密談(2)
文字数 2,382文字
リアンセは、数日かけて島々の小基地を巡る正位神官将夫人ロザリア・ライトアローの任務に同行していた。小基地の防衛を放棄し、戦力を本島に集結させるのが目的だった。
ヨリスタルジェニカの白い詰襟の戦闘服に身を包み、輝くばかりの長髪を編み上げたロザリアは、妹の目にも美しさと高貴さに満ち溢れていた。最後の島にたどり着き、撤収を促し、ロザリアを乗せた船は一路本島を目指して複雑な潮流に乗った。
「共に海を巡るのは、これが最後かもしれません」
太陽が、水平線に触れようとしていた。茜の光が海一面に撒き散らされていた。
おおよその用件はわかっていた。
リアンセは決断しなければならなかった。指示の通り、タルジェン島に留まるか。それとも本土に帰り、危地に馳せ参じるべくシルヴェリアを探すべきか。
シルヴェリアは暗号で書かれた手紙の中で、はっきりと、リアンセに命令を発していた。『月』がタルジェン島に持ち込まれた場合の対応だ。
上衣の内ポケットの中、シルヴェリアからの手紙が重みを増す。
タルジェン島に『月』が持ち込まれ、且つ『万一タルジェン島陥落の際には――』
「もしも『月』が消えていなかった場合には、私たちは領土を死守しなければならなかったでしょう」
周囲の兵も遠ざかり、姉妹を二人きりにした。
状況は予期せぬ方向へ転がった。リアンセも、まだ島内に『月』があるとは考えていなかった。
「リアンセ」
ロザリアは、歩み寄り、
「この水平線の向こう、
いません
」リアンセは息を止めた。だが、立ち働く兵士たちの手前、表情は変えなかった。姉の口から耳を離し、目をしっかりと合わせながら囁き返した。
「機能を停止しているということではなくて?」
「ええ。存在しないのです」
太陽が、まっすぐ横手から差して、ロザリアの目から色を奪った。
「それがヨリスタルジェニカが出した結果なの?」
「予測がまずあり、それが裏付けられた結果です」
「何者かがセイレーンを回収した……」
そんなことができるのは、この惑星の裏側に住む地球人だけだろう。それがまだ、惑星アースフィアから完全に立ち退いていないなら。
「いいえ」
ロザリアはまた、口許を手で隠す。リアンセは耳を寄せた。海風だけが、二人の間を過ぎていった。
「もし、セイレーンが初めから存在しなかったのだとしたら?」
風が、ロザリアの耳飾りを揺らした。そのかちゃかちゃという音は、何故かしら苦い郷愁で
ロザリアは黙し、それ以上は教えなかった。だが、いずれ必要になると判断して言ってくれたに違いなかった。
ああ、と、リアンセは声に出して頷いた。
上官のアセル・ロアング中佐は明らかにこのことを知っていた。彼もまたこう言っていたのだから。ダーシェルナキ公は、セイレーンが今も存在しているかどうかを知りたがっている、と。
あれはロアング中佐がリアンセに与えられる精一杯のヒントだった。任務中、いつ捕らえられ、拷問されるかわからないのだから。教えるわけにはいかなかったのだ。
だが、陸軍情報部は都での反乱の動きを掴めなかった。
または、故意に看過した。
信用できる人間を判別しなければならない。慎重に。
「シオネビュラ艦隊から連絡船が来ています」
ロザリアが背筋を伸ばし、引き締まった声で告げた。密談は終わりだ。
「今決断なさい、リアンセ。タルジェン島に留まるか、本土に戻りシルヴェリア殿下の
ヨリスタルジェニカはシオネビュラからの艦隊派遣要請に応じた。引き換えに、シオネビュラは戦闘に加わる意志のないタルジェン島民の疎開を受け入れたのだ。リジェク・北ルナリア両市の居留地から人を追い出したがゆえに、それが可能となったのだ。
島民の疎開は始まっている。本島を訪問していたコールディー三位神官将の艦隊が疎開船に同行している、との話もリアンセは聞いていた。
間もなく日は沈む。猶予はない。
そしてリアンセは、決断の早いほうだった。
「本土に戻ります」
その声と口調は、ロザリアの妹のものではない。生真面目な陸軍士官のものだった。ロザリアの微笑みで、それこそ姉の望んでいた答えであったことをリアンセは悟った。
「あなたにはこれをあげます」
ロザリアが、編み上げた髪から三日月型の飾りを外した。金と宝石、垂れ下がる星々、そして髪に差すための棒の部分に、紙が一枚巻かれているのをリアンセは確かに見た。
密書だ。
悪戯っぽく微笑んで、ロザリアは紙を手で隠しながら髪飾りを寄越した。リアンセの髪は一括りに束ねただけだったので、差すことができなかったのだ。
「ありがとう」
受け取った髪飾りは、姉の体温が移って生ぬるく、実際以上に重く感じられた。
「大切にするわ」
もしかしたら、これが形見になるかもしれなかった。どうして正位神官将夫人ともあろう者が、戦場を離れられようか。
ロザリアの微笑は慈悲深かった。
「プリスによろしくね」
リアンセは急ぎ連絡船に乗り移った。太陽はもう、半分以上が海中に没していた。
姉妹はそれぞれの船の舳先から、互いに手を振りあった。天に藍色の夜の裾。それに引きずられるように、星々が動いてくる。眼下に水の海。見上げれば星の海。天と地を隔てる天球儀の白い網目にふと焦点を定めたとき、自分は姉に何も渡さなかったということに、リアンセは思い至ったのだった。