語生命体に起こること。言語崩壊はヒトを
「でもそれは、言語崩壊っていう理由があって起きることだろ?」
ミスリルの言葉にマナは頷いた。
「あのね、ミスリル」
少し間を置く。
「存在がほどけて消えるのが言語崩壊。じゃあ存在する因果がなくなることは? アズが知りたいのはそういうことでしょう?」
そうする必要性を思い出したときには、随分と人間らしい話し方を身につけたものだとミスリルは思った。
「月が理由なく存在し、私の発生が必要とされたように、存在するものが理由なく消えるとしたら、その現象を表す言葉を私たちは持っていない」
「お前でもわからないのか?」
「言語生命体の神である地球人でさえ、そういうことが起きるとは恐らく予測すらしなかった。地球人と同じように、私は全知全能じゃないの」
それもそうだとミスリルは思い直す。南西領言語の塔、砂の書記官。それすら地球人による被造物にすぎなかったのだから。
「言語崩壊に対して、論理崩壊と名付けようか」マナは言った。「リレーネという女の子は、『月』に関して、『
「ああ」
「どうしてリレーネがそう言ったのか私は知らない。けど、もし『月』が自らリレーネにそう語ったなら、これは外宇宙、多宇宙、鏡像の世界からもたらされたもの」
「なんだか現実の話とは思えないな」
ミスリルは悪気なく言った。
「私が恐れるのは、ミスリル。一つの因果関係、一つの論理の綻びが全体に波及すること。つまり、あるべきものの消失から始まって、この世界に予測不能な事象の乱流が起きることなの」
言葉を切り、マナは腹に手を当てた。
「だから、私は『月』を私にした。更には私がこの世界に在るために、誰かの子でなければならなかったの」
南棟の扉が開いて、オーサー師が顔を見せた。
「アザリアス」
と手招きする。動きかけたトビィとレミを制した。
「お前たちはいい」
困惑する二人の仲間に対し、アズはどこか待ち構えていた様子で「行ってくる」と告げ、迷いなく師へと歩み寄り、南棟に消えた。
扉が閉まる。
「私には――」レミが困惑したまま話を継いだ。「どうしたらいいかわからないよ。こんなの、パンジェニーを追い出してどうにかなる問題じゃない」
トビィが答える。
「もし論理崩壊っていうのが本当だとしたら、そもそも自警団にどうこうできる問題じゃないわけだし。それとは別の話で自警団は保身しなければならないから……」
マナに目線を動かして、言葉を引き取った。その沈黙が何を意味するか、全員にわかっていた。
立場が危ういのは、パンジェニーだけではないのだ。
「させない」ミスリルは断固として言った。「マナを一人で追い出すような真似は絶対にさせないからな」
「ミスリルは自警団からマナを守るんだね」
トビィの指摘で、ミスリルは自分が何を言ったか初めて気付いたような顔をした。
「ううん、別に責めてるんじゃないよ。意志を確認したかったんだ」
ミスリルの隣のアエリエは、黙っているが困惑や動揺は見られない。いつもの通り、意志を秘めた穏やかさを保っている。その意志を、敢えて誰も
「ミスリルがマナを守りたいのは当たり前のことだろう」とりなすようにテスが呟いた。「変わった経緯ではあるけれど、実の娘なんだから」
そう話している間にも、コブレンの市街は少しずつ様相を変えつつあった。戦争のとばっちりを恐れた周辺の村落の人々が、コブレンの高い城壁の内側に受け入れられ始めたのだ。
その人たちの住んでいた村は戦場になり、いよいよコブレンの北側、トレブレン–コブレン間大道路は月環同盟軍のものとなった。一方コブレンの南側からグロリアナへ下る方面は、変わらず日輪連盟軍の支配下にある。
このような状況で、いよいよカーラーン・ダーシェルナキは軍を率いてコブレンに入城した。
※
それまで人となりのほとんど知られていなかったカーラーンは、ある朝ついぞコブレン市民の前に姿を現した。銀の甲冑に身を包み、黒い馬にまたがる少年は、褐色の肌に紫がかった黒髪、彫りの深い顔立ちをし、銀色の虹彩からは、熱に浮かされたような高揚が読み取れた。
