市街戦/コブレンの戦い(2)
文字数 4,354文字
第二城壁突破後、北へ数ブロック進んだところで、日輪連盟軍の進撃は滞った。防御側の兵が高密度の壁となり、立ちはだかったからである。兵士たちの壁を、柔らかい星獣が崩しにかかった。その緑色の星獣が石畳をのたうつ姿は、ナメクジに似ていたが、両腕が胴に癒着した人間のなれの果てのようにも見えた。
半透明の胴体の紋様は矢と盾で、矢が盾にぶつかると砕けて盾に変じ、盾のほうは矢に変じた。星獣は紋様の変転を繰り返しながら、細長い胴体の先端で立ち上がり、倒れこみ、また反対の先端で立ち上がった。速度は徐々に早くなり、月環同盟軍の兵士の隊列に突入していくときには、暴走する車輪のようになっていた。その星獣は三体いて、三体ともが市中心部の同じ位置にぶつけられた。
月環同盟軍の重歩兵たちは、大楯の向こうで本能的に身を屈めた。後列の仲間が彼らの体を支えたが、星獣を押しとどめるには至らなかった。大楯はへこみ、
後列の兵が喚いた。彼の右手は、剣を持ったまま星獣の柔らかい胴にのめり込んでいた。左手で星獣の胴を押して右手を抜こうとしたが、その左手は星獣の体に吸い付いて離れなくなった。
星獣は、数人の兵士を体に引っ付けたまま、隊列の中央でのたうち回った。
ミラは製紙場の屋根の上で眉をしかめ、顔を背けた。山々の稜線に切り取られながら、新しい一日が東の空に緋の色彩を見せていた。
「私たちは西の通路を崩そう」
特殊部門あがりのクララが口を開いた。同じ屋根の斜面に、星獣討伐の令を受けて集まった自警団員たちが、静かな面持ちで立っていた。
「討伐後の誘導は?」
「ジェスティに任せる」
アズの質問に対するクララの答えを聞き、ジェスティは顔と体を強張らせた。彼女の背後で、助けを求める兵士たちの叫び声が続いていた。
「ジェスティ、お前は十六歳だ。あと少しで見習いを卒業する。一ヶ月か、二ヶ月か?」
「二ヶ月です」
「じゃあ、できるね。東西どちらかの通路が開いたと聞いたら、全ての見習いを率いて市民を誘導しろ。犠牲を覚悟するんだ」
できるね、とクララは念を押す。
はい、と応じるジェスティの顔は蒼白だが、覚悟があった。
「東側には誰が行く」
「俺が」
アズが即座に名乗りを上げ、誰もが当然のこととして受け入れた。同行者については今更問うまでもない。トビィもレミもアズのそばにいた。
クララは眉を片方大きく動かした。
「客人はどこさ」
「パンジェニーには後方支援についてもらう。彼女までここで死ぬ必要はない」
「ふん。まあ、いいんじゃない?」
星獣は、ものを言わなくなった兵士を引きずって、確実に製紙工場のある区画へ近付いてきていた。石畳を這う鎧の音が騒々しい。
残りの人員は、市民の避難経路の確保及びまだかろうじて機能を保っている保安局との連絡に回された。
アズと特殊部門の団員たち、ジェスティと見習いの団員たちが去り、後にクララとミラとが残った。二人は顔を見合い、視線を絡ませあった。だが何も言わず、互いに屋根伝いに歩き始めた。
どちらともなく早足になり、屋根と屋根の間を飛び越え、ついぞ走り出した。二人が駆け抜けたあとには、白い吐息が残った。足跡は屋根屋根の高低差を乗り越え、高い壁沿いに、
「まったく嫌になる」
市街戦の喧騒から一度は離れたものの、今度は星獣が行う破壊の音が近付いてきていた。
「罪にまみれた世の中だ」
十字路を、暗がりから天籃石の街灯の下へ、再び暗がりへと駆け抜けながら、息一つ乱さずクララが問いかけた。
「嫌にならないか?」
クララの後ろを行くミラは、腰に長剣を差していた。イスタル一門が伝授する
「クララ」
「なに?」
「あなたの考え方が好きよ」
二人の暗殺者は裏道を使わず、星獣を嫌って人々が逃げた後の通りの真ん中を走り続けた。
「どんな考え方?」
「悪への感性」
蹂躙される兵士たちの断末魔が、今度はうんと近くで聞こえた。
「昔話してくれたこと、覚えてる」
「私が大したことを言ったっけ?」
「昔のことだけど、大人になったら人を殺さなきゃいけないことについて」
通りが湾曲する箇所に差し掛かった。最短距離で進むべく、クララは地を蹴り、塀を掴み、よじ登った。冷えて感触のなくなった手で、今度は屋根の縁を掴む。
「覚えてないかもしれないけど、あなたこう言ったの。『罪にまみれた世であれば、悪をしない人間は何もしない人間だ』と」
「覚えてないね」
本当は覚えていた。
「でも、私が考えそうなことくらい自分でわかるよ」
私たちは必要悪。
その信念は、十代の少女の頃から変わっていない。
善を守る悪が必要なら、罪が悪を必要とさせるなら、悪を行おう。
必要な悪をしないのは、単に善をしないよりなお悪い。
生きながら死んでいるのだから。
「私たちは
後ろをついてくるミラの声に、振り向かないで問いかけた。
「なぜ罪人かわかる?」
「わかるわ」不意にミラの声が低くなった。「必要だからよ」
