歌う暗殺者
文字数 3,619文字
少女の名はリレーネ。護衛の男の名は、リレーネが口にした通り、リージェスだった。
リージェスは今、片手剣を鞘に収め、足を痛めたリレーネを背負ってミスリルの後ろを歩いていた。
追っ手たちは
ミスリルから十歩も距離を
テスは、本名をマリステスという。歳は次の秋で二十五になる。
「俺の下調べによれば」
リージェスの唇の動きを、テスはそう読んだ。
「この町に
「殺し屋」
繰り返すリレーネに、リージェスは頷かなかった。
「この男たち、『自警団』と名乗ってはいるが実態は殺し屋どもに変わりない」
フードの下からリージェスの口に視線を注ぎ、部外者から自分たちへ下される評価をテスは冷静に受け止めた。
コブレン自警団は、小規模な民間の武装組織として正式に認可されている。自警団としての助成金も市から受け取っている。それでいてなお、実態が暗殺組織であるという指摘はその通りだった。
コブレン自警団は他の組織の暗殺者を狩る。
市民に手を出すことは決してない。
代々受け継がれる戦闘技能と暗殺術は、都市の水面下に蠢く
今ではコブレン自警団は、コブレン市内で第一位の勢力を持つ『殺し屋』たちの組織だった。それは、他の組織による市内での人身売買、拉致、辻斬り、経済搾取といった蛮行が阻止されていることを意味している。
だがリージェスの評価は厳しい。
「こいつらは赤子のうちから、自分たちの殺しを正当化する異端宗派の教義と殺しの技術を刷り込まれてる。俺たちとは全く違う人間だ。殺し屋どもを信用するな」
ここでリージェスは、ふと気になったのか、後ろを振り向いてテスの様子を確かめようとした。そして、その相手がまったく気配を消して真横に立っていたことに気がつき、顔を
唇を読まれた可能性に思い至ったのだろう。
リージェスの黒髪に頬をつけ、リレーネが存外落ち着いた声で尋ねた。
「お名前をお聞かせいただけますか?」
荒く削った
テスは微かに笑みを浮かべ、長い坂道を下りながら少女に一礼した。
「私のことはテスとお呼びください」
「
と、前を行くミスリルの一言。
もちろんリレーネもリージェスも、その意味がわからない。
折りよく白色光に満ちた広場に出た。
天籃石の巨大な一枚板の屋根をもつ、『鏡の広場』と呼ばれる場所だった。
昼の光を蓄える性質を持つその石の下で、テスはマントのフードを脱いだ。
濃緑の髪が現れた。
肩まで伸ばし、一つ結びにしたその髪は、歩みに合わせて光が当たる角度が変われば黒、藍、青、黄、金と色を変える。
ミスリルが初めて振り向いて、歯を見せてニヤリとした。
「こいつの頭、鴨の頭の色みたいでしょう」
その軽口に、リレーネはクスクス笑ったが、リージェスは仏頂面のままだった。
光る石の一枚板の下を通り抜けながら、テスは目線を上に向けた。この屋根の上に何かが置かれていたら、黒い影が見えるはずだった。
なんの影も見えないことに安堵した。
今夜は赤子が捨てられていないのだ。
広場を通り抜けると、道は再び上り坂となる。上りきったところが自警団本部だった。
本部は、かつて城として使われていた建物だった。円塔をそなえた門の歩廊ではあかあかと火が焚かれ、それをくぐり抜けると正面の建物の玄関に上がる階段がのびていた。花はなく、木もなく、玄関口には黒い旗が垂れている。風がないため模様は見えないが、血の滴るナイフ、
煉瓦造りの建物は、天のまばゆい星々と天球儀の光の下、ひたすら無骨に見えた。
ミスリルは玄関に向かわず、左側にある煉瓦の長いアーチをくぐった。その先は井戸のある中庭で、灰色の石が敷かれており、それと同じ色合いの石で造られた別の建物が現れた。正面玄関のある先の建物が東棟と呼ばれるのに対し、西棟と呼ばれるその建物は、花壇をそなえ、壁の一部を蔦が這い、いくつかの窓が素焼きの壺と花で飾られているため、壁の色合いと
入口はアーチ型の木戸で、見た目よりもずっと軽い。入ってすぐのアトリウムで、ミスリルは身につけていた安物のマントを脱いだ。
白色光に満ちたアトリウムで、眩しさに細められたリージェスとリレーネの目が、ミスリルの腰に注がれていることにテスはすぐに気がついた。ミスリルの
もし彼らがその武器を警棒だと思っているのなら、さぞや奇妙な警棒に見えていることだろう。腰から膝までの長さがあるその『警棒』は、三本も差されており、しかも三本ともが鎖で連結されているのだ。
リージェスは油断なくアトリウムに目を走らせて、吹き抜けの二階部分に目を留めた。そこには一階の炊事場の熱を利用した温室がある。毒を持つ五十種類の植物が、季節を問わず栽培されているのだ。
ミスリルは目で促して、リージェスを階段下の扉へと促した。
このアトリウムに限らず、床は全館板張りで、侵入者があればすぐにわかるようになっていた。どの床板が踏めば鳴るのか知らないリージェスは、扉に着くまでに四度も床板を盛大に鳴らした。
「この先は礼拝室です」
自らの言葉に触発されたのか、ミスリルのまとう気配がいつになく引き締まる。ドアノブに右手を置き、彼は振り向いて言った。
「
「捧歌?」リージェスは訝しげだ。「祈るのか? 何を?」
皮肉な調子で唇を片方吊り上げて、ミスリルは応じた。
「
ミスリルが扉を開け放つ。
アトリウムよりずっと暗い廊下が左右に横たわり、三歩とおかずして真正面に両開きの扉が待ち受けていた。
それを開け放てば、香の煙が溢れ出て、遅れて待ち構えるような夜警団の目線が感じられるようになった。
聖別された灰を収めた杯が祭壇に安置されている。太い二本の蝋燭が、礼拝室の一番明るい光源だった。揺れる
リージェスがベンチの間から身廊に出て、ミスリルが翼廊の仲間たちと合流する。テスは戸口から動かなかった。
不思議そうに一同を眺めるリレーネの前で、自警団員の一人が持つ長い棒が床を打った。取り付けられたいくつもの鈴が一斉に音を立てた。
藍色の髪を結い上げた女が、ティンシャの紐を指に絡めて右腕をあげる。二枚の合金が触れ合って、その音色によってむしろ静寂を引き立てた。
歌が始まる。
女の独唱。和声が乗り、旋律が始まる。
男声の対旋律。
ティンシャ。
鈴。
この広大な囲いの大陸でも、ここでしか聞くことのできない、
「ワレ信ズ 不滅ノ光
時ノ
やがて歌が終わり、一同は客人を除いてうなだれ
あ、という、微かな少女の声に、扉を守るテスは顔を上げた。リージェスにこう囁くリレーネの唇の動きが、
「足が癒えておりますわ」