自壊せよ
文字数 4,513文字
ケイン・アナテス少佐はこの防衛戦の真っ最中に、副官もろとも憲兵隊司令部に呼び出された。憲兵隊員たちの反乱の責任追及、有り体に言えばトカゲの尻尾切りだ。
「かくかくしかじかの経緯で君は部下たちの反乱を防げなかったわけだが、どう処罰してくれようかね?」
すると同席する他の将校たちが一斉に「減俸! 減俸!」
「やめろ」アナテスは懇願する。「そういう心にくるのはやめてくれ」
「では代わりに前線送りというのはどうかね」
というやり取りがあったかどうかは知らないが(この通りのやりとりではなかったはずだ)、アナテスは前線に更迭され、裏切りの密告者には報酬を支払うという約束が日輪連盟の全ての将兵及び軍属になされた。
ところでヴァンは、かつて歌流民の少女から不審なハンドバッグを受け取るところを同僚に目撃されており、ハルジェニクがプリスの部屋から逃走した際には歌流民の少女が同行したこともヴァンが非番だったことも知れ渡っており、さらに今、ヴァンが属する強攻大隊は大した働きもせずに金獅子門の防衛から引き上げたことで面目を失っていた。強攻大隊を擁する第一歩兵連隊の指揮官コーネルピン大佐は、なんとしても失地を挽回しなければならなかった。精強無比で知られる強攻大隊がなんの手柄も立てられず、撤退から集合までに時間がかかりすぎ、その間に少なからぬ犠牲を出したのは何故か? 新しい指揮官が馴染んでいないせいか?
それとも裏切り者がいるのか?
「リンセル少尉」
煤にまみれ、精気を失った表情で、中隊長によって半ば引きずられるように議事堂前広場に辿り着いたヴァンを、コーネルピン大佐は今か今かと待ち構えていた。都解放軍と合流しそびれ、自身の小隊の兵を多く見失ったヴァンは、ようやく目に力を込めて背筋を伸ばした。
「はっ! 連隊長殿――」
「君の兵士はどうしたね?」
「前線の火災と避難する民衆の流れにのまれ、散り散りとなりました。議事堂前広場に集まるようにとの命令は行き届いておりますので、順次到着するはずです」
「それは結構」コーネルピン大佐は気のない様子で頷いた。「それより少しこちらに来て話をしないか?」
「ですが……」
「連隊長である私が、君から直々に話を聞きたいのだ」
同じ大隊の将兵たちにちらちらと視線を送られながら、ヴァンは臨時の指揮所となった議事堂へ、連隊指揮部隊の兵士に取り囲まれて連れられていく。
「前線について、少し聞かせてもらおうじゃないか」
※
月を見るために、雪積もる屋根に上った。
日輪連盟軍は既に城壁の防衛を放棄していた。都内部を複雑に分断する河川を利用して、ほぼ全ての主要な橋を上げ、各区画ごとに守りを固めている。これを月環同盟軍がどう攻略するかは、都解放軍との連携次第だろう。
火災は貧しい区画の木造の家々を焼き尽くしたところで自然と鎮火していた。
まだ、火がくすぶっている。区画全体を走る赤い
城壁には篝火が焚かれ、月環同盟の勝利の
ミスリルは顔を上げた。
わずかな雲の切れ間に見上げる天球儀の白色光の網目と遠い星の海、その中間に月はいた。欠けることのない月が。
「ミスリル」
気配を殺して、誰かが同じ屋根に上がってきていた。拳を握りしめていたミスリルは、目線を前に戻し、凍る雪を踏みしめて歩み寄ってくる声の主と向き合った。
「テス」
テスは警戒するように、十分な距離を挟んでミスリルと向き合い、立ち止まる。
ミスリルは尋ねた。
「どうして自警団に戻らないんだ?」
「アズとトビアスの安否がわかるまで戻るつもりはない」
「それこそ自警団に戻ればわかるじゃないか」
「団長は俺の、二人を気遣う気持ちを利用している。それが気に入らない」
「あの二人は死んだ」ミスリルは自分の見解を口にした。「死んだから、それをはっきり言わずにいることでお前を利用できると考えたのさ」
「生きている」
感情を剥き出しに、テスは否定した。
「生きていると俺は信じる。もし死んでいるのなら、信仰なんて捨ててやる」
「……天球も、大地がもたらす恵みもか」
「アズとトビアスが生きてるほうがいい」
「何がお前にそこまで言わせるんだ?」
「謝らないといけないんだ。アズに」
「何があったか知らないけど」ミスリルの拳に、自然と力が入る。「その想いは、天球の恵みとそれを作りたもうた神を否定するほど大きいのか?」
「神がなんだ。あの二人が死んだなら、そんな奴はいない。いたとしても俺たちの神じゃない。地球人の神だ。そいつは俺たちを愛してなんかいない」
「そいつって……」
ミスリルはちらりと火災の跡を一瞥し、息をついた。周囲は焦げ臭かった。
「少し冷静になれよ。失いたくないものぐらい俺にだってあるさ」
「マナ、か?」テスの瞳が冷たく光る。「可能態の奥行きの軸の中から、マナがここにいる可能性を選択するつもりか?」
「それができるなら――」
言い切るまでもなく、空間が変転した。
火災の燃え残りの熾火も城壁の篝火も消えた。地上も城壁も屋根も雪も消滅した。
一面灰色の空間に二人は立っていた。ミスリルとテスの間、目の高さに、一抱えもある月が浮遊していた。白く輝く、月。
『可能性は慎重に選択しろと言ったはずだが?』
「お出向きいただいて、どうも」
ミスリルは口を歪めて不機嫌に挨拶した。
「『砂の書記官』とは分離したのか?」
