全軍、蜂起
文字数 3,330文字
――ガシャン!
都を守る城門の一つ、金獅子門。その内部の小部屋で青ざめた兵士たちが順次、嘔吐し始めた。緑色の吐瀉物が床と言わずテーブルと言わず撒き散らされ、什器は落ちて割れ、あるものはテーブルに伏して、別の者は力なく横たわり息を喘がせた。
遅れて食堂にやってきた兵士たちは異変を目の当たりにし、血相を変えて仲間を呼びに行った。
「手の空いている者は全員来てくれ!」
金獅子門の守りが薄くなると、門に近い建物の屋上で赤い
城壁前の立坑は全て埋め立てられたわけではなかった。それでも月環同盟軍は攻城戦を開始した。
歌いながらの攻戦。
歌っているのは後方の非戦闘部隊だが、城門の付近に星獣兵器は配置されていなかった。金獅子門の内部は大混乱となっており、紛れ込んでいた都解放軍の五人一組の決死隊が、城門を出て、水堀にかかる跳ね橋を下ろしにかかった。
シルヴェリアの命令通り、都解放軍が「内側から城門を開いた」のだ。
破城槌が跳ね橋を渡り、最初の一撃を閉ざされた門にお見舞いした。
※
都解放軍のアセルはというと、この期に及んで市街地での一斉蜂起を躊躇していた。
「歌ってはならない! 市民は家に戻れ! 歌ったり踊りをする者はみな殺すとの通達が出た!」
まさに星獣祭の歌と踊りを披露するために集まった市民の団体を相手に、保安局員たちが舌を振るっていた。歌う者があれば、剣が振るわれるだろう。星獣兵器が都の中心部に重点を置いて布陣しているからだ。
日輪連盟軍はコブレンでの勝利にしがみついているのだとアセルは考えた。コブレンから星獣兵器と兵員の補充がこないなら、市街戦への星獣兵器投入は意味がない。民間人の犠牲を払ってでも都の機能を守り通すというのならまだ軍事的正当性もあるが、星獣兵器の投入自体が目的となっているのなら、これほど馬鹿げた話はないだろう。
保安局本部を日輪連盟軍に包囲されている件も気がかりだった。停戦が破られたせいで、リグリーたちは事実上の人質となっている。一斉蜂起は彼女たちを見捨てることを意味していた。
決断の時は刻々と迫ってくる。
※
粉雪混じりの大気は煙臭く、埃っぽかった。都の外側で投石機が唸るたびに、城壁が抉れ、埃っぽさは増した。
城門の内側では、食堂で砒素中毒に倒れた連盟の兵士が金獅子門から担ぎ出され、予備部隊がそれと入れ替わろうとしていた。
それを阻止しようと隊列に連弩の斉射を浴びせたのは、ゼフェルの後継軍の、わずか十五人の反徒だった。彼らがたちまち斬り伏せられ、沈黙させられている間に、城門の外側では、日輪連盟軍の旗が引きずり下ろされていた。
雪雲の夜空を背景に、まず跳ね橋に、次に金獅子門の外側に、シオネビュラ神官団の星雲旗が翻った。続いて城壁の最も低い位置にある瞰射用の小窓から、月環同盟軍の旗が垂れ下がった。
もう一つ上の階の窓からも。
さらに上の窓からも。
城壁上に立っていた日輪連盟の弓兵たちは、降伏し、冷たい歩廊に伏せていた。歩廊は
現時点で、月環同盟軍が破った門はこの金獅子門のみ。
「逃げるな! まだ押し返せる!」
金獅子門の出口、すなわち都内部へと、月環同盟軍の先鋒部隊が雪崩をうって入城してくる。押し戻そうというのは無理な話だった。同盟の兵は、味方を圧殺する勢いで次から次へと押し寄せてくるからだ。
同盟軍の兵力は、金獅子門から都内部へと放射状に分散し、最前列の表面積が広がるにつれて防戦する日輪連盟軍の部隊の壁は薄くなっていった。しかもこの壁は、ゼフェルの後継軍との挟み撃ちにあっていた。星獣祭が始まって四日目だった。停戦の話は、なかったことになっていた。
日輪連盟軍は、歌に耐性のある一般の星獣をゼフェルの後継軍に対して投入していた。
「強攻大隊が間もなく駆けつける! それまで持ちこたえろ!」
