本当の姿
文字数 4,592文字
ふと気がつけばリレーネは月に関するひどい夢想に取り憑かれていた。眠りかけていたわけではない。馬の
シンクルス率いるヨリスタルジェニカ神官団は、西回りの大道路を通って都の中枢へ攻め入ろうとしていた。その経路に星獣兵器が配備されていると、都解放軍から情報が入ったからだ。リレーネとリージェスはその行軍、最後列の指揮部隊に同行していた。
空は晴れていた。天球儀の網目の向こうに冴え渡る星々の輝きは冷たく、掴めば永久に凍りつくことになりそうだった。
地上に目を戻せば、大道路沿いの建物は四階か五階建の石造りで、
ときどき夜の暗闇を行き来するのはゼフェルの後継軍で、日輪連盟軍が引き上げたこの地区にいながら、どういうわけだか我が物顔で歩き回ろうとしない。悪企みする子供のようにこそこそしている。
「リレーネ」隣のリージェスに呼ばれた。「何を考えていた?」
ずっとぼんやりしていたことに気付かれていたのだろう。なんとなく意識に引っかかっていたことをリレーネは口にした。
「不思議に思っていたのです」
「何を」
「あの月を私たちが見つけたのは偶然ではなくて、月が私たちを選んでやってきた。時空を超越してやってきたのが必然ならば、そう考えるのが道理ではありませんか?」
「だとしても関係ない」明らかに怒りを堪えている声でリージェスは言った。「ここは俺たちの世界だ。月の世界じゃない」
それが聞こえたのか、前にいたシンクルスが手綱を緩めてリージェスの右横に馬を並べた。そして尋ねた。
「月がほしいと願ったことはあるか」
リレーネは、その質問を予期していた自分に驚いた。何が気に障ったのか、リージェスが反抗期の少年のような態度を見せる。
「それが我々に関係のあることでしょうか、正位神官将様」
北方領を出て
だがリージェスは何も変わっていない。
そう……変わっていない。リレーネはものの見方を変えた。静かに。リージェスは北方領からずっと変わらずに、諦めず、投げ出さず、守っていてくれた。これからも守ってくれるだろう。
そうですよね?
視線で横顔に問いかけるが、リージェスは神経を尖らせてシンクルスの言葉を待っていた。
「壊れた太陽の王国の語歌は、姫君が月を手に入れるまでの物語だ。姫君も、騎士も、神官も、共に月がほしいと願ったのだ」
リレーネは尋ねた。
「シンクルス様も、月がほしいと願ったことがあるのですか?」
「ない」
嘘を言っているようには見えなかった。
「だが、語歌にある姫君がリレーネ、そなたであるのなら、あれは一度でもミスリル殿のものになるべきではなかったのだ」
「こうなってしまった今、私たちはどうすればよいのでしょう」
「月がほしいと願っても、
シンクルスは一度目を閉じ、大きく息をついた。開いた目をリレーネに向ける。
「過去に月がほしいと願ったことなどない、という可能性を実現できるなら……」
「いいや」
リージェスが即座に遮った。
「俺は
「今は……」リレーネはきっぱりと首を横に振った。「いいえ」
そのとき、行軍の前列の歌が、悲鳴と怒号に変わった。
※
二十一時となっていた。星獣祭最終日が終われば年が変わる。あと三時間で新年だ。その時間まで、リグリーはもちこたえていた。階段の上に伏せ、バリケードの隙間から射撃を浴びせて、月環同盟軍が保安局本部に到着するまで耐えぬいたのだ。
「コルが」
アセルが久しぶりに見るリグリーの姿は、痩せこけやつれていた。だが救出された彼女の目にはしっかりした光があった。
「月環同盟軍を襲う可能性があるわ」
アセルは胸ぐらを掴む勢いで尋ねた。
「どういうことだ」
「同盟が星獣兵器を破壊する方法を知ってるのなら、星獣兵器を守るために同盟を攻撃するかもしれない。十分あり得ると思うの」
「情報には感謝しよう。だがどうしてそれを私に教える?」
「懲りたのよ」リグリーは壁にもたれて額に右手の甲を当てた。「私、もうゼフェルは抜ける。平和の実現っていうのがどういうことか、一から考え直すことにするわ」
「そうだな」アセルは同意した。「まずは戦争がどうして起きるのかを勉強したらどうだ? 幸い君は字の読み書きができる。学べ」
城壁の最初の門が破られてから、丸一日が経過していた。月環同盟はいよいよ都の心臓部に到達しようとしていた。
総督府に続く二本の橋、裏切り者や人質たちの亡骸で埋め尽くされたそこでは、なんとしても橋を通行可能にするための戦いが行われていた。橋と運河の両岸から射撃の応報が行われて、月環同盟軍はこれに投石機まで持ち出した。重歩兵の支援のもと、橋から運び出された生首が近くの公園に運び出され、並べられるという、陰惨な作業が行われた。
射撃にも作業にも加わっていない数人が、死体を検分しに公園に来ていた。やがて、そのうちの一人が悲鳴をあげた。プリスだった。
プリスは泣き叫びながら後方の暗闇へ姿を消していった。
さらに後方。シルヴェリアのもとにはエーリカの侍従が一人、送られていた。
「で、総督府への帰還セレモニーを開催するから私に来い、と」