「聞くだけ無駄だろう」と、テス。「これが現状マナじゃないというのが答えだ」
一歩、ミスリルは月に歩み寄る。
「それで、結局あんたは何なんだ?」
『ただの地球人だ。誰にも愛されることのなかった』
「へぇ、そりゃ驚いたな。だったらアースフィアに現存する唯一の地球人ってわけか」
『……語弊があった。私の本体はとうに死んでいる。私の生涯に関する記録が、
「月が欲しいとでも願ったのか? リリクレストお嬢様は」
月は答えなかった。
「わからないな」今度はテスが質問する。「どうしてお前に関する情報の中から、『誰にも愛されることのなかった』という情報を選んで自己紹介したんだ? それが今のお前の姿や世界の危機と関係しているのか?」
『誰にも愛されなかった、これほど私を表現するのに相応しい言葉はない。それだけのことだ。父も母も私に興味はなく、友もなく、生涯ただ一人愛した女は実在しないものだった。わかるか。誰にも愛されぬということは、他人にとって己は何者でもない、自分が誰でもないということだ』
「他人にとってどうだろうと、お前はお前だろ? 俺にはわからないな」
『お前がわからぬまま一生を終えられることを私は望む、ミスリルとやらよ。お前は孤独が似合う人間ではない』
「へぇ、地球人サマが言語生命体を人間だと認めてくれるのか?」
『地球人にとってお前たちは人間ではないが、人間だと思わなければ愛することはできなかった。お前たちをお前たちのまま愛することができなかったのだ。それは愛という観念への不信を、地球人という種族の意識にはびこらせた』
「無様だな。神を
『笑うがいい。結局のところ、愛への不信が地球人全体を孤立させ、この宇宙のアースフィアにおいて時空漂流へと向かわせたと言っても過言ではないのだから』
「壮大な連中だな。愛を見失ったがために時空漂流をするなんて。それでどこかの時空間の通路からお前が呼び出されて俺たちの世界を壊すって?」
「なあ」
ミスリルの反対側から、テスもまた月に歩み寄る。
「こことは違うアースフィアでは、俺の二人の兄弟子も生きているだろうか?」
「よせ、テス」
「勘違いしないでほしい」
テスは首を横に振った。
「平行宇宙とやらが実在して、他の時空のアースフィアの俺が、同じ姿で……いや、俺の百倍優れた奴でも、そいつにこの俺となり変わってほしくはない。同じように、どこか別の宇宙にアズとトビアスが生きていても、あのアズとトビアスでなければ俺の兄じゃない」
『いかにもそうであろう。平行宇宙をさまようということは、愛する人を、自分自身をも他人にするということだ』
「お前たちに愛がないのは当然だ」テスは月を睨みつけた。「俺はお前が気に食わない」
『何故だ?』
「ここまで自分で言っておいて、俺が解説しなければわからないのか? 平行宇宙という観念を証明するお前の存在が、全ての愛する人を他人に変えてしまう潜在的危険を秘めているからだ。地球人、お前は俺たちの神だった」
『いかにも』
「ならば一つ、言語生命体の願いを叶えてくれ。お前が誰でもない存在なら、叶えられる願いだ」
『言ってみろ』
テスが息を吸い込む。ミスリルは本能的な危機を感じて叫んだ。
「やめろ!」
遅かった。
テスもまた叫んだ。
「自壊しろ!」
灰色の時空に一瞬、戦争が行われる都の光景が二重写しになった。月が消える。気配を感じて顔を上げたとき、月は、ぎりぎり手が届かない高さに浮いていた。
『砂の書記官、応答せよ。私はお前やマナとの完全なる分離を要請する』
「何をするつもりだ!」
ミスリルに構わず、どことも知れぬ時空に月の声が無慈悲に響く。
『マナの人格のバックアップデータの破壊を要請する』
『砂の書記官によるマナの代理人格の上書きを許可し、意思出力及び入力経路の遮断を要請』
「マナはどうなる!」
周囲が暗くなっていく――
『消滅するか、さもなくば自我を抱えて宇宙をさまようことになる。マナという存在を記憶する人間が死に絶え、マナの存在によって引き起こされた事象への波及が可能態の微小なノイズの範囲に収束するまで』
「させるか!」
暗闇。
ミスリルは都、民家の屋根の上にいた。城壁には篝火が焚かれ、地上には火災の残り火。
眼前にはテス。
「この野郎!」
殴りかかるミスリルの手首を、誰かが握りしめた。テスはマントを翻し、屋根から飛び降りて去っていく。どことも知れぬ夜の闇の中へ。
ミスリルの手首を握るのは、華奢な少女の手。
少女は空中に浮いていた。
月があった場所。
そこにマナがいた。
『ミスリル』
浮遊する少女は、言葉を失うミスリルに語りかけた。
『
ミスリルは混乱する頭で必死に考える。
マナ、お前は月なのか? あの空虚な心から生まれたのか?
問いかけは、しかし、声にならなかった。
『私に祈る神はいない。だけど、あなたに会いたい』
名前を呼ぶのが精一杯。
「マナ」
『覚えていて』
マナの姿がかき消える。手首に感じていた温もりがなくなった。マナの声もまた、かつて言語の塔で聞いた声、砂の書記官の中性的で無機質な声になりかわる。
『私たちは誰も』
『永遠に生きられない/永遠を生きている』
気配が霧散した。
ミスリルは一人、夜闇の中に立っていた。
「マナ」
空を見上げる。
風が雲を消していく。
燦然たる月。赤の他人の月。
「――マナ!」
返事はない。
闇。