勇敢な将校が声を張り上げる。その足許の石畳は雪と血が混じって泥のようで、負傷兵が後方へと引きずられていく。誰も担架を用意するような余裕はなかった。市民たちは家の閂をかけ、閉じこもっていた。だが誰かが叫んだ。
「火事だ! 逃げろ逃げろ!」
真偽を確かめる
「火事はどこだ!」
こうして市街の主要道路は日輪連盟軍と月環同盟軍、ゼフェルの後継軍と無辜の市民が入り乱れ、混沌たる様相を呈した。
小さな子供が何故だか水瓶を抱きしめて、道端に座り込み、泣き喚いていた。孔雀の星獣を連れた歌流民の女が雑踏を縫い、子供の前を通り過ぎた。女は角を曲がり、その路地に潜んでいた後継軍の一団の背後に立つと、歌い始め、反徒たちの気を引いた。
ゼフェルの反徒たちは、振り向いた途端に孔雀の星獣の尾羽、蠢く目玉模様に魅了され、夢見心地に崩れ落ちた。
歌流民の女の歌は、唐突に止んだ。ゼフェルの後継軍の腕章を左腕に巻いた一人の少女が、ダガーを女の背に突き立てたのだ。女の体は硬直し、数秒して、膝から崩れ落ちた。女は最期に笑おうとして口から血の泡を吹いた。
後継軍の少女を、駆けつけた日輪連盟軍の兵士が背後から斬り伏せた。少女が息絶えるまでの一部始終を、都解放軍の指導者アセル・ロアングは、近くの邸宅の塔から見ていた。
少女の死がアセルの心を決めさせた。
「狼煙を上げろ、ミルト中佐」
アセルは塔の小窓から離れ、小部屋の中央に立っているリャン・ミルトに決然と告げた。
「都解放軍、全軍、蜂起だ」
都解放軍、蜂起!
そのとき大通りでは、本当に火災が起きていた。火の手から逃れようと運河に殺到する市民の前で、無情にも跳ね橋の巻き上げ機が巻かれ、退路が閉ざされた。
火災の煙と蜂起の赤い狼煙が市街に渦巻いた。都解放軍のアイオラ・コティー中尉とアウィン・アッシュナイト中尉の二人は、金獅子門の西隣となる騎士王門の近くの鐘楼で赤い狼煙をあげた。月環同盟軍に向けられた、こういう意味の合図だ。
『今、この門の守りが薄い』
「誰も歌ってはならない!」
混乱のさなかで、保安局員はまだそ叫びながら市民を運河沿いに移動させようとしていた。だが、どこが安全であるかは、彼自身にもわかっていなかった。
エルーシヤは火と戦闘から逃れようと泣き叫ぶ人々を見ていた。声に色が見えた。ひび割れた真紅だった。
一人の男が運河に身を投げた。つられて二人、三人と冷たい水に身を投じる。彼らは泳ごうとし、一人は運河の中ほどまで泳ぎ得た。だがそこで水の冷たさに力を奪われて、流されていくままとなった。その様子を見ていた女が一人、泣き崩れた。
その女に、流されていった人々に、エルーシヤは唇を開く。
『意味を、意味をください』
民衆は煙から逃れ、少しでも風下に行こうと走り出した。
『勇気と善意を私にください!』
その人の流れの傍で、エルーシヤは歌った。ドレスの裾をつまみ、ひらりと一回転。
『神様、勇気と善意を私にください』
誰にも教えられていない歌を歌ったところで、エルーシヤの声は力を奪われてはいなかった。歌声で誰かが勇気を取り戻し、隣人たちに叫んだ。
「逆だ、風上に逃げるんだ! 煙が薄いうちに!」
歌うエルーシヤを意識に留めているのか、いないのか、人の逆流が始まる。
ああ、自由に歌ってもよかったのだ。
自分の言葉で歌ってもよかったのだ。
このことに、好きに歌ってよいのだと、もっと早くに気付いていればよかった。
「歌うな! 星獣兵器に影響が出る、今すぐ歌をやめよ!」
歌い踊るエルーシヤのもとに、日輪連盟の兵士が駆けつけた。構わず踊り続けるエルーシヤを捕まえ、両肩を掴んで激しく揺さぶると、兵士は強い口調で言った。
「何者も歌ってはならないと聞いていないのか! 身勝手に歌う者は連盟の敵と見做すぞ!」
エルーシヤは歌うのをやめ、汚れなき瞳で殺気立つ兵士の両目をじっと見返した。
そして、口を開いた。
自由に、自分の言葉を。
それは歌ではなかった。
「私は神に