下馬した騎兵隊を率いて、つい一時間前まで最前線にいたのだが、今は前線を交代して休息を得ていた。解放された区域で、染め物屋の前の荷車の後ろに腰を下ろしていたシルヴェリアは、そばに立つフェンと愉快な視線を交わした。そして、同時に声を上げて笑い出した。
笑いがやむのも同時だった。
「貴様が来い!」
指揮杖が舗道を打つ。侍従は何も反応せず、シルヴェリアの次の出方を待っていた。
「エーリカめ。器用に立ち振る舞って私のご機嫌取りをしようとは、見損なったぞ、雌犬め」
「エーリカ殿下は雌犬ではございません」
侍従は丁寧に、だが堂々と言った。エーリカを子どもの頃から見てきた人物なのである。
「エーリカ様は南西領から日輪連盟の勢力を、母パンネラ様もろとも排除するおつもりでございます。もちろん、星獣兵器もです。二度と星獣兵器が作られない世界の実現のために最善を尽くそうとしておられるのです」
「簡単な道ではないぞ」
「はい。その道の最初の一歩として、シルヴェリア殿下との和解を望んでおられます」
シルヴェリアは膝に肘をつき、拳を顎に当ててしばし考えた。
「エーリカに伝えてやれ」
シルヴェリアは妹を試すつもりだ、と侍従は考えた。
「ゼラは私が捨て駒にしてやった、と」
重ねて言う。
「私がゼラに、死ねと言ったのだ」
侍従は言葉を詰まらせた。だがシルヴェリアは容赦しなかった。
「必ず伝えよ」
※
俺の役目は終わったと、ハルジェニクは感じていた。月環同盟はここまできた。都解放軍を構成する軍人たちは、元より良い地位に返り咲くだろう。俺は? ただの画家だ。できれば命を狙われない画家になりたい、売れなくていいから。
日輪連盟軍に処刑された同志たちの遺体が並べられる公園の、片隅の林でハルジェニクは座り込んでいた。ヴァンの首を確認したばかりだった。一杯引っ掛けなければやっていられない気分なのに、酒のことを考えるだけで胸焼けがする。
ヴァンはハルジェニクの命を救ってくれた。いい奴だった。プリスが逮捕されたときには危険を犯して駆けつけてくれた。
ヴァン……。
「ハル?」
へつらうような声が間近で呼びかけた。
「ハルジェニクだよな?」
人がすぐそばまで来ていることに、全く気がついていなかった。枯葉や小枝を踏む音がしただろうに。いや、少し離れた橋で行われる戦闘の声や物音すら意識になかった。
天球儀の光の下、葉を落とした木立の影の中に、ハルジェニクはその人物を見た。画材屋のドロウィンだ。
「なんだてめぇ」
ハルジェニクは木にもたれかかり、両膝を立てて座った姿勢のまま相手を睨みつけた。
「あ、あの、緑色の顔料さ、全部買っていったよな」
「殺されたいのか」
「いやいや、あの、あれを何に使ったのかなと思って」
「てめぇには関係ねぇ」
ドロウィンが震えていることに、ハルジェニクは気がついた。既に囲まれていることにも。
「ところがどっこい」木陰から、二人の手が同時にハルジェニクの両腕を捕まえた。「俺たちには関係おおありなんだよな」
ドロウィンが目配せをすると、日輪連盟軍の将校の制服を着た男が木陰から現れた。殺し屋たちの将校。それを見届けると、ドロウィンはコソコソと走り去っていった。
友人と呼べるのはヴァンのような奴だったのだ。ハルジェニクはしみじみと思った。ドロウィンのような、かつてつるんでいた芸術家気取りどもじゃなくて。
「連盟の敵は」将校はハルジェニクの眼前に立つと、尊大な口調で言った。「どういう目に遭うか、教えておかねばならん」手には対重歩兵用のメイス。「都に戻って来る日のためにな」
「そんな日は来ない」
将校が足を上げた。直後、顔面に衝撃を受けた。痛いと思うよりまず視界が真っ暗になって、脳が揺さぶられるのを感じた。痛みが来るのはその後だ。呆然としていると、垂れてくる鼻血の生温かさがわかるようになってきた。
目を開けたハルジェニクに、将校は笑った。
「プリシラ・ホーリーバーチ少尉はどこかね?」
ハルジェニクはなんとか口を開いた。歯が何本かいかれていた。
どう答えるか考えろ。勇気とはどういうものか、ヴァンが教えてくれたじゃないか。
「笑うな」ハルジェニクは睨みつけた。「歯ブラシに興味のなさそうな歯を見せるのをやめろ」
「ふむ」
将校は笑うのをやめた。
「君は私の靴を舐めたいかね?」
ハルジェニクは考える。考える。勇気とはなんだ?
せせら笑った。
「オリジナリティって言葉知ってるか?」
ため息。
メイスが振り上げられるのをハルジェニクは見た。目を開けていられたのはそこまでだった。再び脳みそが揺さぶられ、自分の頭蓋骨が砕ける音を聞いた。
「こいつどうします?」
殺し屋が尋ね、殺し屋が答えた。
「両目を
それで終わり。もう何も見えない。何も聞こえない。ただハルジェニクは、本来自分は神官将サマになるはずだったことについて考えていた。
これでよかったんだ。こっちが俺の本当の姿だったんだ。プリスを守ってここで死ぬのが。だから、どこか別の宇宙とやらで俺が罪を犯したとしても、プリス、許せ――。
急速に薄れていく意識の中でハルジェニクが最期に感じたのは、誇りと喜びだった。