カーラーンは五十騎を引き連れて、入城パレードを第二城壁の外側の広場まで進み、自らは少数の護衛とともに水堀を渡り市庁舎を訪問した。
彼は市長をやすやすと取り込んで、次は市民を味方につけようと演説を開いた。こんな具合だ。
自分はコブレン出身の乳母に育てられ、天然の資源に恵まれたコブレンがいかに美しく、また経済活動の活発であるかを教えられ、いつか訪ねてみたいものだと心から思っていた。
恥ずかしながら我が母と兄が主導した謀反により、コブレンには未曾有の危機が迫っている。ご存知の通り、日輪連盟加盟都市が数の上で優勢である王領などでは、死刑制度に代わり奴隷制度が導入されている。これは日輪連盟による人身売買を是認するものであり、この豊かな都市が日輪連盟の支配を受ければ、敗者の常として、あなたがたの夫や息子や兄弟たちは労働環境の劣悪な王領の金鉱に送り込まれ、あなた方の妻や娘や姉妹たちは慰み者にされるだろう。
私は南西領の正当な総督であるシグレイ・ダーシェルナキの次男として、コブレンを守り抜くという難しくも尊い課題に直面している。これをやり遂げるために、どうか、城壁の北に野営する兵士たちを市内へと受け入れ、宿営させていただきたい。いずれはシオネビュラ神官団の庇護を受ける幼く勇敢な妹や、どことも知れぬ場所で
という趣旨の演説を、市庁舎の前に押し寄せた市民たちは困惑とともに受け止めた。
「どう思う?」
「は?」
グザリアは、近くの建物の三角屋根の上でミスリルに問いかけた。ミスリルは父親も同然の師に肩を竦め、不機嫌で砕けた口調で応じた。
「
コブレン自警団への接触は、この時点では行われていなかった。夕方、市長の使いが自警団本部を訪れた。そして、軍が宿営している間、夜警と定時巡回を取りやめてくれと要求した。グザリアはそれを受け入れた。ただし、特殊部門の人員による裏の巡回だけは内密に続けた。今、この街の暗殺者たちの活躍を許すわけにいかない。特に月環同盟軍や市議会の関係者の流血は、絶対に防がなければならなかった。
アズは夜を
俺はコブレンを愛しているだろうか。
風のなか、アズは自問する。
わからない。
ここにいるしかなかった。だから、コブレンという都市と、ここにいるしかない自分を受け入れて生きてきた。
『二人は面倒見きれん』
それが、この街での最初の記憶。
隊商がコブレンに入ってすぐ、商人である父は病で命を落とした。アズは四歳だった。隊商の
『二人は面倒見きれん』
それが理由だった。
大泣きして追いすがった。
同じように大泣きして、トビィは大人たちの手を振りほどいてアズのもとに戻ってきた。もう二度と会えなくなるとわかっていたのだ。抱き合って泣く幼い双子を見、隊商は両方ともを置き去りにしてコブレンを出て行った。
今くらいの季節だった。声も涙も枯れ、二人は寒風の中で身を寄せ合った。そこはたまたま自警団の表の巡回路だった。夜警の歌と明かりが近付いてくるのを、息を殺して見つめていた。
不審な人影を見つけて、アズは派出神殿の鐘楼の陰に身を屈めた。テスが追いついて同じようにする。自警団員たちと同じく、夜の都市で屋根屋根を跳梁する影が二つ。
自警団員のルートではないから、下級暗殺者どもを見張る〈タターリス〉の精鋭だろう。雰囲気からして、エーデリアとその妹分ではないかとアズは感じた。アズは彼女たちと、市庁舎の様子の両方に注意した。
そのうちに、市庁舎から、数十人が隣接する市長の屋敷へとぞろぞろ移動した。宴が行われるのだろうか。
だが、屋敷に吸い込まれた人間は、夜が明けても誰一人出てこなかった。翌朝には、血まみれの剣を拭ったばかりの兵士たちが市庁舎を占拠した。
コブレンを我がものとするのに、カーラーンはこの都市の
コブレンの有力者たちの骸が転がる血みどろの宴会場に、朝日が斜めに差した。
鉱山の頂きを染める雪は徐々に下りきて、その白い裳裾は間もなく鉱山街コブレンに触れようとしていた。