後方からの破壊音。兵士たちだけではない、子供たちの声も混じる悲鳴に、二人は揃って足を止めた。直線に進んでいる。通りの終端まで、道のりは半分を過ぎている。だが、予測以上の早さで市の内側に食い込んでくる騒動を無視できなかった。
「追ってきてるね」
何らかの勢力が星獣を排除しようとすることを、連盟軍はわかっているはずだ。耳をすませば、進行方向からも怒号、剣の音、泣く声が聞こえてくる。
月環同盟軍の兵士たちもまた、星獣を排する努力をしているのだ。
連盟軍は星獣部隊の合流を急いでいるのだ。ミラの肩越しに、クララは人間が噴き上がるのを見た。ミラが振り向いたときには、ちぎれた人体の一部や臓物が、結婚式の花びらのように路上に落ちていくところだった。
緑の燐光が、路上から屋根の上に伸びてきた。星獣は、暗殺者たちがとうに知っていることに気がついたようだ。道は、地上にのみあるわけではないのだと。
星獣は、地上を移動するときと同じように、体の下側で地面を蹴り上げた。屋根の縁で逆立ちする形となった。その体は、柔らかい肉に埋もれた死者と負傷者の人体を鎧のように纏い、原型をとどめていなかった。
顔を星獣の肉に埋め、窒息した者がいた。
片足だけの者。
鎧の中で全身が潰れている者。
星獣に引きずられるうちに、関節が外れ、首が異様に長くなった者。
まだ命があり、呻いている者もいた。
その者を下にして、星獣は己の体を屋根に叩きつけた。震動があり、スレートが何枚か砕けた。
路上からは、士気高い日輪連盟軍の兵士たちの鬨の声が迫り来る。
星獣が進んだぶんだけ、後続の兵が前進しやすいということだ。
ミラの手が腰の長剣に置かれた。
「行って」
星獣はすでに二人に気付いている。目がどこにあるかは知らないが、のたうち、金属のこすれる音を立てながら二人に迫ってくる。歌が聞こえたのはその時だった。兵士や市民の骸が付着せず、むき出しになった体の前半部。そこに刻まれたサンザシの紋様が歌っているのだ。
「一人で残るつもり?」答えがわかっていることを、それでもクララは尋ねた。「死ぬの?」
「追いつくわ」
「無理だ」
少し離れた路上で、誰かが声をあげた。「おい! なんでそっちに行く?」
声は続いた。「そっちに何があるんだ?」
戦闘が続いているにも関わらず、声は星獣がいる屋根の真下あたりで聞こえた。ミラは死骸で覆われた半身を持ち上げる星獣から目を離さず、首を横に振った。
「
クララはミラの張り詰めた横顔を見つめたが、ミラはクララを見なかった。ここで戦って死んだら、もう二度と見れないのに。
「ミラ」
「行って!」
クララは立ち去る前に一言だけ告げた。
「約束破ったらぶっ飛ばす」
ミラはクララを見ないままだったが、浅く頷いた。クララが背を向けるが早いか、鞘から剣を抜いた。クララは走り去る。屋根屋根を飛び越え、途切れる地点にたどり着くと、見えない翼を広げたかのように路面に降りた。その先は長い上り階段。
階段を上るほど、周囲の家々は大きく頑丈になり、戦闘の声と物音がよく聞こえるようになる。
上のほうに
十歳前後の少年たちだ。階段のど真ん中で、農具や斧を手に、思いつめた様子で輪になって話している。
「どこに行くつもりだい!」
クララは、その時になって夜明がきたことに気がついた。少年たちの悲壮な顔が見分けられるからだ。彼らは体をビクつかせ、一斉にクララに顔を向けた。
「もう一度聞くよ」走るのをやめたクララは、一段ずつ階段を上って距離を詰めた。「どこに行くつもりだ?」
「この先に星獣がいるんだ!」
一人が答えた。いかにも根性のありそうな少年だった。
「近付いた大人はみんな食べられた。あいつをやっつけないとみんな逃げられないんだ!」
「知ってるよ。でもそれは大人の仕事だ。どきな」
少年は斧を両手で握りしめ、胸に押し付けるような姿勢をとった。泣きそうな、だが怒りを込めた目でクララを見つめ返す。
「どけ!」だが、クララが怒鳴りつけると竦みあがった。「ガキに戦って死ぬ権利はねぇんだよ!」
一番気の弱そうな子供が道を開けた。すると、他の子供たちも階段の端に動いた。リーダー格の少年だけが、歯を食いしばって立ち尽くしていた。クララはその横を通り抜ける。雪雲の薄くなったところが赤く染まり、また一段と周囲が明るくなった。が、同時に雪も降り始めた。
階段を上りきり、商館にたどり着いたところで振り向いた。視線は少年たちを素通りし、階段の下に広がる長屋と集合住宅の、屋根の波に向けられた。傷つきのたうつ星獣、星獣を傷つけた女、そして、屋根に上って矢を引く兵士たちが見えた。四方から無慈悲に矢が射かけられ、一本、二本、三本とミラの体を貫いた。
倒れたミラの体が長屋の屋根を滑り落ちていく。
クララは、またしても、彼女に背を向けなければならなかった。
残る道のりはあと僅か。
「ミラ」
その道を、駆け抜ける。水色の髪のきらめきと、叫び声とともに。
「ミラ!!」